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現在と未来

 

 カントという哲学者は異様にわかりにくい人で、困ったものなのだが、簡単に言うと主体性、自由というのを極端に重視した哲学者ではないかと思う。中山元の解説書のタイトルは「自由の哲学者カント」となっている。


 僕は今の時代ほど、個人から主体性や自由が奪われた時代はないと思っている。しかし同時に、これほどまでに主体性や自由が喧伝されている時代もないと思っている。その二つはピッタリくっついている。我々は我々の自由や希望を一秒ごとに、あらゆる媒体を通じて叫ぶ。それと共に我々の閉塞感も増していく。


 大学や企業の宣伝文句に「常識を捨てる」というような言葉が使われる。もちろん、彼らは常識を捨てはしない。答えはその逆だが、その答えは表面上「常識を捨てる」というような標語に現れたりする。こうして、我々は無個性でありながら同時にその個性を「多様性」と認められる、そんな泥沼的世界を構成していく。


 カントの言う主体性は、とてつもなく極限的なものである。我々は悪を成す自由、とは言わない。我々は、希望という言葉を例えば、誰にも認められはしないが己自身にとって真実であるような「希望」とは決して考えない。口先ではそう言う事もあろうが、本気では考えない。我々にとっての自由、希望、人権というのは陳腐化した。自由は、定められた自由の事を言っている。自由になろうとする、夢を叶えようとする、こうしてますます世界のからくりに取り込まれていく。自分が籠の中の鳥になっていく。この籠は綿密に織られていて、自分の魂の外皮すら構成している。


 我々はこの籠の外にどうやって出られるだろうか。あるいはそもそも「外」は存在するのだろうか? そんなものはないのだろうか?


 自分は今の世の中にあるコンテンツのほとんどを「サブカルチャー・エンタメ」だと思っている。そう思った方が気が楽なので思っているのだが、もちろん例外はある。例外を除けば、全ては「サブカルチャー」的なものである。この区切りは全て自分の定義なので、語感から想像される人は反発を覚えるだろう。


 村上春樹「多崎つくる」川上弘美「センセイの鞄」を読んで、作者が理念的に思考していなければ、現実との葛藤がなければ流れていってサブカル的になるという現実を自分なりに確認した。自分がサブカルだと言うのは、社会に受け入れられようとするコンテンツの全てである。ちなみに、自分はサブカルチャーを馬鹿にしたり軽蔑したりするつもりはない。その海の中で、そういうものと同化して育ってきた世代なので、馬鹿にする事すら不可能という感じなのだが、同時にそれらが全てでいいのかというのが疑問があるという話だ。


 僕は、人々の無意識的な理念を、作者の方でも無意識的に読み取り、そこに適合しようとする所作は基本的にサブカルチャー・エンタメであると考える。これは、表面的には商業主義・市場重視というようなものとして現れる。そこでは、人々が母なる母胎として存在していて、そこに接続し、回帰するのが願望として述べられている。そこに物語のパターンがあり、心地よいメロディがあり、好ましいキャラクターがあり、道徳的に嫌悪されるものは排除されるとか、その集団の好む政治的趣向が現れる。


 これら全てが様々に形を変え、様々な個性と言われて、人々に包摂されていく。そこでは、つまり、人々の無意識的な理念そのものを越えようとする個性は個性とは認識されない。それは「無視」される。それは存在しない。我々は本当に個性のある人を「へんな人」と見るだろう。どんな奇天烈な服装、どんな奇態な性格もネットでは面白おかしく取り扱ってくれるが、真の個性はWEBには載らない。


 しかし、こんな疑問も起こるだろう。そもそも、そのような問いは可能なのか? 人々の集合精神に適合するものはサブカルであるとしても、サブカルでないものは存在するのか? 即ち、それを越えようとするものはこの世に存在しうるのか?


 僕はそういうものを、例外的に()に入れて考えている。つまり、ミシェル・ウエルベックとか伊藤計劃、感覚的な拒否ではあろうが、神聖かまってちゃんもその一つだと感じている。ここにおけるニヒリズム、または幼い自己主張は世界そのものが一つに固まってきている事から認証される個性ではなく、認証されざる個性を求めるが故に疎外され、孤独になるようなそうした体験が作品に込められているのだと思う。世界が救われても自分だけは救われたくない、というような願望がある。あるいはそう見る。


 我々の文化はまだ幼い。自分は最近、北村透谷や石川啄木を読んで、彼らが理想と現実の狭間で苦しみ、夭折した、それが他人事でないのを理解した。当時は東京帝国大学のような場所を中心としたごく一部の場所に日本の知識人が集まり、彼らはそれぞれに旧秩序から脱しようとしている自分達を感じた。その当時は大抵農民だったろうし、都市で西洋の知識を吸った人間とそうでない人々との断絶は激しかったに違いない。現在における断絶はそれとは違い、二重化された世界として認められる。それはポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアに代表されるような世界に対する「虚しさ」の感覚だ。


 ペソアが表面的にはずっとサラリーマンだったように、現在では、次なる世界を感じ取り、理想を抱いて生きている者も、表面的には普通の人であるのだろう。以前のように、一部の知識人がペテルブルグとか東京とか、そういうはっきりした場所に集っているのではなく、また「知識人」が大学の教師であるのでもなく、作家でもなく、むしろごく普通の人、あるいは底辺の人の中に本物の「知識人」が眠っていて、彼らはこの世界の中で何らかの形で自分の世界と世界が規定した世界との差異に苦しんでいる。


 彼らーー我々は全く独自に世界に違和感を感じ、それぞれに自分の道を行こうとしているだろう。それは、世界に適合する為の努力ではなく、世界から脱しようとする努力であるだろう。だが、この道は現在あまりに不透明であり、世間的には存在しない事になっている。世間の上には、ホリエモンや落合陽一が「天才」として現れる。もちろん、この世界の傾向性においては、「小才」を「天才」と呼ぶのが丁度良いからそうなるわけだ。


 常に始まりは始まりではないような形で始まり、いつの間にかそれが重要なものであると、ある日突然にわかる。自分は世界の在り方に疑義を呈して、自分の道を行こうとするものーーそこに主体性を見出したい。この主体性・自由は既存の主体性を否定するものだから、彼は「ネガティブ」な「怠惰」な人間に見える事がしばしばある。だが、彼が怠惰であるのは、彼が不自由だと感じたものについての努力は節約したいからにすぎない。我々は自由である、と思う事から不自由は始まる。思えば、カフカやペソアといった表面的には普通の人間だった人達がふと漏らした淋しげな詩人の笑顔…それは我々が都市の中で、生活の中で漏らさざるを得ない表情に通じるものがある。


 我々は世界を生きる。だが同時に世界を生きない。現在を脱して未来へ赴こうとする。ここに、現在が規定する未来像からの疎外がある。逸脱がある。未来は予想もしない形でやってくる。自分は未来を、全く未来とは思えないものの中に見たい。これから未来を作っていく人々はきっと、我々が全くそんな風に想像もしなかった人々であろう。最先端のテクノロジー、テストで高得点を取った者、そういうものとは「違う」ところに未来はあるだろう。だが、それを未来と呼べるのかどうかはわからない。全てはまだ始まったばかりであるが、本当に僕の言うように何かが始まっているかどうかはそれこそ、未来の人間の判定に委ねられるだろう。どのみち、我々はいましばらくは、世界との断絶に苦しみ続けなければならないだろう。表面的にはごく普通の社会人の表情を装いながら。




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― 新着の感想 ―
[良い点] いつもながら考えさせる内容。 サブカルチャー、エンタメについて言及されていて、私もそこのことを気にしていたこともあります。結局、私などは自分自身を価値観の混乱した人間であると結論してしまっ…
[一言] 子供の頃を、思い出しました。玩具を広げて、あっちでこれを、こっちではこれを、何か言われても止まらない感覚です。 でも、好きな物が出来た瞬間から、お行儀良くなるんです。それに熱中し、頭の外側に…
[一言] 毎回、唸らさられる考察と洞察、楽しみにしてます。 >真の個性はWEBには載らない。 ……と、綴られていますが、ヤマダヒフミ先生はこれほどの自己を持って書かれている。 疑問なのですが、どうして…
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