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伝説の地へ、、、

 数日経っても『ゴツ子』の話題は消えなかった。


『アイドルだらけの学校で頑張る不細工、ゴツ子を応援しよう!』


 桜がブログに投稿した一連の画像についての反応をまとめたサイトまで現れ、ネット上で『ゴツ子』はすっかり人気者となっていた。

 授業も終わり、帰り支度で慌ただしくなった教室でスマホを覗き込んだユキトはその反響を前にうなだれるしかなかった。

「なんで俺がこんな目に……」

 うんざりしてスマホを放り出すとその瞬間に着信音が鳴り、ユキトの背筋がビクリと伸びたが、鳴ったのはユキトの携帯ではなく隣の席に座る沙希の携帯だ。

 沙希の方へと向き直ると困ったような表情を浮かべて通話する沙希の顔があった。時折チラリとユキトを見ては、また困った顔をする。ユキトが不思議に思っていると、通話を終えた沙希が話しかけてきた。

「ねえどうしよう、桜ちゃんに忘れ物を届けてほしいって言われたんだけど」

「菅に?」

 ユキトが桜の席に目をやると空っぽだった。授業が終わって帰ったわけではなく、今日は朝から桜の姿は無く、登校すらしていない。

「居場所はアイドルヲタクに聞けばわかるって……」

「アイドルヲタクって俺のことかよ……あいつの居場所なんか知るかっつーの」

 ヲタクと言われることにムッとした表情を浮かべて見せるも、実のところ桜がどこにいるかユキトは知っていた。桜はCDのリリースイベントで都内のデパートの屋上にあるステージで歌うことになっている。

「知ってるんでしょ?」

 しらばっくれたところで沙希はまるで信じていない。ヲタクは何でも知っているといった態度だ。ユキトはそんな沙希にイラつきつつもスマホで桜が所属するグループのサイトを開き、面倒臭そうに画面を見せた。

「今日は新宿のデパートの屋上でイベントだってよ」

 沙希がスマホを覗き込んで、難しそうな顔を浮かべた。

「……ねえ、一緒に行ってくれない?」

「はあ? 忘れ物持ってこいって頼まれたのはお前だろ、何で俺が……」

「だって、アイドルのイベントなんて行ったことないし」

「忘れ物届けるだけなんだからイベントとか関係ないだろ、向こうに着いたら連絡入れて控室にでも渡しに行きゃいいんだか……あっ」

 面倒といった表情を常にしていたユキトの目が一瞬大きく見開かれた。

「……なに?」

「いや……」

 ユキトは一瞬、考えるような表情を浮かべ、言葉を続けた。

「まあ、そこまで言うなら一緒に行ってやってもいいけど」

「ほんと?」

「そのデパートのショップでCD予約してるの思い出したからさ、そのついで」

「……アイドルのイベントに参加するのに予約したCDでしょ、それ」

 沙希のヲタクに対する軽蔑の眼差しがユキトに突き刺さった。

「余計なお世話だ。嫌なら一人で行けよ」

「あ、ウソウソごめん! 今の無し! だから一緒に来て!」

 今回ばかりはユキトの方が立場が上だ。付いてきてほしい沙希は机に手をつき、大袈裟に頭を下げてみせた。

「わかればよろしい。仕方ないから一緒に行ってやるか」

 机から教科書をカバンに押し込むと立ち上がり、ユキトと沙希は二人で新宿へと向かった。





 桜の忘れ物を届けるため、ユキトと沙希は新宿のデパートへとやってきた。屋上にあるイベントステージでは桜の所属するアイドルグループ『ハイファイヴ』のリリースイベントが行われるため、屋上へと続く階段にはイベントの入場待ちの列ができていた。建物の隅にある階段は空調も届かず、整列するファンの熱気がこもって暑苦しく、そして狭い。

「人気あるんだね、桜ちゃんのグループ……」

「大手の事務所でメジャーだからね。集客多いんだよ」

 入場待ちの列の脇を二人は屋上目指して階段を上ってゆく。沙希は不慣れな環境におどおどし、ユキトは伏し目がちだ。アイドルヲタクをやっていれば他者と積極的に交流を持たずとも現場には知った顔が増えてゆく。ユキト自身は桜のグループを見に来ることはないが、あちこちのグループを追いかける『DD』も多い。できることならそういう連中と顔を合わせたくないなと、ユキトはとにかく下を向いて沙希を気にすることもせずさっさと先へと階段をのぼる。

 ようやく屋上へとたどり着くとユキトはまるで今まで息を止めていたかのように大きく息を吐き、知り合いと誰とも会わなかったことにホッとして屋上の開放的な空気を気持ち良さそうに吸い込んだ。

 屋上に出るとすぐ目につく場所に常設のステージがあり、多くのスタッフが慌ただしく準備をしている。ステージの上ではスピーカーを置いてのサウンドチェック、ステージ前ではカラーコーンを並べて観覧エリアの準備作業と、スタッフがせわしない。

 突如現れた高校生二人に気付いた一人のスタッフが歩み寄ってきた。準備中の現場にユキトたちのような子供はいないはずの存在だけにスタッフの表情は険しい。追い返す気まんまんで近づいてくるスタッフの口が開くよりも先にユキトが声をあげた。

「あの、僕たち今日出演するハイファイヴのメンバーしてる菅桜さんの同級生なんですけど、桜さんに忘れ物を届けてほしいと言われまして……」

 沙希が頼まれた桜のバッグをスタッフに見せようとすると、ユキトは沙希から咄嗟にそのバッグを取り上げた。

「これなんですけど、大事な物なんで直接持ってきてほしいと言われてるんです」

「……そう、じゃあ事務所の人に聞いてくるからちょっと待ってて」

 スタッフは面倒くさそうに二、三度頭をかくと、そのままステージの背後にある小屋の方へと歩き始めた。

「今の人に渡しちゃえばいいのに……直接持ってきてほしいなんて言われてないでしょ?」

 ユキトを不思議そうに沙希が見ていた。桜に言われてもいない嘘をユキトが急についた理由がまるでわからなかった。

「いいんだよ、これで」

 ユキトは沙希の方を見るでもなく、スタッフが消えていったステージ裏の小屋をジッと眺めていた。

 スタッフが小屋のドアを開けて中に頭だけ突っ込んで何か話していると、すぐに扉が大きく開いて中から一人の男が現れた。スーツ姿のその男はユキトたちを見つけるなり小走りで寄ってくる。

「いやー、待ってたよ! 大村沙希さんだよね! 私は桜のマネージャー。わざわざ来てくれてありがとう!」

 満面の笑顔で現れたマネージャーを名乗る男はその細い目で沙希を眺めると、より目を細くして笑った。

「んー、桜から可愛い可愛いと聞かされてはいたけど想像通りの可愛さだ。見かけた瞬間に君が沙希さんだってわかったよ」

 桜のマネージャーは満面の笑みを浮かべ、何度もうなずきながら沙希の姿を眺めてる。並んで立つはずのユキトはまるで存在すらしていないように完全に無視されている。

「あの……」

 沙希はユキトが手にする桜のバッグをちらりと見た。

「あ、そうか忘れ物だよね、ありがとう! ……え、あっ、君も学校の人?」

 今になってようやくユキトの存在に気付いたのか、マネージャーは沙希のバッグを持って立つユキトに目をやった。

「私一人じゃ場所とかわからなかったので一緒に来てもらったんです」

「うんうん、そっかそっか、なるほどね。まあとりあえず立ち話もなんだから中入ってよ。桜たちまだ下にいてこっちまで上がって来てないんだ」

 マネージャーを名乗る男はユキトにはまるで興味がないのか、話もとりあえず、ステージ裏の小屋の扉を開けて二人を中にうながした。

「どうぞどうぞ」

 ニコニコと沙希を招き入れるマネージャーに続いて扉の奥へと入ったユキトは小さく拳を握りしめ、ニヤリと笑った。

「わぁ……」

 先に小屋へと入った沙希は中の様子に驚きの声をあげた。ステージ裏に用意されたその控室は壁のいたるところにサインが書き込まれ、真っ白なはずの壁が文字や絵で埋め尽くされている。

「こういうの初めて見た? 控室って出演者がサインを残してくから大体こんな感じなんだよ。ここはデパートの屋上とはいえ常設で何十年と続いてる場所だから探せば色んな人のサインがあと思うよ」

「へえー、そうなんですか……」

 沙希は壁に書かれたいくつものサインの中に知った名前がないかと思わず覗き込んだ。

「ま、それはともかく、わざわざ来てもらったんだしアイスでもどう? ここのデパートね、美味しいアイス屋さんあるんだ。沙希ちゃんみたいな可愛い子に桜の忘れ物を届けるお使いなんかさせちゃって申し訳ないし、お詫びがてら今からちょっと食べにいかない?」

「あの、でも……」

 沙希がチラリとユキトを見た。

「行って来いよ。俺はここで待ってる」

「そうかい? じゃあ、ちゃんと君の分も買ってくるからしばらくここで待っててよ。アイスを買って帰る頃には桜も来るだろうし」

 そう言ってマネージャーは沙希と連れ立って控室から出て行った。ユキトはマネージャーから全く関心を持たれてない様子だったが、ユキト自身はそんなことは全く気にもしていなかった。二人が控室から出ていくのを確認すると、その瞬間叫び声をあげた。

「よっしゃ!」

 両腕を掲げて大きくガッツポーズをすると、その場で小躍りしはじめた。

「これだよコレ! 俺が見たかったのは!」

 ユキトはサインだらけの壁をぐるりと見渡し、満足げに笑みを浮かべている。

 沙希から忘れ物の話を聞かされた時、ここへ一緒に来ようと決めたのはCDを引き取るためではなく、このサインだらけの控室に入れるかもしれないと期待してのことだった。スタッフに声をかけられた時に『直接渡したい』と言ったのも、この控室へと入れないかと考えてのことだ。ユキトは何としてもここへと入るつもりでいたが、その願いはずいぶんあっさりと実現してしまった。

「いやー、すごいなこれ……屋上ステージ誕生から今まで数十年の歴史の記録だ」

 白いはずの壁はどの面を見てもサインで埋まり、上を向けば天井にすらいくつものサインが見える。

「おおっ、フラプラのサインだ! まなてぃのサインもある!」

 山のように書かれたサインの中にはユキトが知っている現代のアイドル達のサインも多い。少し壁を眺めているだけであちこちから知ったアイドルのサインが視界に飛び込んでくる。

「リサコとポンちゃんのサインが並んで書いてある! 事務所違うのに仲良しなんだよなあの二人、くぅー、こんなところまで関係性を見せられるとか!」

 サインの山を前にすっかりヲタク全開となったユキトは誰が聞いてるでもないのに勝手に喋り出してしまう。

「りおりお加入前の校ステのサインもある! りおりお入る前とか数回しかライブしてないはずだからレア中のレアじゃんこのサイン! すげえ」

 レアなサインに思わずのけぞると、その先にもサインが見える。どこを見ても幸せしかない最高の空間がユキトの目の前にあった。

「壁全てがここで生まれた物語の記憶……最高すぎる」

 ユキトは穴が開くほど壁を見つめ、時にはしゃがみ込んで床すれすれのサインにも目をやる。壁に残されたサインのどれもがここのステージ立ったアイドルたちの記録だ。この壁はアイドルヲタクであるユキトにとって、どんな有名な絵画よりも価値のある芸術作品に見えていた。

「フラワーカーニバル……聞いたことあるようなないような……」

 壁の中央に描かれた可愛らしい花の絵とサインがユキトの目にとまった。

「それは君が生まれるよりずっと前、八十年代の人気アイドルだった子たちのサインだよ」

 その声は突然だった。

 誰もいないと思ってサインを眺めていたユキトは不意に声をかけられ、あまりの驚きに背筋がピンと伸びた。恐る恐る振り返ると、控室の扉の前にスーツ姿で白髪の男が立っていた。

 真っ白な髪はいかにも老人といった感じだが、老いてはいてもその髪はキレイに整えられ、スーツもシワひとつない。姿勢良く立つその姿には紳士と呼びたくなるような上品さがあった。

「あ、あの……僕は……」

 誰もいないと思って控室の中を自由に見て回っていたユキトは慌てた。従業員でもないただの高校生では勝手に控室に侵入したファンと思われてもしかたない。なんとか取り繕おうと思うが言葉が出てこない。

「わかってますよ。忘れ物を届けにきたのですよね。今さっきマネージャーに聞きました」

 慌てるユキトと正反対に白髪の老紳士は穏やかそのものだ。

「それにしても扉を開けた私に気付かないなんて、よほどサインに夢中だったのですね」

「え、あ……」

 老紳士の言葉にユキトはうろたえた。サインを眺めては奇声をあげる自分の姿をジッと観察されていたなんてあまりにも恥ずかしい。さっきまでの前のめりの姿とは正反対にユキトは控室の中央でただ小さくなった。

「あの……なんか、すみません……」

「謝ることなんてありませんよ。あなたはこのサイン達の価値をわかってくれたんですから、好きなだけ見ていってください」

 落ち着き払った老紳士は高校生のユキトが相手でも丁寧な言葉を使い、優しい表情を崩さない。そんな老紳士の姿に、ユキトはハッとした。

「あの、もしかして……田坂支配人ですか?」

 老紳士は何も答えなかったが、ただ微笑むその姿にユキトは確信した。

「田坂支配人! 何も無かったこのデパートの屋上にステージを建ててアイドルの聖地にした伝説の人じゃないですか!」

「伝説なんて大袈裟ですよ……」

「そんなことありません! 知ってますよ俺! 何もなかった屋上を夢でいっぱいの場所にしたいとたった一人でステージを作った話!」

 このデパートの屋上にあるステージは数十年前からアイドルの聖地だった。アイドルの歴史には欠かせない場所として何度も話題に出てくるため、ユキトはこの場所のことも、ここを一人で作り上げた支配人の存在も当然のように知っていた。

「最初は手作りのステージに支配人自らピエロの恰好をして立って、子供たちを楽しませたんですよね! そんな小さなステージをコツコツ手直ししながら音響や控室の設備も整えて、アイドルが立つようなステージにまで仕上げたって! それから数十年、たくさんのエピソードが生まれて、ここはアイドルの聖地になったって」

 壁に並ぶ数々のサインはデパートの屋上に作られたこのステージの歴史そのものだ。そして、そんなステージを何年も守ってきた田坂支配人自身もこの歴史の一部であり、ユキトにとっては壁のサインと同じく特別な思いを向けるべき存在であった。

「田坂支配人に会えるなんて感激です!」

「……私に会ったって仕方ないでしょう」

「そんなことないです! 俺、『デパートが揺れた日』の話、大好きなんです!」

 ユキトが口にした『デパートが揺れた日』という言葉聞くと支配人は少し照れくさそな表情を浮かべ、壁に書かれたあるサインの前に立った。

「これのことかな……」

「ビターソルト!」

 支配人が示した壁のサインはユキトも当然知っている。六年前、人気絶頂のタイミングで引退をした女性三人グループ、ビタースイートのものだ。

「これがあの、三人のサイン……」

 ユキトは壁のサインにくぎ付けになった。

「ビタースイートって知らない人はいないってくらい国民的なアイドルだったけど、デビューから数年間は全然売れなくて、いつもここのステージでイベントしてたんですよね。で、あまりに売れなくてこれがダメなら解散しようって決意で発売したシングルが大ヒットして、そこからはもう破竹の勢いだったって聞いてます」

 ビターソルトの成功物語は多くのアイドルの目標となるくらい有名でユキトも当然知っていた。確かな楽曲といくつかの幸運、そして彼女らの存在に気付いた一部の音楽関係者、様々な要素が絡まって生まれた成功までの物語はいくつものエピソードと共に今も語りづがれている。

「全てやりきったと人気がピークの真っただ中に解散を決めて、ドームでやったラストコンサート。DVDで見ましたよ」

 ユキトの追いかけていたアイドルがビターソルトのファンだったこともあり、リアルタイムで経験していないユキトの部屋の棚にもビターソルトのCDやDVDはあった。

「でもそのラストコンサートの後、デビュー間もない頃に支えてくれたファンにお礼が言いたいって、ここでお別れライブをしたんですよね。ファンクラブの初期の会員限定で」

「よく知ってますね、あなたの年齢ならリアルタイムではないでしょう」

 支配人は遠くを見つめるような優しい目でユキトを見ていた。

「こんなのアイドルヲタクなら常識レベルですよ。初期のファンを集めてのお別れライブだったけど、大勢のファンが詰めかけて、デパートの中がビターソルトのファンでいっぱいになったんですよね。それで、支配人はクビを覚悟で館内放送を使って全てのフロアにビターソルトのライブの音を流したって……」


 デパートが揺れた日。


 ビターソルトについて語る時、この言葉が必ず登場する。ファンが詰めかけていっぱいになったデパートの中に流れるビターソルトの歌声。それに合わせて盛り上がるファンによってデパートが揺れたと、当時この場所にいた全員が振り返る。真偽は定かではないが、二階の天井のヒビはこの時にできたものだとアイドルファンの中で語り継がれ、そのヒビを見るためにこのデパートへ訪れる者も多い。

「苦悩の日々と伝説のヒビ! 語り草になった二階のヒビ、何度も見に来ましたよ!」

 ユキトのスマートフォンには二階の天井にあるヒビの写真が保存されている。

「あのヒビを見るだけでも感激だったのに、今こうして伝説の一部である控室の中にいられること、本当に嬉しいです。しかも、田坂支配人にもお会いできるなんて……」

 デパートが揺れた日、館内放送を強行した支配人も伝説の一部だ。この控室にある膨大なサインも全ては支配人のアイドル愛が作った結晶といえる。

「私はただここでアイドルが歌う場所を提供しているだけです。尊いのはここで歌った歌手のみなさんですよ」

 そう言って謙遜する支配人の表情はどこまでも優しい。

「さあ、せっかく来たんですから私のことなど気にせずここの歴史を見ていってください」

「……ありがとうございます!」

 田坂支配人は突然やってきた高校生のユキトにもひたすら優しい。ここのステージに立ったアイドル達は皆が田坂支配人について感謝のコメントを残してる。偉ぶることもなく静かに微笑む姿に、ここのステージを他とは違う特別なものとした田坂支配人の存在の大きさをユキトは今、直に感じていた。

 支配人の優しさに甘え、ユキトが壁のサインを眺めているとすぐに支配人の解説が入る。

「それは80年代によく歌いにきてくれた園崎美羽香さんのサインです。グループアイドル全盛の今と違って80年代はソロで活躍してる子も多くて、彼女もたった一人でこの屋上をお客様でいっぱいにしてくれました」

「あ、その名前知ってます! 今もドラマに出てる人ですよね」

 アイドルとしての活動は知らなかったが、園崎美羽香の名前は今もドラマやCMで見かけることが多く、ユキトでも知っているほどの有名人だ。そんな人のアイドル時代のサインまであることに、この壁の価値をユキトはあらためて思い知った。

「やっぱりすごい、有名人のサインだらけだ……」

 しかし、そうつぶやいたユキトを前に支配人の表情が曇った。さっきまでの優しい微笑みは消え、寂しい表情でジッと壁を見つめている。

「ここにあるのは輝かしい歴史だけではありません……」

「え……」

 支配人はしゃがみ込むと、鏡台の陰に隠れた壁の隅を指差した。床スレスレのその場所には小さな文字があった。


 もうやだ、、、


 女の子らしい丸く可愛らしい文字だったが、可愛さと正反対の言葉がそこにあった。

「これを書いた子はとあるアイドルグループの子です。デビューイベントの場所にここを選んでくれて、シングルを出す度にここのステージに立ってくれました。とにかく真面目な子で、この控室でも本番直前まで勉強してるような、仕事も学業も手を抜かない一所懸命な子でした。しかし、残念ながら芸能界は全てのアイドルの夢を叶えてくれる場所ではありません……」

 支配人は悲しげな表情でその壁の文字を眺めている。

「彼女のグループはなかなか芽が出ず、ここでの集客も芳しくありませんでした。それでも彼女は暗い顔一つ見せず、いつでも全力でした。ところが四枚目のシングルのイベントでここのステージに来てくれた日、彼女は今まで見せたことのない暗い表情をしていました。私が声をかけると少し調子が悪いだけだと言っていましたが、暗い表情の理由はそんな単純なものではありませんでした」

 田坂支配人の顔に悔しさがにじんだ。

「翌日、彼女はグループを脱退しました。お別れの挨拶も卒業ライブもなくグループのウェブサイトに脱退の報告が一行載るだけの寂しいもので、結果的に前日ここで行ったイベントが彼女の最後のステージになってしまったんです。そして、グループ自体も次のシングルを出すことなく解散してしまいました」

 支配人は膝をつき申し訳なさそうな顔で壁の文字を指でなぞった。

「彼女が最後となったステージを終えて帰った後、控室の掃除をしていた私はこの文字を見つけました……結局私は彼女の暗い表情に気付いていたのに何もできなかったんです」

 ただひたすら壁の文字を見つめる支配人の表情にユキトまで胸が締め付けられた。

「ここにあるのは喜びや幸せの記憶だけではありません。ステージに立つ彼女たちの舞台裏にはもっと色々な思いがあるんです」

 可愛らしい丸い文字たち。その一つ一つに様々な思いがこもっていることをユキトは思い知った。

「あなたの学校にはたくさんの芸能人が通ってるんですよね? マネージャーさんから聞きました」

「はい」

「私はしょせんステージを提供するだけの身です。彼女たちの何を知ってるわけでもないし、力になれることなど何もありません。でもクラスメイトのあなたなら彼女たちの悩みや苦しみと寄り添うことができるはずです。どうか、彼女たちの力になってあげてください」

 ユキトを見つめる支配人の顔は先ほどまでの穏やかで優しい表情に変わっていた。

「わかりました……」

 喜びも悲しみも苦しみも詰まったこの場所を守り続けた支配人の言葉は重い。ユキトは壁のサインを眺めながら拳を強く握った。

 そんなユキトの背後で控室の扉が開いた。


「ねえ、見て見て、こんなスゴイのごちそうしてもらっちゃった」

 沙希がカップに入ったアイスを手に嬉しそうな表情で控室へと入ってきた。その隣には忘れ物を届けさせた桜もおり、マネージャーも二人に続きやってきて、控室は一気に賑やかになった。

「いいなー、私もアイス食べたーい。それちょうだい!」

 桜はマネージャーが手にしているアイスを羨ましそうに眺めている。

「何言ってるんだ、これは忘れ物を届けてくれた彼へのお礼。届けさせた張本人が食べてどうする。大体、最近食べ過ぎだぞ」

 そう言いながらマネージャーがユキトにアイスを差しだした。色鮮やかなフルーツが山盛りになったカップにチョコとバニラの柔らかなアイスが絡めてあり、今にもこぼれそうなほどのボリュームだ。

「君もわざわざありがとうね。沙希ちゃんから聞いたよ、ここまで案内してくれたんだって? 手間かけさせちゃったね」

「いえ、手間だなんて、むしろ……」

 そう言いかけてユキトはとっさに言葉を止めた。それに気付いて桜がニヤリと悪い笑みを浮かべた。

「若木君はアイドルヲタクだもんねー、私以外のメンバーに会いたかったんでしょ?」

 まるで見透かしたようなニヤけた顔で桜がユキトを覗き込んだ。

「そ、そんなんじゃねーし」

 アイドルそのものが目的ではなかったが、不純な動機でここへやってきたのは間違いない。桜の指摘にユキトはとぼけてアイスを放り込んだ。





 翌日。

 始業前でおしゃべりする生徒たちで騒がしい廊下を抜け、ユキトはあくびをしながら教室へと入った。ここしばらく学校を休んでいた桜もリリースイベントを終え、今日はユキトよりも早く学校へと来ており、いつも空っぽだったユキトの隣の席にその姿があった。

「若木くんおはよー」

「え、ああ、おはよう」

 機嫌がいいのか、アイドル全開のスマイルで微笑みかけてくる桜に思わず照れそうになってしまい、ユキトはそれを悟られないように慌てて顔を背けて席に座った。すっかり軽口をきくような関係にはなったが時折こうしてアイドルであることを思い知らされる瞬間があり、ユキトは思わず照れてしまう。とにかく桜の方を見ないようにしながらバッグの中の教科書を机に押し込んでいると、突然ドサリと机の上にノートの束が置かれた。

「……なにこれ?」

 ユキトの机にノートを置いたのは桜だった。不思議そうな顔のユキトとは違い、ニコニコと嬉しそうな顔でユキトを見ている。

「それ、リリースイベントで学校休んでる間の課題と宿題なんだ」

「ふーん」

 なんでそんなものを自分の机にと思いつつもユキトは自身の教科書を机の引き出しの奥へと放り込み続けた。

「じゃ、お願いね!」

 桜のその一言にようやくユキトの手が止まった。

「お願い? 何を!?」

「なにって、その課題。やってくれるんでしょ?」

「は? なんで俺がやらなきゃならないんだよ」

「田坂支配人が言ってたよ。困った時は彼を頼りなさい、力になってくれるよって」

「はぁ?」

 ユキトは昨日の田坂支配人との話を思い浮かべた。


 彼女たちの力になってあげてください……


「いや、ちょっと待て! 力になれっていうのはこんな勉強の手伝いとかそういうのじゃなく、芸能人として直面する悩みや苦しみについてのことで……」

「これも芸能人としての大きな悩みで苦しみなんだけど」

「いや、こんなの自分でやらなきゃ意味ないだろ」

 ユキトが反論しようとした瞬間、再び机にドサリと音がするほどの量のノートの束が叩きつけられた。

「桜ちゃんから聞いたよ! 宿題手伝ってくれるんでしょ? これもお願い!」

 新たに現れたノートの束は麻衣のものだった。純粋な子供のような嬉しさいっぱいの顔でユキトを見つめている。

「いや、だからさ……」

「若木くん、私のもお願いね」

 麻衣が置いたノート上にさらにノートが積みあがる。今度は更紗だ。麻衣のような嬉しさいっぱいの表情ではなく、小悪魔的な軽い悪意を感じる含み笑いでユキトを眺めている。そして次の瞬間、その口元がニヤリとますます曲がった。

「みんなー、終わってない宿題あったら若木くんがやってくれるって!」

「おい、何言ってんだよっ!」

 しかし手遅れだった。更紗の言葉に生徒たちが次々集まり、ユキトの机には山のようにノートが積みあがってゆく。

「なんだよこれ……」

「ふふ、若木君てクラスメイト思いだね」

 更紗が笑ってみせるが、ユキトはその顔を見ることもできないほどのノートの山に埋もれていた。


「もうやだ、、、」

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