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道はどこまでも続く

 沙希がオーディションに参加してから二週間。『仕掛け』をした張本人の菅桜はアイドルとしての仕事が忙しく学校にはほとんど来ていない。その間にもオーディションは進んでいき、沙希は二次審査を一位と僅差の二位で突破し、決勝進出の七人の中に入っていた。桜の言った通り、最初から決まっていたことなのかユキトたちには確かめようもなかったが、芸能界で仕事をする桜たちが認めるほどの可愛さである沙希が決勝進出の七人の中に残っていることに違和感はない。決勝進出に合わせて撮り直された沙希のプロフィール写真は若干の硬さがあるもののプロの手によって可愛らしく撮られており、優勝してもおかしくないほどの存在感を示していた。

 その一方で学校での沙希はいつもと変わらない。毎日学校へ登校し、真面目に授業を受け、帰る。ごく普通の高校生としての生活を送っている。

 放課後になり、ユキトが下校を始めると校門を出たところで少し先を歩く沙希の姿が目に飛び込んできた。いつもなら沙希に追いついて声をかけるが、なんだか話しかけ辛く、ユキトの歩く速度はむしろ遅くなり無意識に距離を取ろうとしてしまっていた。

 しかし、不意に振り返った沙希がユキトに気付いてしまった。沙希はユキトに気付いても特に何を言うでもなくまた前を向いて歩き始めたが、その歩みは先ほどよりもずっとゆっくりとなり、自然とユキトとの距離が近くなってゆく。距離を取ろうとあえてゆっくり歩いていたはずなのに、ユキトはいつの間にか沙希に追いつき、その隣を歩いていた。

「二人で帰るのって久しぶりだね。中学の時以来かも……」

「そうだっけ。言われてみればそうかも」

 高校生になってからは桜たちと一緒のことが多く、二人で歩くのはいぶんと久しぶりだなとお互いが感じていた。だからこそ、なんだかよそよそしくなってしまい、ユキトは何を話したらいいのかわからず会話を途切れさせてしまいがちだ。

 そんな中、ぽつり、ぽつりと続く会話の中で沙希がオーディションについて話し始めた。

「……私が決勝に残ったの、知ってるよね?」

「ああ」

「びっくりしちゃったよ。絶対二次審査で落ちると思ったのに。それがまさかの決勝進出だもんね」

 気恥ずかしそうに笑ってみせる沙希の顔がユキトの視界の端でかすかに揺れる。オーディションの決勝は明日に迫っていた。

「……受かったらどうするの?」

「私には無理って言ったのユキトでしょ。受かるわけないよ」

「だから、もしもの話」

「んー、受かったらかぁ……どうなっちゃうんだろう」

 沙希は考えるように空を見上げ、黙ってしまった。

「自分が芸能人になるなんて考えたこともなかったんだな」

「そんなことないよ。私だって女の子だし子供の頃とかアイドルになりたいって思ったりしてたよ。キラキラした服を着て、あの眩しいステージに立てたらなぁって」

「へえ……」

「でも子供の頃の夢と今の自分が考えることじゃやっぱり違うのかな、今の私がアイドルや女優をやってるところなんてピンとこないよ。フリフリの衣装とか絶対似合わないし」

 ユキトは沙希が可愛らしい衣装を着てステージに立つ姿を思い浮かべてみた。沙希が口にしたのと同じようにピンとこない感覚がユキトにもあったが、それは可愛い衣装が似合わないというものではなく、いつも隣にいた沙希が芸能人になっているということに対する違和感だった。

「まあこんな機会は二度とないと思うし、明日は貴重な経験をさせてもらってくるよ」

 落ちる前提で話す沙希はプレッシャーなど感じていないのかずいぶんとサッパリしていてユキトの言葉にも気楽に笑ってみせた。そんな表情を見ながらユキトは桜から聞いた出来レースのことを思い出していた。本人の希望とは無関係にオーディションで合格してしまった時、沙希はどんな顔をするのだろうか。こうして隣を歩く沙希が桜たちのように仕事でいなくなったら自分はどんな顔をするのだろうか、ユキトはそんな事をぼんやり考えていた。





 翌日。

 沙希のオーディション決勝の日を迎えた朝、教室では沙希を取り囲む桜たちの輪があった。

「いよいよだね」

「がんばって! 沙希ちゃんのこと応援してるからね!」

 麻衣や更紗、いつもの面々が沙希に声援を送っている。

「早退届は私が先生に出しておいてあげる。受かったらこの早退届を出しまくることになるから何枚も持っておいた方がいいよ」

 更紗は沙希が手にしていた学校への提出用の早退届を受け取るとそう言って冷やかした。

「あはは、早退届は今日の一枚だけで十分だよ」

 そんなやりとりの中、その場にいる桜だけはどこか浮かない表情をしていた。沙希の隣の席でボケっと座るユキトに何か言いたそうにチラチラと目をやる。ユキトもその視線に気づいてはいたが何の反応をするでもなく、ただ退屈そうにスマホの画面を覗き込んだ。

「ほら、若木君も応援してあげて!」

 誰よりも楽しそうな麻衣がハイテンションでユキトの肩を掴んで揺さぶった。

「電車間違えるなよ、乗り換え駅、かなり広くて歩くぞ」

 ようやく沙希に声をかけたユキトが手にしたスマートフォンには駅の乗り換えアプリが表示されていた。

「わかった。ありがとう……じゃあ、行ってくるね」

 沙希はそう言い残し、廊下へと消えていった。

「校舎の下通るよね、窓から見送ろ!」

 沙希が教室を後にするとすぐ、麻衣が更紗の手を取り窓へと駆け出した。沙希がいなくなり空っぽになった沙希の机のそばには桜とユキトの二人だけが残された。

「ねえ……本当に行かせちゃうの?」

「……」

 桜の問いにユキトは答えなかった。

「わかってるの? オーディションは最初から沙希ちゃんを合格させるつもりなんだよ。このままだったら沙希ちゃん本当に受かっちゃうよ」

「……」

「私、こんなつもりでオーディションを薦めたんじゃない! ねえ、止めてあげて!」

 桜は黙ったままのユキトの肩を掴み、揺さぶろうとするが、その力はあまりに弱々しい。

「お願いだから……」

 桜がユキトにさせたいことはわかるし、その気持ちも理解できた。しかしユキトの中にはもっと別な感情があった。

 ユキトは立ち上がると教室の窓へと歩み寄った。

「沙希ちゃん! 頑張ってねー!」

 窓から身を乗り出し大きく手を振る麻衣の隣から顔を出すと、ユキトは叫んだ。

「沙希!」

 いきなり顔をのぞかせたユキトに沙希は目を丸くした。

「お前は芸能人に向いてない! でも向いてる向いてないのと勝ち負けは別の話だ! お前なら他の候補者になんか絶対負けない! だから一番取って帰ってこい!」

 沙希の丸くなった瞳がユキトをただジッと見つめている。

「嘘でも冗談でもないぞ! どう考えたってお前が一番だ!」

 ユキトの言葉に驚いた表情を浮かべる沙希だったが、その表情も徐々に笑顔へと変わっていった。嬉しそうな、安心したような、柔らかな表情が気付けばそこにあった。

「ユキトがそう言うなら一番取ってくる!」

 そう言って沙希はⅤサインをしてみせると、いっぱいの笑顔のままに去っていった。振り向くことなく大きく手を振りながら歩いてゆく沙希の後ろ姿は一歩一歩が力強い。ユキトはその後ろ姿が見えなくなるまでただジッと見つめていた。

「若木君……なんで……」

 窓の外を眺めるユキトに桜が声をかけた。すっきりした表情のユキトとは正反対に桜は伏し目がちだ。

「なんでって、あれが俺の気持ちだよ。菅が俺に何をさせたかったとか、出来レースがどうとか、そんなのは関係ない。ややこしい事を全部取っ払って、自分の中に残った気持ちを正直に口にしただけだから」

 ユキトがそう言ってみせると桜は黙ってしまい、それきり口を開くことはなかった。





 朝、沙希を送り出したユキトは桜、麻衣、更紗と放課後も教室に残り、沙希がオーディションを終えて帰ってくるのを待っていた。

 麻衣は小さく可愛らしい花束を持ち、沙希の机にはみんなで出し合って買ったケーキとお菓子が山のように積まれている。

 沙希が勝って帰ってくる前提の準備だったが、事務所が最初から沙希のグランプリを決めている出来レースである以上、それでなんの問題もなかった。

 麻衣は可愛らしい花をまるで自分が貰ったようにニコニコと眺め、更紗はお菓子の成分表を片っ端から眺めている。そんな中、桜だけは浮かない表情でただジッと教室の床を見つめていた。そんな様子の桜に気付きながらも、ユキトは退屈そうにスマホを覗きこむだけだ。

「あ、きたよ! きたきた! はいみんなこれ!」

 廊下の気配に気づいた麻衣がユキトたちに慌ててクラッカーを配る。

「いい、教室の扉が開いて、私が声をかけたらパーン! だからね!」

 麻衣はみんなを扉の近くにしゃがみ込ませると自身も扉の脇にこっそりと待機し、沙希が扉を開ける瞬間をジッと待った。

「沙希ちゃん、グランプリおめでとー!」

 沙希が教室に入ってきたその瞬間、麻衣の号令のもとにクラッカーが鳴らされた。

「おめでとう!」

 更紗たちがお祝いの言葉と共にクラッカーを弾けさせると、破裂音と共にクラッカーから飛び出した無数の紙テープが沙希を包んだ。

 突然の出来事に沙希が紙テープまみれのまま目を丸くして固まったが、自分を取り囲む笑顔の麻衣たちを見てようやく自分の置かれた状況を理解した。しかし、麻衣たちの意図を理解しても沙希が笑顔を見せることはなかった。ニコニコと自身を取り囲む麻衣たちを前にどこか申し訳なさそうに視線を泳がせるだけだ。

「……沙希ちゃん?」

 麻衣がそう声をかけた瞬間、沙希がパチンと手を合わせた。

「みんな、待っててくれたのにゴメン! 負けちゃった!」

「え……」

 そう言って頭を下げる沙希の姿に待っていた四人は言葉を失った。

「そんな、沙希ちゃん……」

「嘘でしょ……」

 それぞれの口から戸惑いの声が漏れ、ユキトも黙ってこそいたがその表情は驚きで固まっていた。

「そんな、グランプリ取れないわけがない……だって……」

 桜は『出来レース』という言葉こそ咄嗟に飲みこんだが、勝てずに帰ってきた沙希に動揺を隠せなかった。桜は一人教室の外へと向かうと携帯でひそひそとどこかに電話を始めた。

「いやー、やっぱり私じゃ無理だったみたいだね、あはは。……ってこれ、用意して待っててくれたの? ここまでしてくれたのに期待に応えられなくてホントごめん!」

 笑ってみせたり、申し訳なさそうな顔になったり、沙希の表情は忙しい。

 そんな沙希とは正反対に、更紗はいつものポーカーフェイスで机の上のお菓子を手に取った。

「じゃあこれは残念会ということで」

 そう言って更紗はお菓子の箱をパリパリと開け始めた。

 勝手にお菓子を開け始める更紗を見て麻衣が大きくうなずいた。

「そうだね、ちょっと複雑な気持ちだけど……とにかくお疲れさま!」

 麻衣は手にしていた花束を沙希に手渡した。

「ありがとう……」

 みんなの優しさが伝わり、沙希は嬉しそうに麻衣から手渡された花束を眺めた。

「そうだ、ちょっと茶浜木先生に報告してくるね、先生も私のこと応援してくれてたし」

 そう言って沙希が教室から出て行くと、すれ違いで桜が教室に戻ってきた。

 麻衣と更紗が残念会にしようとすっかり気持ちを切り替えているのとは裏腹に、桜は納得できないといった複雑な表情のままだ。

「沙希ちゃんがグランプリ取れなかった理由わかったよ……」

 そう言って桜は信じられないといった様子で首を振った。

「……沙希ちゃん、オーディションで好きな男の子のことについて話したんだって」

「はあ!?」

 桜の言葉を聞き、その場にいた全員が呆れた声を同時にあげた。その反応も当然だ。これから芸能界を目指そうという女の子が恋愛の話をするなんてありえない。将来『問題』を起こす可能性を自らアピールしているようなもので、オーディションの場であえて口にするようなものではない。それなのにそんな話をした時点で大きく減点されるのは火を見るよりも明らかだ。

「あいつがそこまでバカだと思わなかった、なに考えてんだよ……」

 ようやく口を開いたユキトから出たのはため息交じりの呆れた声だった。

 麻衣たちも腑に落ちないといった表情でお互いの顔を見合わせている。

 空っぽになった沙希の机を見つめながら、気まずい空気がただ流れていった。

「ごめんね、待たせちゃった!」

 四人のどんよりした空気とは正反対に、明るい表情で沙希が戻ってきた。

「みんな、本当にありがとう、こんなにお菓子やケーキを用意してくれて。これ食べて明日から気持ちを切り替えてまた勉強頑張らないとだね!」

「……お前みたいなバカが勉強しても無駄だっての」

 よどんだ空気そのままにユキトがつぶやいた。妙にサッパリした沙希を見て口を開かずにいられなかった。

「は?」

 そんな言葉をぶつけられると思っていなかった沙希も笑顔が消え、みるみる顔が紅潮してゆく。

「バカってなに? 私ユキトよりずっと頭良いんだけど」

 だがユキトも止まらなかった。

「あのな、オーディションで男の話なんかする奴が頭良いわけないだろ」

「え……なんでそれ知ってるの!?」

「呆れた、ホントなのかよ……」

 ユキトは沙希の反応でそれが事実だったのだと確信した。

「菅がマネージャーさんに聞いたんだよ。お前が好きな男のことを話したせいで合格しなかったって。全く信じられない奴だなお前は。そこまでバカだと思わなかった」

 言われっぱなしの沙希は真っ赤になった顔でユキトを睨みつけた。

「なんでそれで頭悪いってなるわけ? 私は聞かれたことについて正直に答えただけ。それなのにバカバカ言われる筋合いないでしょ!」

 この程度のことすら上手くかわせない不器用さが沙希の『向いてなさ』を物語っていた。

「やっぱ向いてないわお前。どんな質問されてもサラッと流せよ。そのくらいできなきゃアイドルも女優も無理だ無理!」

「向いてなくても一番取れるって言ったのはユキトでしょ!」

「こんなの向いてる向いてない以前の問題だっての!」

 気付けば二人は言い争いになっていた。

「もう知らない!」

 沙希は大声で叫ぶとそのまま教室を飛び出していってしまった。

「沙希ちゃん待って!」

 廊下へと消えていく沙希を麻衣が慌てて追いかける。

「……」

 残された教室で更紗と桜の責めるような目がユキトを見つめていたが、ユキトはふてくされた表情で窓の外を眺めるだけだった。





 翌日、教室。

 授業開始の慌ただしい空気の中、ユキトは机に突っ伏していた。眠いわけではなかったが隣に座る沙希と顔を合わせるのがどうにも気まずく、机に顔を埋めてやり過ごす。しかし顔を合わせないようにしていても隣に座る沙希が気にならないわけがなく、腕で覆った顔をわずかにずらし、こっそり沙希へと目をやる。そこにいる沙希はいつもと変わらず、ただ黙々と授業の準備をしていた。

 教科書を開き、今日習うページを指でなぞりながら確認している沙希の横顔は中学の頃からずっと見てきたいつもの姿だ。

 もしも沙希がオーディションに合格し、他の女子のようにこの席を空けることになっていたらとユキトはぼんやり考えてみたが、いくら想像してもまるでピンとこない。どれだけ思考を巡らせても、ユキトにとっての沙希はいつでもそこにいた。

「おい若木!」

 突然の声にユキトが飛び起きた。

「お前は学校に居眠りしに来てるのか? ほら授業始めるぞ!」

 その声は一時間目を担当する茶浜木だった。教室に入るなり寝ているユキトに気付き、呆れたようにユキトを叱りつけた。 

「まったく、少しは大村を見習ったらどうだ、中学から一緒なのに授業態度が違いすぎるぞ」

「はーい……」

 しっかりと授業の準備をする沙希。だらけて叱られるユキト。それは中学の頃からずっと変わらない光景だ。その当たり前の光景がずっと続くと思っていたが、『何か』が起こればそれはあっさりと消えてなくなってしまうことをオーディションの件を通してユキトは意識せざるを得なかった。

 そして授業が始まれば日常はあっという間にすぎてゆく。

 茶浜木が気の抜けた声で板書をする。ノートと取ろうと顔をあげると斜め前の席には欠席ばかりだった姫山真由の身代わりとしてやってきた初老の紳士、姫山さん(仮)の背中が見える。左を向けば菅桜が机に立てた教科書の陰でスマホをいじっている。前からプリントが回ってくると、ただプリントを渡すだけなのに前の席の前黒麻衣がアイドルオーラ全開の微笑みでプリントを手渡してくれる。ユキトが受け取ったプリントを後ろに回そうと振り向けば、飛鳥更紗がアイドルとは思えない変顔で待ち構えている。

 芸能人ばかりのクラスは仕事で欠席する生徒が多く、空席が多い。まだ一度も学校に来ていない見門志麻の席はすっかり荷物置き場となっており、誰のかもわからない荷物が積み上がっている。そんな飛び飛びになった席の向こうの窓際には木村美霜の姿が見える。日の光を浴びてサラサラの髪が輝き、黒板を見つめる美しい横顔にユキトは思わず見とれてしまう。

「若木! 今のとこ読んでみろ」

 茶浜木に指名されるも、美霜に見とれてユキトは授業などろくに聞いていなかった。

「……十八ページ」

 うろたえるユキトに沙希が小さな声で助け舟を出した。

「ほら、どうした。また聞いてなかったのか?」

 茶浜木に急かされ、ユキトは慌てて十八ページの文章を読み始めた。教科書を朗読しつつ、チラリと沙希に目をやると、教科書に目を落とす沙希の横顔があった。中学の頃から見ているその横顔がユキトの目から離れなかった。





 放課後になり、ユキトは当番だった資料の整理を終えて教室へと向かって歩いていた。芸能人ばかりの学校の放課後はすぐに人がいなくなる。廊下を歩いていても人とすれ違うことは稀で、華やかな少女たちに囲まれた朝とは正反対の寂しさだ。

 静かすぎる廊下を抜け教室へと戻ると、誰もいないと思っていた教室で一人、桜が窓から外を眺めていた。

「あれ、まだ残ってたんだ。もしかしてアイドルの仕事減った?」

「……」

 ユキトの声に振り返りはしたが、桜は黙ったままだ。

「あ、いや、冗談冗談。……怒った?」

「……そんなことで怒るわけないでしょ」

 桜はそう返すが、その表情は不機嫌というか、いつもの明るさがまるでない暗い表情だった。

 ユキトは桜の様子がいつもと違うことを感じ、なるべく関わらないようにとそそくさと机の教科書を鞄に押し込んでその場を離れようとしたが、そっと教室を出ようとするユキトの背中に桜が声をかけた。

「ねえ、沙希ちゃんのことなんだけど……」

「それはもういいって。色々あったけど今回の件であいつに芸能界はとことん向いてないってよくわかったろ」

 いくら考えたところで今さら何が変わるわけでもなく、ユキトの中でそれはもうすでに終わった話でしかない。

「また今まで通りの毎日が始まるだけさ。いいじゃないかそれで。菅だってそうなってほしかったんだろ」

 そう口にしたユキトを前に桜がぽつりとつぶやいた。

「……本当に今まで通りでいいの?」

「なんだよそれ」

 桜の表情はいつになく真剣で、ユキトを真っ直ぐ見つめている。

「ねえ、沙希ちゃんがオーディションで話した好きな人、誰か知ってる?」

「そんなの俺が知るわけないだろ」

 桜の問いかけはユキトにとって面倒臭さしか感じなかった。乱暴に頭をかくと吐き捨てた。

「あいつ塾とか行ってるからそこの奴なんじゃねえの? っていうかさ、前にも言ったけど俺と沙希はずっと学校が一緒ってだけのただのクラスメイトでしかないの。いちいち変な絡み方してくるなよ」

「……」

 桜は何も答えず、ただジッと視線だけをぶつけてくる。

「何もないなら行くぞ」

 ユキトはその空気にたまらず教室を出ようとしたが、一歩踏み出したユキトに桜が言葉をぶつけた。

「沙希ちゃんがオーディションで何て言ったか教えてあげる。沙希ちゃんはね、好きな人が『お前なら一番取れる』って言ってくれたから、その人のために一番を取りにきましたって言い切ったんだよ」


「それでも……それでも若木君はただのクラスメイトって言っちゃうの?」





 ユキトが歩く学校までの道のりはいつだって味気ない。大工場が撤退した湾岸の埋め立て地は何もかもが無くなりどこを見ても空き地しかない。その空き地を囲う、長年の風雨で汚れた白いパネルが並ぶ中をユキトは学校へと歩く。遮るものが何もなく、空の青さだけが眩しかった。

 あまりに青い空の眩しさに視線を下げると前を歩く少女の姿が見えた。ユキトには後ろ姿だけで沙希だとわかった。

 空の青さが気持ちいいのか、顔を上げて辺りを見回す沙希は不意に振り返った先にユキトがいることに気付いた。ユキトの姿を見て一瞬表情が止まったが、また何もなかったように歩き出す。

 そんな沙希の後ろ姿を眺めながらユキトも歩いたが、沙希との距離は全く縮まらない。ただ変わらない距離のまま、学校が近づいてくる。

 ユキトが立ち止まると沙希の姿が少しずつ遠くなってゆく。ユキトはその姿をしばらく眺めていたかと思うと、今度は早足で歩き始めた。

 ユキトの目に映る沙希の姿が少しずつ大きくなってゆき、ずいぶん歩いたところでようやく沙希に追いついた。

 沙希は隣まできたユキトに気付いたが、特に何の反応があるでもなく、ただ真っ直ぐ歩く。

「……これ」

 ユキトは鞄からお菓子の箱を取り出すと沙希に突きつけた。

「この前食べられなかったやつ」

 ユキトが手にしていたのは沙希のオーディション合格祝いにとみんなで買っていたお菓子だ。あの時に食べそびれて鞄に放り込まれたままになっていた。

 そんなお菓子を唐突に突き付けられ、ずっと無表情だった沙希がついに吹き出した。

「急すぎ。なにそれ」

 ぶっきらぼうすぎるユキトが面白かったのか沙希が声を出して笑い出すとユキトの口がへの字になった。

「いいから受け取れよ」

「……ありがと」

 沙希はお菓子の箱を受け取ると早速開けた。小分けされたひと口サイズのチョコが入っており、自分の口に一つ放り込むとユキトにもと箱を差し出す。ユキトがひとつ手に取るとまるで小さな子でも見るように沙希は微笑んだ。さっきまでのよそよそしい空気は口の中のチョコと一緒に溶けていった。

「この道、ずいぶんこうして歩いたよね」

 すっかり見慣れた殺風景な景色を見回し、沙希がまたひとつチョコを放り込んだ。味気ない景色はどこまで歩いてもほとんど変わらないが、学校まではあと少しだ。

「私、こうやって登校する朝の時間って結構好きなんだよね」

 そういって空を見上げ、朝の空気を吸い込む沙希の横顔がまぶしい。

「んー、やっぱり学校っていいな。うっかり合格してたらこんな風に毎朝登校することもできなくなったろうし、不合格でよかったかな」

 気持ち良さそうに伸びをすると沙希が笑ってみせた。

「……本当にそれでよかったのかよ、沙希だって少しは芸能人に憧れあったんだろ」

 今と同じように二人で歩いていた時、沙希がアイドルに憧れていたという話をした時のことをユキトは思い出していた。

「憧れは憧れのままがいいのかも。桜ちゃんたち見てると大変そうだもん。色々あったけど、今がどれだけ恵まれて幸せな生活なのか考えるきっかけになったかな」

 沙希はすっかり納得しているといった様子でうなずいた。しかしその顔は急に照れ臭そうに変わり、唇を噛んだ。

「……まあ、一番取ってくるって言っておいて取れなかったのは恰好悪かったけどね」

 沙希はユキトの方を見ることなく、少し恥ずかしそうにチョコを小さな口にまた放り込む。ユキトはただしばらくその横顔を眺めるだけだったがユキトも沙希の方を見ることなくつぶやいた。

「格好悪くなんかない。結果だけ見れば不合格だったかもしれないけど、誰が一番かなんてそんなの決まってる」

「ホントかなぁ……」

「山ほどアイドルを見てきたヲタクの俺が言ってんだぞ」

 そう言ったユキトを沙希が横目でちらりと見た。

「……やっぱり不合格でよかったよ」

「なんでだよ」

「だってほら、芸能人になったらユキトみたいなオタクがたくさん寄ってくるんでしょ。アイドルオタクなんてユキト一人でたくさんだよ」

「どういう意味だよ……」

「……そういう意味だよ」

 沙希はそう言っていたずらっぽく笑ったかと思うと、早足で歩き始めた。

 ユキトを追い越して少し先を歩く沙希の後ろ姿を眺めながら、いつもと変わらない日常が続いていることの心地よさをユキトはジッと噛み締めていた。

 思わず立ち止まり、沙希の後ろ姿をしばらく眺めていたユキトは徐々に小さくなってゆく沙希の元へと駆け出した。殺風景な景色の中を歩く沙希の後ろ姿の先に、通い慣れた学校の校舎が見え始めていた。

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