ふたりきり
週が明けた月曜日。今までずっと空っぽだった席に姫山真由(仮)が座っている。
違和感は相変わらずだが、事情を知った生徒たちはその異物をユキトと同じ程度には受け入れ始めていた。
しかし、いつもは必ず埋まっているはずの、もう一方の『異物』であるユキトの席が今日は空っぽだった。
この日、ユキトはとある公園にある野外ステージの前に立っていた。
都内有数の巨大公園の一角に設置されたライブ用ステージは屋外無料ライブの定番スポットで、週末ともなればアイドルからバンドまで、多くのアーティストに利用されている。
ユキトは前日の日曜日、ここであるグループのライブを見た。圧倒的な運動量のダンスで定評のあるダンス&ヴォーカルグループ。ユキトが以前から知っているそのグループにはクラスメイトの一人、見門志麻がいた。しかしクラスメイトであるがユキトはいまだ学校で志麻に会っていない。2月から始まったツアーのため、芸能活動が忙しくまだ学校へは登校していないのだ。
クラスメイトとして顔を知られてしまってからではライブに行くのは色々と躊躇われる。そうなる前にとユキトは昨日のライブを見に行ったのだ。
映像では知っていたが、初めて見る志麻のステージは衝撃的だった。長い髪の動きすらダンスの一部としたような激しさで目が離せなかった。曲が進み、ライブの後半になってもダレるどころは激しさを増す動きは光る汗も照明の一部のようにして、きらきらとした美しさを放っていた。初見でCDすら持っていなかったユキトは後方で見るつもりだったが、気付けば人をかきわけ、客席前方で踊る志麻の姿を眺めていた。
そんな昨日の衝撃が忘れられず、ユキトは月曜日の今日、学校をサボってまで昨日と同じ野外ステージにきてしまった。
ライブの後に慌ててCDを買いそろえ、昨日のうちに曲を取り込んだ音楽プレーヤーをポケットから出すと、昨日のセットリストと同じ順番に曲順を合わせる。再生ボタンを押し、客席エリアの柵に寄りかかる。大音量のオープニングSEがユキトの頭の中に響き、目を閉じると昨日のライブの光景が頭の中に蘇ってくる。
ユキトは満足度の高いライブを見た翌日、同じ場所、同じセットリストで前日のライブを振り返るのが好きだった。
ライブも終わり、誰もいなくなったステージと客席。その冷たい空間で昨日の熱を思い出す。他人には理解されにくい感覚かもしれないが、ユキトにとってこの行為は特別なライブを見た時の『儀式』のようなものとなっていた。
夜のライブと違い、昼間の今は太陽の光がユキトに降り注ぐが、目を閉じているとそれも照明の熱のように感じる。曲と共に浮かぶ揺れる志麻の長い髪。歌詞に合わせて空を指差す姿ははるか先の夢を目指すような夢見る表情で、今もハッキリ思い出せる。
その時だった、目を閉じたユキトの視界がわずかに暗くなった。太陽が雲に隠れたかのような感覚に目を開けると、すぐ目の前に一人の少女が立っていた。
「あ……」
あまりに単純な驚きの声がユキトの口をついて出た。目の前に立っていたのは見門志麻だった。
「何してるの?」
ステージで踊っている時の鋭く、凛々しい表情とは正反対の人懐っこい笑顔がユキトを見ている。
「あの……え?」
全く予想していなかった。空っぽのステージ、空っぽの客席で一人昨日の熱を感じるはずだったのに、熱の元となった志麻が何故か目の前にいるのだ。ユキトはとっさにイヤホンを外したものの、ただ口をぱくぱくと開け閉めするくらいのことしかできなかった。
外したイヤホンから昨日ここで歌われた曲が流れている。それに気付いた志麻が嬉しそうに笑った。
「昨日のライブ、見に来てくれてたよね?」
「え、なんでそれを……」
予想外が何度もユキトを襲った。志麻がここにいるだけでもありえなかったのに、自分の顔を覚えているなんて信じられない。
「あの辺にいたでしょ? ちゃんと見えてたよ。楽しそうにノッててくれると嬉しいから」
そう言って志麻は昨日ユキトが見ていた辺りにチラリとを目をやった。
「嘘でしょ、ライブ行ったのも初めてだったのに、そんな客の顔まで覚えてるなんて」
ユキトはどちらかといえば空気のようなヲタクだ。これといった特徴もないし、CDを何十枚と買って握手会でループするようなタイプでもないため、よほど継続して通った現場でもないかぎり顔を覚えられることも少ない。そんな自分が顔を覚えられていたという事実に嬉しさと戸惑いが交互に襲ってきた。
「あはは、昨日の今日だから覚えてただけだよ。どっちかっていうと顔とか覚えるの苦手なタイプだから、もしも明後日くらいだったら確実に忘れてたと思う。トコロテンだよ、トコロテン」
志麻はトコロテンを押し出す動作をしてみせて笑った。
「っていうか、なんでここにいるの? 今日って別にライブとか入ってないよね?」
不思議そうな志麻を前に、ユキトは本当のことを言おうか迷った。空っぽのステージを見ながら昨日のことを思い出す行為は自分でも少しズレた感覚の気がしたからだ。しかし、別な言い訳も思いつかない。
「いや、昨日のライブがすごく良かったから、ここで昨日のセットリスト通りに曲を再生して振り返ってたんだ」
ユキトの言葉に志麻は黙ったままだ。
「……変かな?」
「そんなことない!」
志麻はそのまま取れて飛んでいってしまいそうなそうな勢いで首を左右に振った。
「……そんなに昨日のライブ、楽しんでくれたの?」
ユキトは志麻の真似をして、ぽとりと落ちそうな勢いで首を何度も縦に振った。
志麻はそれを見て本当に嬉しそうな顔で笑うと、白くて小さな手をギュッと握り、その手ごたえを確かめていた。
「嬉しいな、そこまで楽しんでもらえて」
「でも、そっちこそ何しに来たの?」
ここに志麻がいることはユキトにとって単純な疑問だった。
「君と一緒かな。もう一度ライブしたかったんだ」
そう言った志麻はストレッチを始めた。手足を伸ばし、客席の柵を支えに様々な動きで体をほぐす。
「昨日、何か所か失敗しちゃったし、復習も兼ねてもう一度踊ろうかなって」
志麻はポケットから音楽プレーヤーを取り出すと、ユキトが持っている音楽プレーヤーを見た。
「それ、貸して」
意味がわからなかったがユキトが自身のプレーヤーを手渡すと、志麻は自分のプレーヤーとユキトのプレーヤーを左右の手で器用に操作した。
「うん、曲順一緒になった」
志麻は自分のプレーヤーをひとまずしまうと、ユキトから受け取ったプレーヤーのイヤホンを手にユキトへと歩み寄った。
「え……」
どんどん近づいてくる志麻の顔に思わず後ずさりしそうになるが、寄りかかっていた柵がユキトを食い止めた。
吐息がかかるほどに近くなった志麻の顔と包み込むように伸ばした両手を前にユキトの息が止まった。緊張でこわばるしかないユキトをよそに志麻の指がユキトの耳にイヤホンを押し込んだ。
「今からライブの二日目を始めよ! ふたりだけの2DAYS!」
そう言って笑った志麻は自身のプレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に押し込むと、今度は自身のプレーヤーをユキトに手渡した。そして、ユキトの方の音楽プレーヤーを志麻が奪った。
「お互いのプレーヤーの再生ボタンを押したらライブスタートだよ、いい?」
志麻の顔はわくわくと明るい表情をしている。まるで本当にライブが始まる瞬間のように目を輝かせている。
お互いが手にした、お互いの音楽プレーヤー。これを押すとライブが始まる。ユキトはふわふわ、そわそわと、落ち着かない気持ちでプレーヤーの再生ボタンを眺めていた。
「せーの!」
掛け声に合わせて、二人は同時に再生ボタンを押した。
オープニングSEが二人の頭に大音量で響く。志麻は嬉しそうに親指を立てると、ステージへと駆け出して、腰ほどの高さのあるステージを何の躊躇もなく一足で乗り越え、颯爽とステージへ立った。
SEが響く中、拳を天に突き上げてステージ立つ志麻の姿は昨日のライブそのままだ。
一曲目が始まるといきなり全力で志麻が踊り始める。頭の先からつま先まで、意識を集中した、メリハリのある動き。他のメンバーも、照明も、何もないステージだったが、それでも志麻のダンスには息を呑むほどの緊張感と恰好良さがあった。
激しいダンスの最中、唯一の観客であるユキトと目が合う。ダンスを乱すことなく流れるように目を合わせ、微笑んだのが見えた。
気付けばユキトも全く追いつけないながらも振りを真似たり、拳を上げたり、志麻のダンスを夢中になって追いかけていた。
そこにあったのは間違いなく、ふたりだけのライブだった。
「ありがとう……一人で踊るよりずっと楽しかった」
最後の曲を踊り終えた志麻は汗だくの顔を隠すこともせず、嬉しそうにユキトの前に立っていた。
「こっちこそ! なんていうか、本当にライブだった。踊ってる姿見て鳥肌立ったもん」
不格好ながら、志麻と一緒に乗り続けたユキトの額にも汗が流れていた。
「ツアーは終わっちゃったけど、次にライブやる時も来てよ」
「もちろん! こんな楽しいんだから絶対行くよ!」
ユキトの言葉に志麻は顔をくしゃくしゃにして笑ってみせた。汗だくのその姿でも、全てを出しきった後の清涼感のようなものを感じた。
「まあ次のライブの日程は決まってないし、その頃には顔とか忘れちゃってると思うけどね」
そう言ってトコロテンを押し出す動作を志麻がする。
そんな志麻を見てユキトは思った。
彼女が顔を忘れることがあっても、自分はこの日見た光景をずっと忘れないと思う。
翌日の火曜日、ユキトは誰よりも早く教室へ来ていた。
ツアーも終わり、月曜夜にあったツアー終了を祝う打ち上げネット配信も終わり、志麻のグループはいよいよ直近のスケジュールが真っ白となった。
彼女が今日から学校に来る可能性は高い。昨日の今日となれば顔を覚えられないと言っていた志麻だってユキトの顔を見て気付くはずだ。
「あ、昨日の……」
「え、君もこのクラスだったの?」
この出会いは特別かもしれない。ユキトはクラスの中に自分の姿を見つけた志麻がどんな顔をするか想像していた。
「……キモッ!」
妄想の世界を旅するユキトを現実的な言葉が襲った。意識を戻すと沙希が蔑んだ目でユキトを見ていた。
「さっきから何ニヤニヤしてんの? 怖いんだけど」
「べ、別にニヤニヤなんかしてねーし!」
「どうせまたアイドルのことを考えてたんでしょ……引く」
「…………」
事実である以上ユキトに言い返せる言葉はない。
とにかく沙希を視界から外し、昨日の志麻のことを思い浮かべた。
(今日、俺は運命の出会いをするんだっ!)
しかし、いくら待っても志麻が教室に現れることはなかった。窓の近くにある志麻の席は空っぽのまま、一時間目、二時間目と過ぎてゆく。
休み時間、ユキトは志麻が運用しているSNSの公式アカウントを開いてみた。
「皆さんに嬉しいお知らせ! 新曲の発売が決定しました! 早速今日からレコーディング&ダンスレッスンです! んー、覚えることいっぱい! がんばるぞー」
この投稿を見たユキトの頭の中で、トコロテンを押し出す動作をする志麻の姿が何度も繰り返された。
「こりゃ絶対押し出されるわ、俺の記憶……」