003 知らないまま
翌週。
カウンターに座りつつ、リラはコーラル語のテキストを読み、発音練習をしていた。
「発音が違う」
不意に声がしたため、リラはドキッとした。
誰もいないと思っていたため、かなりはっきりと声を出していた。しかも、発音が間違っていることを指摘したのは、あの青年だった。リラは恥ずかしさでいっぱいになった。
「気づきませんでした。こんにちは」
少し頬を赤く染めたリラをみて、青年は微笑みながら言った。
「こんにちは。その言葉は、アではない。エと発音する。テキストを見せて」
青年はリラが書き込みをしているテキストを見ると、ペンを取り、間違って記入された発音記号のメモを直した。
「これでいいかな。たぶん」
「ありがとうございます。もしかすると、コーラル語について詳しくご存知なのでしょうか?」
青年は首を横に振った。
「いや、少しだけしか知らない。君のような若い女性がコーラル語を勉強するのは珍しいね。何か特別な理由があるのかな?」
リラはコーラル語をなぜ学ぶ気になったのかを説明することにした。
「聖堂の慈善バザーをお手伝いする時に、コーラル語しか話せない者や、リュカイン語が苦手な者がいたのです。コーラルからの移民とか貧しい者は、コーラル語の方が通じるようです。でも、コーラル語を話せる者がいないと、対応に困ってしまう時があります。身振り手振りでも通じないこともあります。それで、コーラル語を少し勉強してみようかなと思いました。聖堂のお手伝いをする際には、コーラル語を片言でも話せれば、相手も少し安心しますし、役立つかもしれないと思いました」
「なるほど」
リュカイン国内にはコーラルからの移民が多いとはいえ、そういった者達は必死にリュカイン語を習う。基本的にはリュカイン語で話せば通じることが多い。
コーラルは歴史的に見ても、何度も戦争を繰り返している敵国ともいえた。
その敵国からの移民あるいは血を引いている者達は、リュカイン国籍を取得できても低い身分になる。下級平民。いわゆる、貧民層だ。
そういった者のためにわざわざ言葉を覚えるということを選択する者は非常に少ない。
青年はリラに好感を持った。
聖堂の慈善行為に参加し、貧しい者達のために言葉を覚えようという行動は、とても親切で優しい性格だとわかる。
「貧しい者達や困っている者達のことを考えてくれて嬉しい。君を心から応援しているよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、今日も行ってくるよ」
青年は軽く礼をすると、迷いの回廊の方へ行ってしまった。
部屋への道を覚えてしまったのか、青年はリラには声をかけただけで、案内は頼まなかった。
リラは案内できないことを残念に思った。もう少しだけでも一緒にいたい。しかし、カウンターから離れるわけにはいかない。勤務中だ。
リラは気持ちを切り替えるように大きく息を吸って吐くと、コーラル語のテキストに視線を戻した。
そこには青年の書き入れた発音記号の文字があった。
頑張ろう。
リラは気合を入れ直し、勉強を再開した。
青年は翌日も来た。そして、リラに声をかけた。
「こんにちは」
「こんにちは」
青年はにっこり微笑むと行ってしまった。
たったそれだけのやり取りだったが、リラはとても嬉しかった。
あまり人が来ない別棟のカウンターに配置されてからは、リラは毎日ほとんど一人だった。
案内する者がいても、案内したらそれで終わりだ。配置されているのはリラだけのため、本館のカウンターのようにおしゃべりをする相手もいない。
楽な仕事で勉強時間も取れると喜んでいたのは最初だけで、なんとなく寂しい気持ちを感じていた。だからこそ、青年に声をかけられただけでも嬉しかった。
あの青年がいつ来るのかはわからない。ある日突然来なくなり、そのままずっと会えなくなるかもしれない。その可能性が高い。本に用がない者は図書館に来ない。
本当は青年の名前やどこに住んでいるのかといったことを知りたかったが、利用者にそういったプライベートなことを聞くことは、規則で禁じられている。
リラは職員ではないものの、王立図書館のアルバイトとしてふさわしい態度や行動を示す為に我慢しなければならない。
できるだけ多く青年が図書館に通ってくれますように。
リラは心の中で祈った。
約一カ月が過ぎた。
青年は毎日ではないものの、かなりの頻度で訪れては、必ず来た時と変える時に、リラに声をかけた。そして、リラの勉強状況を尋ね、わからないと思う部分を教えてくれた。
ちょっとしたことを話しつつも、互いのことは何も知らないままだった。
十六時半を過ぎた。
黙々と勉強をするリラはテキストをパラパラと見返した。独学では難しいだろうと予想し、ゆっくり勉強するつもりだったが、順調にテキストをこなしていた。
もうすぐコーラル語の検定試験がある。初級検定を受けてみようかとリラが考えていると、足音が聞こえた。
リラが顔上げると、青年と目が合った。
リラは恥ずかしさに顔を赤くして下を向いた。
青年は優しく微笑みながら声をかけてきた。
「テキストは進んだ?」
「はい。でもいくつか難しいところがあって」
「見せて」
青年はリラが難しいと思う部分を聞くと、わかりやすく説明してくれた。更にペンを取り、カウンターにかがみこむようにして、テキストに書き込みを始めた。
リラは青年がどんなことをテキストに書いているのか、のぞき込んで確認しようとした。
「これでいい」
不に年が顔を勢いよく上げた。
そのため、互いに顔が至近距離になり、リラは固まってしまった。
青年も驚いた様子で、リラを見つめたまま動かない。
しばらくすると、青年は言葉を発した。
「君の瞳は紫だね。とても珍しい」
リラはどのように返せばいいかわからない。そして、あまりにも青年の顔が近い。じっと見つめてくる青年に魅入られたかのように、リラは動けず、青年から目を離せなかった。
青年はリラの瞳の色を確かめるように見つめ続ける。
「綺麗だ。吸いこまれそうだよ」
ゆっくりと青年の顔が近づいてくる。より、リーナの瞳の奥を覗き込むように。
突然の青年の行動に、リラは顔から火がでそうな気持になった。
心臓がドキドキしている。声もでない。ただ、青年を見つめることしかできない。
青年はリラの紫の瞳からまったく目を離さずにいた。
しかし、急にはっとした表情になった。
青年は顔を急いで離すと横に向け、手を口元にあてた。その後すぐに一瞬だけリラを見ると、急ぐように立ち去ってしまった。
リラが我にかえったのは、十七時の鐘が鳴った時だった。