005 ミルカ
「こんにちは!」
それからほぼ毎日、茶色の髪の女性は、カウンターにいるリラの元へやってきた。
女性の名前はミルカ。リラの元に来るのは、案内を頼むためでも、本を借りるためでもない。あの青年に会うためだと宣言していた。
しかし、あれ以来、青年は来ていない。リラがアルバイトをしていない週末にきているのかもしれないが、実際にどうなのかはわからない。ミルカも週末は仕事で忙しいため、リラと同じく図書館には来ていないということだった。
「できるだけ通っているのに、全然来ないわね」
ミルカはいかにも残念だという表情を浮かべた。
ミルカは図書館利用者として本を借りる気は全くなかった。ずっとカウンターの所にいて、リラに話しかけてくる。
いつの間にかどこからか椅子も持ってきて、リラの隣に座るようになったため、何も知らない者から見れば同僚のようだった。
最初こそミルカの話に合わせていたものの、ずっとは困るとリラは思った。
ミルカと違い、リラには案内役としての仕事がある。空き時間はおしゃべりではなく勉強をしたい。そんなリラの気持ちはおかまいなしに、ミルカは延々と暇を持て余して話しかけて来た。
リラは段々と返事をしなくなった。そして、ついにはミルカを無視し、リラは勉強用のテキストを取り出して勉強をするようになった。
「リラ、間違っているわよ」
「え、どこですか?」
リラは驚いてミルカに尋ねた。
「ここよ。アとエを間違えているわ」
「あ……」
ミルカに教えられたところは、青年にも以前注意された部分だった。
「発音が違うと、別の言葉に聞こえてしまうこともあるから、気を付けないといけないわ。フェリオール語を勉強して、その後でコーラル語を勉強すると、アとエの発音が混乱しやすくなってしまうかもしれないわね」
「そうかもしれません」
リラはミルカに教えられた通り、テキストに要注意の書き込みをした。
「あの……個人的なことを少しお訊ねしてもいいでしょうか?」
「何かしら?」
「ミルカさんは若いのに語学に堪能そうです。高度な教育を受けられていたのでしょうか?」
リラの質問に、ミルカはおかしそうな表情を浮かべた。
「高度な教育ですって?」
「言葉遣いも丁寧ですし、綺麗なワンピースをいつも来ています。もしかして、貴族なのでしょうか?」
「リラは本当に世間知らずで見る目がないのね」
ミルカは大きなため息をついた。
「私は平民よ。しかも、下級の」
「えっ!」
リラは心の底からびっくりした。どうみても、ミルかは下級平民に見えなかった。
「全然そんな風には見えません!」
「ここだけの話だけど、私は酒場で働いているの。高級酒場と言われるようなところよ。わかるかしら?」
「高級な酒場というと、高価なお酒を飲む場所なのでしょうか?」
「間違いではないわね」
言葉通りにしか理解していないリラに、ミルカは苦笑した。
「ホステス、あるいは社交係という商売よ。客の横に座って楽しい会話をしたり、酒や食事の給仕をしたりして楽しい気分を味わって貰うの。接客商売だから言葉遣いには普段から気を付けているわ。私達は夢を売る商売でもあるから、夢を壊さないように振る舞わないといけないの」
「夢を売るなんて素敵なお仕事ですね」
素直にそう口にしたリラに、ミルカは大笑いした。本当にリラは何も知らないのだと思いながら。
「ミルカは若くてきれいで、それでいて語学ができるなんて凄いです。私ももっと勉強して、様々な言葉が話せるようになりたいです」
「酒場には外国のお客様も来るの。外国出身のホステスもいるわ。だから、少しずつだけど会話の勉強はできるわね。但し、筆記はできないわ。お金の勘定に関しては得意よ。周辺国の通貨であれば、どの国のものでも大丈夫」
「お金の勘定も得意なのですね」
「本当にここだけの話だけど、最近、凄くうるさい客がいるの。高級娼館のスカウトをしている人で、私に高級娼婦にならないかって言うのよ。その方がお金を稼げるってね。何度も断っているのに、客として来るから笑顔で相手をしないといけないでしょう? 本当に嫌だわ。ああいう客は路地裏に連れ込まれて、身ぐるみはがされてしまえばいいのに」
「……大変なお仕事ですね」
「リラにはちょっと刺激的な話だったかしら? 貴方は育ちが良さそうだものね。もっと綺麗な服を着ていれば、貴族だって思われるわよ。でも、平民なのでしょう?」
「はい」
「上級? 中級?」
「中級です」
「いいわね。私の見た目はともかく、身分証を見れば下級平民だということがわかってしまうわ。なぜこんな出自なのかって思うこともあるわね。中級平民に生まれていたらもっといい仕事ができるし、玉の輿に乗れたかもしれない。少し位容姿がよくても、下級平民だとわかると本気で結婚しようと思ってくれる人はいないもの」
身分や階級がある国はリュカインだけではない。自分の出自、身分が一生を左右することになる。
「そうですね。出自がよくないと、それだけで差別されてしまいます」
「私の両親はコーラルからの移民なのよ」
ミルカは呟くように言った。
「それでコーラル語がわかるのですね。でも、リュカイン語も凄く流暢です。移民の方は発音にクセがありますが、ミルカさんの発音にはクセがありません」
「私が生まれる前に両親はリュカインに移住したの。私はリュカインで生まれたから、リュカインの国籍を持っているわ。だから、両親は私をコーラルからの移民やその子供達が通う学校じゃなくて、リュカインの学校にいれたの。それで発音にクセがないのよ」
「……そう言われると、ミルカさんはコーラルの方の特徴を持っているようにも見えます。ほんの少しだけですが」
「風貌に関しては、お化粧で多少は誤魔化せるのよ。それに、私の両親はコーラル人だったけれど、両親共にリュカイン人とのハーフなの。そのせいで、私はいかにもコーラル人という容貌をしているとは言い難いわね」
「そうでしたか」
「それにしても、リラの瞳は綺麗ね。宝石みたい。なかないないわよね、紫の瞳って」
「南の国にいけば、紫の瞳を持つ者が多くいると聞いたことがあります」
「もしかして、リラの両親のどちらかが南の出身なの?」
リラは寂しそうに微笑んだ。
「私はとても小さい時に今の両親に引き取られて育てられました。本当の両親のことは、ほとんど覚えていないのです。十六歳になったら、本当の両親について教えると言われています」
「リラは孤児なの?」
「それもわかりません。でも、私の両親は私を育てることができない事情があったのではないかと思います」
「そうね。変なこときいてしまって悪かったわ」
ミルカは余計なことを聞いてしまったことを悔やみ、何かリラを元気づけるような話題がないかと思案した。そして酒場で聞いた話を思いつき、それを話すことにした。
「そうそう! エルナトスではね、紫の瞳は神の祝福を受けた証って言われているのよ!」
「神の祝福?」
エルナトスはリュカインの隣に位置する国だ。いくつもの小国を併合したため、王国ではなく帝国という名称を使用している。
リュカインとは軍事同盟を結んでいるほど、強い絆で結ばれている友好国だ。
「もちろん珍しいからっていうこともあるらしいけれど、皇帝の一族、特に女性に時々あらわれるらしいの。隔世遺伝というか先祖返りというか。確かフェリオールの王太子と婚約している皇女が紫の瞳らしいわよ。皇女と王太子のカップルなんて、凄く素敵でいいわよねえ」
ミルカは夢見るようなまなざしでいった。
「私もいつか玉の輿に乗りたいわ。リラも綺麗だし、持参金がなくても貴族と結婚できるかもしれないわ。一緒に玉の輿を目指しましょうよ!」
ミルカの迫力ある雰囲気に、リラはやや押され気味になり、苦笑した。
「そうだわ! リラは将来エルナトスに行けばいいわよ!」
「エルナトスに?」
「そう! エルナトスに行けば神の祝福を受けた紫の瞳を持つ美少女ってことで、きっと男が選り取り見取り」
急にミルカが口をつぐんだ。
リラはミルカの視線の先を見た。そこには階段を上って来る青年の姿があった。
「やっと来たわね」
ミルカが呟いた。




