007 遭遇
翌日。青年はいつもよりも早い時間に来た。
「リラ!」
名前を呼ばれたリラは慌てて読みテキストから顔を上げた。
テキストに集中していたため、レイスが来たことに気付かなかったのだ。
「こんにちは。いつもより早いのですね」
「昨日の子がいなくてよかった」
青年は背中に隠していたものを差し出した。
「受け取って欲しい、紫の姫君」
差し出されたのはライラックの小さな花束だった。
「丁度今の季節の花だから、庭に沢山咲いているんだ。散ってしまう前にと思って」
「綺麗……」
「本当はもっと大きな花束にしたかったけれど、持ち歩くのに目立ってしまうし、リラが持って帰るのも大変だろうと思ってね」
青年は少し照れるような笑顔をリラに向けた。
「凄く素敵です。ありがとうございます」
リラは花束を受け取ると、あまりの嬉しさに少しだけ涙腺がゆるんでしまった。
「そんなに喜ばれると、庭の花がなくなるまで持ってきたくなる」
「そんな……十分です! なんてお礼を言えばいいのか」
リラは微笑もうとしたが、うまくできなかった。
青年は伸ばした手をリラの頬にそえた。
「本当にリラは可愛くて……綺麗だよ」
次の瞬間。青年はリラの唇に口づけた。
突然のことに、リラはまるで時間が止まったように感じた。
自分は今キスをしている。好きな人と。その唇は温かくてやわらかくて優しい。
しかし、唇はすぐに離れた。階段を昇る足跡がしたため、青年が離れたのだ。
「……また後で」
青年はそういうと、すぐにその場を立ち去った。
今の出来事がまるで信じられないとでも言うように、リラは青年の後ろ姿を見つめていた。リラにとって、青年との口づけはファーストキスだった。
階段を昇って来たのはミルカだった。
ライラックの花束を見たミルカは眉をしかめると、リラに尋ねた。
「あの人、来た?」
「こ、こんにちは、ミルカさん」
リラはうつむきながら答えた。
さっきの場面を見られていたら恥ずかしいことこの上ない。だが、ミルカはいつも通りだったため、何も見ていなさそうだった。
「今度は花束にして持って来るなんて。これって、あの人もリラに気があるのかもね?」
強い視線で見つめられたリラはますます気まずい気持ちになった。
「庭に沢山咲いているそうです。散ってしまう前にって」
「恋する女の子は、こういうのに弱いものねえ」
からかうような口調でミルカは笑みを浮かべた。
「言っておくけど、私のことは気にしなくていいわよ、私、あの人のこと何とも思っていないから」
「えっ?!」
「ちょっと知りあえたらいいかなと思っただけなの。別に凄く好きって感じでもないのよね。まあ、イケメンだからちょっと惹かれただけっていうか」
ミルカはそう言ったが、リラは納得できなかった。
ミルカはあの青年に会うためにずっと図書館に通っている。
自分に気を使っているのだろうとリラは思った。
「でも、ミルカさんはずっとここに通っていて」
「本当に気にしなくていいから! 今ではリラとおしゃべりするのが楽しくて来ている感じなの。でも、お昼を過ぎてすぐに来るなんて珍しいわね?」
「ええ、今日が初めてです」
「いつも十五時位というか、午後でもゆっくりめだったのよね?」
「私がお見かけする時はそうですね」
「まあ、午前中は他の利用者もいるし、あえて人があまりこない午後にしているのかもね。その方がリラと二人で話せるとか思っているのかも?」
「そんなことは……いつもたいしたことは話していないですし」
「あの人、いつも閉館時間近くまでいるのよね?」
ミルカはリラに確認するように尋ねた。
「そうですね。特に何かなければ」
ミルカは急に立ち上がった。
「私、ちょっと用事を思い出したから」
「あ、はい。いってらっしゃいませ」
ミルカが振り向いたが苦笑していた。それはリラがあの青年だけでなく、自分にもいってらっしゃいという言葉を告げたからだ。
「いってきます!」
ミルカは元気よくそう言うと、颯爽と走っていった。
リラはフェリオール語のテキストを取りだした。
ライラックは、フェリオール語でリラ。
青年の言葉が蘇る。花束からふんわりライラックの香りがふんわりと漂っていた。
その日は珍しいことに、いつもより利用者が多かった。
基本的に利用者は午前中に来ることが多い。しかし、青年とミルカの後に六人も来た。
最初にきた二人は回廊の奥まで案内したが、残りの四人はカウンターにいるリラには目もくれず、さっさと通過して行ってしまった。
「迷わないといいけど」
リラはそう思いながらフェリオール語のテキストに視線を戻した。
しばらくすると、階段を上ってくる足音が聞こえた。やって来たのは見覚えのある顔だった。
「こんにちは」
以前、青年を探しに来た黒髪の男性だった。
「こんにちは」
黒髪の男性はカウンターの上においてあるライラックの花束を見ると言った。
「また急用が……彼は何時頃来ましたか?」
青年のことだろうとリラは思った。
「十三時頃でしょうか?」
「その後、ここを通った者は何人いました?」
リラは眉をひそめつつも素直に答えた。
「六人ですけど」
「六人?! かなり前ですか?!」
慌てるような口調に、リラは不安になった。
「それほど前でもないです。最初に二人来て、ちょっと前に四人が通って行きました」
「フェンネル! 来て下さい!」
階段へ向かって、黒髪の男性が叫ぶ。すると、もう一人の男性が急いで階段を上ってきた。
「何人だ?」
「最初に二人。少し前に四人だそうです」
「二人なら問題ないが、四人は面倒だ」
「すみません、すぐにあの部屋まで案内して下さい、私は行き方がうろ覚えです。急ぐので走って!」
「は、はい」
リラは黒髪の男性とフェンネルという男性を案内しながらひたすら走った。
最後の廊下にいくと、二つの部屋の扉が開いたままになっている。奥にある読書室のほうから物騒な物音が聞こえてきた。
黒髪の男性が手でリラを制す。
「貴方はこれ以上先には行かないように。私達以外の知らない者が廊下に顔をだしたら、すぐに逃げなさい」
そう言うと黒髪の男性とフェンネルは抜刀した。
恐怖を感じたリラはその場に立ちすくんだ。
黒髪の男性とフェンネルは読書室に入っていく。やがて、金属音と叫び声が響く。その後、突然、一人の男性が廊下に飛び出してきた。リラの知らない男性だった。
リラはすぐに廊下を走って逃げた。しかし、わき腹を抑えた男性はリラの後を追ってきた。
そして。
「助けてくれ!」
リラは思わず立ち止まり、振り返った。
すると男性は一気にリラの元に駆け寄り、右手に持つ剣を振り上げた。
「!!!」
リラは夢中で逃げようとしたが、背中に激痛が走ったために倒れ込んだ。剣で斬られたのだとわかる。
しかし、その次はなかった。
男性は低く呻くとリラと同じように倒れた。
リラは激しい痛みと恐怖で体を震わせた。
「リラ!!!」
廊下を走って来た青年がリラに駆け寄った。
「なんて、ことを……」
青年はかなり動揺していた。だが、冷静さが完全になくなったわけではなかった。
「シン! 医者だ! 早く!!!」
後から駆け付ける自分の側近に青年は叫んだ。
「わ、私……」
背中に感じる痛みと血の流れる感覚にリラは混乱していた。
「しっかりするんだ!」
青年は上着を脱ぐとリラの傷口にあてた。上着がみるみる赤く染まっていく。
「死ぬの……?」
リラの今にも消えそうな言葉に、青年の体が強張った。
「死なない! 死なせない!」
それはリラを安心させるためでもあり、自分にも言い聞かせるための言葉でもあった。
リラの紫の瞳から、とめどなく涙があふれ落ちた。
「痛い……凄く、怖い……」
「大丈夫だ。必ず助かる!」
「で、でも……」
「頑張るんだ!」
廊下中に血の香りが漂い、広がっていく。
リラはそのまま意識を手放した。
目を覚ましたリラは、そこが病室であることがわかった。背中が痛い。
「……お母さん」
その言葉に、はっとした女性が駆け寄った。
「リラ!!!」
泣きだした女性はリラの育ての母親だ。
「私……生きているの?」
「そうよ。助かったのよ! 良かった……良かったわ……」
母親はそういって泣き崩れた。
図書館で怪我をしたと連絡を受けた母親は病院にかけつけた。
リラは出血したものの傷口は深くなく、すぐに止血、医者がかけつけて手当てをしたこともあり、命を失わずに済んだ。
気を失ったままリラは王立図書館から病院まで運ばれ、そのまま入院することになった。
母親は看護婦を呼び、間もなく医者が来た。
医者はリラの状態や傷口を確かめ、酷い痛みを和らげるための薬を処方した。
リラは薬を飲み、もう一度眠りに落ちた。
全てが悪い夢で、目覚めた時には何もなかったことになっていたらと思いながら。




