2/避日常。
遊佐に『警告』を受けたその晩。俺は、上手く寝付くことが出来なかった。
カーテンの隙間から差し込む月明りが眩しい。様々な疑念が渦巻いていた。
そもそも、遊佐と南条先輩の関係は何なのか。知り合い…だとしても接点がある雰囲気を感じる事が出来ない。
そして、その上で南条先輩に近づくな―と。
それが一番、納得が行かない。何があってそんな物言いをしてくるのだろうかと。
…あぁ、考えても答えが出るとも思えない。直接問わない限りは。
聞くべきかも知れない。そうだとすれば、考える事を止めて眠ろう。
そんな思考を何度も巡らせては、再び月明りに目をやる。多分、自然と眠るまではこの『靄』は晴れないのだろうと思う。
―今日は、月がきれいだ。夏だと言うのに、窓の外には冬のソレのように澄んだ群青の空と白銀の月。星は見当たらない。
その空を見上げ、無になった思考が再び煮立つ。意識が無くなるまではこれが続くのか。
少し自棄気味に思った時。遠くから地鳴りが聞こえてきた。こちらへと近づいてくる。
「地震」
呟いて、上半身を起こす。揺れが来る―と、体を固めた。
体が大きく右へと降られた部屋中のモノが共振する。
…しかし。その一度の揺れを残して地鳴りは消えた。再びの静寂。
カーテンを開いて、外を見る。異変は無い様だった。
今の揺れがどれだけの地震だったのか、確認しようとスマホへ手を伸ばした所で、唐突な眠気が体を重くした。
ようやく眠られる。その安堵もあって俺はベッドへと横たわっていた。
視界が閉じられる。
まるで、何かにスイッチを切り替えられる様に。俺の意識は睡眠へと落ちいていった。
―2/避日常
朝が来る。
遠くで雪菜と由亜の声が聞こえた。
何時だろうか、と片目を開いて時計を一瞥する。
「10時か」
もうそんな時間かとため息が出た。昨日の揺れは何時だったのだろう。枕元のスマホを取り上げ、ニュースを見る。が、地震にニュースは出ていない。
…まぁ、それほど大きな地震でも無かったから、それも仕方ないか。何事も無かったならそれで良いけれど。
思って、体を勢いへ任せて起こす。瞼が開かない。寝不足だ。頭の中を整理する。
まずは…朝食を。
考えて、目を擦りながらベッドを後に。階段を降りる。彼女たちの声が大きくなってくる。何やら、昨日の話にまだ花を咲かせているようだった。
「おはよう」
リビングに足を踏み入れると、由亜の意地の悪い「おそよう」と、雪菜の元気な「おはよ」が重奏になって俺に降り注いだ。
「ごめん、遅かった」
言うと、雪菜は首を横に振ってみせる。由亜の方は「なまけてんじゃない?」なんて言ってくる始末。
まぁそうだね、と適当な挨拶をしてみせ、俺は冷蔵庫のパンを手に食卓に着いた。ジャムパンでも食べよう。
由亜はそんな俺を一瞥するだけで、弄ってくる様子は無い。雪菜は隣の席に座り、今日は何をしようかと首を傾げてみせた。
「そうだな。あぁ、姉貴。今日はバイトあったよね」
「今日もいいわ、あんたは休みなさいな」
と肩をすくめた由亜。雪菜に時間を使ってあげな、と言う事なのだろう。
雪菜の前では、姉貴も優しい言葉が多くなるのかもな。
思いながら礼を言って、俺はパンを頬張った。
◇
午後になって、由亜は早めの出勤をしてしまった。
暑いし、夕方まで終わらせれば良いんだからゆっくりしたら?と言う俺を後目にだ。
何をしようか。結局、朝食を終えたまま、ぼんやりと時間を過ごしてしまった俺は未だに計画を練る事が出来ていない。
雪菜もあまりしつこく強請るタイプでは無いので、隣で一緒になってテレビを見たり、本を読んだりしている。
時間はもうすぐ2時になろうとしている。
時計を見て虚脱感を覚えた所で、呼び鈴がなった。
「あ、雪菜出てくれる?」
パジャマのまま出る訳にも行かない。
「うん、わかった」
屈託無く言って、雪菜は玄関へと駆けていく。…と。
「雪菜ちゃん、今日も可愛いねぇ!」
そんな、怪しい言葉が玄関から響いてきた。―あぁ、アイツか。
椅子を引き払って、俺も玄関へと足を向けた。
「秋兎、変質者だって通報するぜ」
「酷いねぇ、本当の事言ってるだけだよ。雪菜ちゃん、いつでもウチの義妹になっていいんだよ?こんな不摂生な出不精に付き合わなくても」
短髪と細い眉毛、切れ長の目。細身だが確かな筋肉を感じる体つき。
大体いつもボタンを上から3つまで開けるワイシャツ。もちろん、そのシャツの裾がズボンにきっちり収まっている所は見た記憶が無い。
往々にしていつ見ても同じ雰囲気をまとうのが、この山元秋兎と言う男だった。
「うるせぇ、誰が不摂生の出不精だ」
「昼過ぎでもパジャマのヤツだよ」
雪菜がくす、と笑った。
俺もこの姿をさらけ出した今、『不摂生』『出不精』を挽回する言葉が思い付かない。
「まぁ、その通りだわ」
肩をわざとらしく落として見せる。秋兎は勝ち誇った表情を浮かべてみせた。
「だろ、夏休みだからって堕落するのが悪いんだよ」
「んだよ、補習かわしたのは実力だかんな。お前補習組だろうが」
「勉強させてもらってるんですよ。堕落してると2学期つらいぜ?俺はその点勉強してるからな」
いや、胸を張る所間違ってるぞ。と言いたかったが、このまま玄関で不毛な争いをする意味は無い。
「そうかいそうかい。で、今日はどうしたこんな時間に。補習終わったんか?」
「今日は少し早く上がらせてもらったのさ―」
上がる、とかあるのか…。
「―で、雪菜ちゃんの顔を見せてもらいに。癒されに来たのよ。お前に用は無いけど」
「急に来るなよな。居なかったらどうするつもりだったのさ」
「いや、メールしておいたけど?」
言われて、スマホを部屋に置きっぱなしにしていた事を思い出した。
「ごめん、携帯部屋だわ」
「はい出ました、『夏休みの朝だからってゆっくり寝過ぎて時間見て焦って部屋出た』ヤツー」
「まさにその通り。お前は何か?夏休みの神か何か?」
いや、と秋兎はいう。
ほんの少しの溜めを作って。
「ぶっちゃけ俺もその経験数えきれないからな」
はぁ、とため息しか出ない。雪菜も笑った。
「まぁ、いいわ。部屋上がれよ」
とりあえず、と階段を指差す。
秋兎もご機嫌に「お邪魔しまーす」なんて言いながら、靴を脱いだ。
部屋へ上がったヤツを脇目に、キッチンにお茶を―…と、足を運ぶ俺の脇。雪菜がそそくさと冷蔵庫を開き、お茶を出す。
リビングにあったお菓子を手に、俺へと差し出してくれた。なんて出来た妹なんだと言う関心と共に、やはり姉貴あっての妹なんだとも感じた。
「ありがとう」
にこにこと笑いかけてくる雪菜へ言って、俺は二階へと上がった。
部屋には、早くもくつろぎモードな秋兎の姿。お前、人の部屋上がって即行で横たわるヤツが居るか。
「ほら、飲めよ」
その頭の横にお茶とお菓子を置く。ヤツはすぐさま上半身を起こしてそれを一気飲みする。
「サンキュー、喉乾いてたんだわー。暑さにやられたぜ」
秋兎は笑って立ち上がる。何かと思えば部屋のドアから顔を出して雪菜に「ありがとー」なんて声を飛ばしていた。
「まぁ、そうだろうな。今日も暑いし」
「異常だよ、異常」
溜め息を吐きながら、目の前に座る秋兎。
「まぁ、こんな日はエアコンの聞いた君の部屋でゲームでしょ」
「人んちを漫喫みたいに使うなよな」
「まぁまぁ、いっちょやろうぜ」
言って、ポケットからゲーム機を取り出した。仕方ない、と俺も机の上のゲーム機を手に取る。
俺と秋兎の長い戦いが、始まった。
格闘ゲーム、アクションゲーム。そして、共闘―。
攻略が一段落し、二人ゲーム画面から目を外す。視界の隅では背伸びをする秋兎の姿がある。
「なぁ、遊佐ってどんな子なん?」
不意に口をついて出たのはそんな質問だった。意識していた訳では無く、本当に滑り出ていたと言う感じだ。
「遊佐?…遊佐鈴歌か?」
不思議そうに俺を見る秋兎の目。…あぁ、俺だって遊佐と言う言葉が出たのが不思議だ。
「そう、だな。昨日鈴城山登った時に会ってさ」
「なんだ、惚れたのか」
ヤツは腕組みをしながら何度も頷いて見せた。
「違うわ。学校では何度か見た事があるんだけど、あんまり知らない子だなと思って」
「それって気になってるって事じゃん」
「あぁ、もうそんなんでいいや」
俺は溜め息交じりに笑ってやった。昨日の『警告』を言う気にはなれなかった。
「そうかそうか、裕也もそんな歳か」
「同い年だろうが。お前は親か」
いい加減にしろよ、と肩を叩いた。
「で、遊佐の何を知りたいって?身長152cm、体重は…知らんが。スリーサイズは確か―」
「―いや、そんな事はいいよ」
校内の可愛い女子、不思議な女子。…とりあえず、女子の事はヤツに聞けばある程度は把握出来る言わば情報屋として名が通っているのが、秋兎と言う男であった。
…その癖して恋愛にはかなり奥手。ほとんど自身には浮いた話の無いヤツではあるのだが。
「まぁ、スリーサイズとかは数字より実物の迫力だよな。実際の所」
―いや、そういうんじゃなくて。と流れを仕切りなおす。
「―実家は、神社だよな?」
「そう。鈴城神社の宮司の娘。高1の妹もいて、姉妹で弓道部だ。名前は鈴音ちゃん。二人してあんな清楚系の可愛い子だよ」
「へぇ。弓道部だったんだ」
「なんだ、袴っていいなぁとか?実際練習見に行ったらジャージ率高いぞ」
…行ったんだな、と口元が緩んだ。
「基本的にあんまり話さない子だからな。実家のイメージもあってミステリアスな魅力があるって評判だよな。妹さんは結構明るい感じだったけど」
「妹にも会いに行ったのか」
「まぁ、軽くね。接点無いから大変だったけど、その友人の友人が幼馴染の弟でな。その子をアテにちょっとだけ話した。本当、普通の可愛い女の子だったよ。姉の話聞いてもニコニコしててな」
「姉妹仲は良さそうなんだな」
「そうだね。ただ、姉様はずぼらな所があるとかなんとか言ってたかな。キッチリしてる様に見えるけど部屋散らかってるとか」
「え、意外だな」
遊佐はなんでもキッチリしていそうな、勝手なイメージが付いていた。
「だろ。俺もビックリしたよ。ギャップ萌えかな。そしてあまり知られていない一面を知った俺、ラッキーみたいな」
舌を出して笑ってみせ、秋兎は続ける。
「でも、なんか絶対に他人を入れないスペースがあるんだとよ。ロッカーみたいになってて、何が入ってるのか分からないけどその周り30cm位は必ず何も置かずに綺麗なんだと」
「ロッカーみたいなスペース?」
「まぁ、俺も見てないから分からないけど。部屋の片隅に箱があって、そこだけその箱以外は何も無いって感じなんじゃないかな」
何か宝物でも入っているのだろうか?
「まぁ、後は霊感があるって噂もあるな。これは同級生の子から聞いたけど。1年の時に学校中のヤバそうな教室とかを放課後に回って、浄化したとか何とか?」
―浄化?そんなアニメじゃあるまいし。噂が誇張されているだけだろうとは思うが、霊感と言う所は有りそうな気がした。
「まぁ、なんにせよ本人がほとんど話さないからな。同級生の女子も男子も、ほとんど必要な事以外はあの子と話した事が無いってのが大体の所らしい」
そんな所かなぁ、と言って秋兎はまたゲームを始める。
「南条先輩と仲良いとか、聞いた事は無いか?」
「え?…千穂先輩か。学校も学年も違うけど、二人揃ったら和美人のたまらないツーショットなんだが、残念ながらそんな事は無さそうだ。少なくとも聞いた事は無いなぁ。千穂先輩側の情報は少ないし」
「そうか」
「なんだ、千穂先輩と悩んでるのか?随分高い目標掲げるなぁ。まだ遊佐の方がワンチャンあるんじゃないか?」
「そんなんじゃないって」
まったくそう言う話ではないんだって。と呟いて、ゲームを再開した。
―やがて、窓の外は朱く染まっていた。熱中していたゲームから目を離すと、時計は六時を指している。
一体今日一日何をしていたのだろうか。
目前のヤツは巨大ボスとの激闘を終えた所らしく、時計に目をやっていた。達成感からか、その顔はどこか爽やかだ。
「もうこんな時間か」
一瞬の静寂を挟んで、俺が先に言葉を発した。
「そうだな。早いわ。何回か雪菜ちゃんお茶持ってきてくれたよな。多分」
「あぁ、そうだな。俺はしっかりお礼言ってるよ。お前も言ってたけど、まぁ心ここにあらずって感じだったけど」
「しくったな。好感度ダダ下がりじゃあないの」
今更何を言っているのやら。
秋兎ははぁ、とため息をついて「まぁ、帰るわ。雪菜ちゃんにしっかりお礼言ってくぜ」なんて言って、立ち上がる。
階段を下りるヤツの後を行くと、雪菜がちょうど階段の下に立っていた。まさにこれから二階へとお菓子を持ってきてくれる所だったようだ。
「雪菜ちゃん、何回も本当にありがとう」
笑顔で言う秋兎に、雪菜も笑顔で応える。
「いえいえ、いいんです。私もゲーム好きなので。あのドラゴン、倒せました?」
「もちろんさ」
わざとらしく爽やかに答える秋兎に、また吹き出す雪菜。まぁ、確かに雪菜の反応を客観的に見ていたら『雪菜萌え』になるのも分からなくは無い…かもしれない。
「じゃ、雪菜ちゃん。お邪魔しました。裕也、また来るぜ。おばさんにもよろしく言っておいて」
今日は母は仕事で出ていた。これまで何度か、母と秋兎が仲良く話しているのを見た事がある。
母が居ると、時折母が作ったお菓子なんかを秋兎に持たせて帰らせる事もある位だ。まぁ、秋兎が来ていたと母に言っておくのも当然だろう。
「おう、分かった。伝えておくわ」
「じゃ…」
秋兎が言いかけ、靴を履いた所でドアが開いた。由亜の帰宅だ。
「あら、かなり久しぶりね。秋兎君」
姉貴は玄関の段差に座り、靴を脱ぎながらにこにこと言う。ちょうど、秋兎とは並んで座る形になった。
秋兎は緊張した雰囲気で「お久しぶりです。お元気ですか?」なんて聞き返す。接点と言えば、俺が知っている限りもう一年前の夏休み以来だろうか。
「元気よ。今日もバイトだったわ。…何?裕也と遊んでくれたの?ありがとね」
くす、と笑う姉貴。あまり見る事の無い外向きの挨拶だ。
「い、いえ!楽しく遊ばせてもらった上に雪菜さんが何度もお茶とか注いでくれたので快適でした!」
ありがとうございました!
言いながら、秋兎はドアを開いて走って行った。狭まっていくドアの隙間から、小さくなって行く彼の背中が見える。
「なんか…緊張させちゃったかな?」
そんな低いトーンの由亜の呟きに、俺も首を傾げるしか無かった。
「あ。そうそう、お母さんに旅行のプレゼントしようと思って、今日バイト前に旅行代理店行って来たのよ」
姉貴はそんな事を言いながら、肩掛けのカバンから日本各地の温泉地のパンフレットを出して見せる。
ちょっと相談乗ってくれる?なんて笑って。
◇
「ありがとうございました!」
声を振り絞って、裕也の家のドアを飛び出す。
火照った頭を風が冷やすまで、走り続けた。何個も交差点を抜ける。遠くからヒグラシの声が響いている。熱風が体に纏わりついてきた。
…あれだけの近距離に、年上の女性が―しかも綺麗な人が―居る経験なんか初めてだった。並んで座るなんて尚の事。
同い年や年下なら良いのだが。年上の女性となるとあまり得意では無い。緊張してしまう。
なんかいい匂いしたし。―雪菜ちゃんと言う妹がいながらおのれ裕也め。
裕也に恨みを向けた所で、少し頭がスッとしたのを感じて俺―山元秋兎―は走るのを止めた。
息が少し上がっている。夢中で走る内、だいぶ裕也の家からは離れている。
夕陽が空一面を朱くしていた。東の空を見れば紫色のコントラストが混じり始めている。もう夜だ。
俺の家は小高い丘に並ぶ住宅街の中にあるから、裕也の家から見ると丘を一つ上るような形になる。
坂を上り始めると、だんだんと視野が広くなって来た。西の方にはこの町でも目印になる南条邸が見える。大きな洋館で、周囲の住宅街からは少し離れた場所にあるから目立つのだ。
増して、日が暮れ始めた今くらいになればオレンジ色の灯りが点るから分かりやすい。
裕也が千穂先輩の事が気になるとなれば、友人として止めてやらなければならない。その屋敷を見れば、彼女が高嶺の花だと言うのは一目瞭然だ。
そして、その反対。鈴城山。その八合目程に鈴城神社―遊佐の家がある。鈴城神社は遠目から見ると鳥居以外はあまり目立たない。
その鳥居を見ながら、裕也もまさか遊佐鈴歌に惚れるなんてな。と一人笑う。
―そう言えば、暫く遊佐神社にお参り行ってないなぁ、とも思った。あぁ。毎年夏休み終り頃になると夏祭りがあるから、その時でいいか。
夏祭り中は遠くからでも縁日の明りが並ぶから分かりやすくなる。しかしまぁ、祭まで一か月近くある筈なのだが。今日は、鈴城神社の辺りが煌々と輝いている。
「なんだ?」
疑問には思った。が、例年では祭り直前の予行演習を、前倒しでやっているのだろうとも思う。
恒例となる盆踊りや、弓で的を射る事で残り半年の安全を祈願する儀式など。もしかしたら今年は何か増えるのかも知れない。
それも楽しみだな。思って、俺は家への坂を上り続けた。
◇
翌日になって、雪菜は隣町にある歴史博物館へと出掛けて行った。なんでも今は『神話に見る私達の街』なんて企画展を開催しているらしく、その手が好きな友人に誘われたとの事だった。
雪菜を送り出し、気だるい夏の午前中を無意味に過ごしている俺を見かねたのか、姉貴が「出かけるわよ」なんて言って来た。早く準備、と追い打ちをかけてくる。
「あれ、今日もバイトじゃ?」
「そうだけど、あんた無駄に時間過ごしてるからもったい無いじゃないの。バイトは二人でやれば早いし」
まぁ、言われなくても手伝うつもりでは居たが、姉貴の計算に勝手に入れられているのはなんとも悔しい。
「何時からバイト行くの?」
「そうね―」
姉貴は時計を一瞥して、3時、と答える。今は11時だ。
「分かった。んじゃ、準備するわ」
このままバイトの手伝いを出来る様にして行こう。決めて、俺は部屋にあがった。
ほどなく着替えを終えた俺が1階へ戻ると、姉貴は既に着替えを終えてアイスコーヒーを飲んでいた。さすがに早い。
今日は白いTシャツにジーパン、髪は後で一つに結んでいる。
動きやすそうな服装を選んでは居るが、清潔感のあるその雰囲気が不思議と目を引く魅力があるようにも思える。
「ほら、行くわよ」
コップに半分ほど残っていたコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がる姉貴。玄関へ、そして外へと足を進める彼女の後を俺は付いていった。
外は相変わらずの猛暑。こんな日にどこへ行くつもりなのか。姉貴は迷う様子無く歩いていく。
「姉貴、どこに―」
「まぁ、いいからついてらっしゃいな」
俺の言葉を遮り、彼女は更に道を選んでいく。角を曲がり、坂を下ったかと思えばまた上る。10分、20分と時間が立つ。
自販機前で立ち止まり、スポーツ飲料を2本。1本は無言で俺へと差し出した。冷たい。喉を通り抜けるその爽やかさも束の間。彼女は再び歩き出した。
「そういえば、昨日の話だけど」
姉貴は少し歩みを遅くして、俺の横に並びながら続ける。
「お母さんの休み、上手いこと聞き出してくれた?」
「あぁ、それなら雪菜が。来週の木金土日と休みだって。まだ予定も無いみたい」
「イイ感じね。じゃ、明日にでも秋保まで行ける様にチケット買ってくるから、あんたはお母さんがその間に予定入れない様に誘導しておいて」
昨日の話し合いの結果、行先は宮城県の秋保温泉郷に決まっている。母さんは昔から東北に憧れがあったらしい。その辺りは昔から一緒の姉貴と雪菜の方が知っているから、口出しはしなかった。
3日間の旅行予定だったから、仙台や松島の方も見られるだろう。姉貴の『親孝行』の計画らしく、ずっと前から旅行に行かせてあげたいとの事だった。上手く行きそうだ。
計画の話をしながら歩き続け、やがて家を出てから40分経とうか…と言う時になって、急こう配の坂を上る俺の視界の先に人だかりが見えてきた。
何かの行列か?と視界を更に上げる。そこには、20メートルはあるのでは無いかと言う行列。そして、その先にはオレンジの屋根とクリーム色のレンガ風の壁が目立つ―。
「―カフェ?」
テラス席や、店の中にチラリと見える人々がスイーツやアイスコーヒーを手にしているのが見えた。
2階建て、丘の上に建てられている。看板は見えないが、あまり店である事をアピールしていないにも関わらずこれだけの行列。
ランチタイムと言う時間帯もあるかも知れないが、評判は良いのかも知れない。
そして店内、外にも目に付くのはカップルの姿。同性で席に座っている姿は殆ど無い。
こんな所に流行りのカフェがあったのか。これまで知らなかった事だ。気づくと、姉貴が行列に並んでいた。俺を手招いている。
「目的地ここ?」
聞くと、彼女は頷いて見せる。「カップルばっかりだから入りにくかったのよ。あんたなら気を使わないで済むし。暇そうだったし」
「まぁ、その通りだけど―」
傍から見たら俺達も『そういう』二人に見えるのでは?
「―いいの?」
「別にいいわよ」
そっけなく答えて、彼女は店の方へと向き直った。
炎天下の行列だから、店の人が水を持ってきてくれた。それを飲んでは、汗に還元。果たして水を飲む意味なんかあるのだろうか?
思って、姉貴にそんな話をしても、彼女も暑さにやられているのか伏し目がちに「まぁ仕方ないわよ」なんて言うだけだった。
会話はそれ以外殆ど無かった。周囲のカップルからは楽しげなささやき合いだったり、小話が聞こえてくる。
それを聞きながら。徐々に、なんか気まずいな。なんて思い始めた辺りで、行列はようやく俺達の番になった。
自動ドアの入口を潜ると、乾いた冷たい空気が俺達を包む。席に案内され、椅子に座るとこれまでの反動からか、普通の椅子では無く上等なソファに座ったような満足感を感じる。
…無論、椅子自体は少し飾り気のある程度の木の椅子だ。クッションは敷いてあるが、ソファの柔らかさからは程遠い。
「いやあ、涼しいわ。姉貴何飲む?」
あ、もしかして話題のスイーツとかあるのかな?
聞くと、姉貴はメニュー表を開いてパンケーキを指差した。
「今はこれが有名なのよ。雑誌に時々乗る位。大学でも話題なんだけどなかなかね。皆来にくいって」
カップルばっかりだし。
「まぁ、確かに。女の子同士ってのも少ないね。なんでだろ?」
少なくとも東京のこういう所はワイドショーなんかで見る限り同性の組み合わせも見える筈だ。
「雑誌にいろいろ書いてあったけど景色がなんかあるらしいわよ。どうでもいいけど。さっさと注文して」
頬杖をつく姉貴。
「あ、俺が店員さん呼ぶのね」
彼女は当然でしょ、と口をとがらせる。
可愛らしいフリフリの服を着た女性店員にパンケーキセット二つの注文を伝え終わると、姉貴が頬杖の手を逆に組み替えながら言う。
「男の人ってああ言う服好きなの?」
「え、何突然」
「いや、あんた足の先から頭の先まで見てたから。興味あるのかなって」
そんなに見てたかな、と首を傾げると彼女は不機嫌そうに「しっかりね」とだけ答える。
「まぁ、そうだな。可愛いんじゃない?」
「こすぷれでしょ、あれ」
「コスプレって…制服なんじゃ」
「そんな事分かってるわよ」
ぷいとソッポを向く姉貴。なんで不機嫌なのかは知らないが、こういう店で姉貴と二人きりっての初めての事だった。
由亜と言う目前にいる女性は元々、俺が中学3年の春に父の再婚で一緒になったのだが、幼い頃に親を亡くしていると言う共通点以外は殆ど接点らしい接点は無かった。
しかも、俺の高校入学の時には大学に入る為隣町で一人暮らしを始めていたから、一緒に住んでいた期間なんてのも一年足らず。
殆ど他人と言う感覚ながら、彼女が帰省する度に雪菜のお陰で『姉弟』と言う体裁を取れていると言う感覚だろうか。
だから、あまり彼女と言う人間について知らないのも確かだった。
「姉貴もカフェでバイトしてるんだよね?制服あんなんじゃないの?」
「まぁ、あんな感じだと思うわ。あんまり好きじゃないのよ。動きにくいし」
「そうなのか。でも見てみたいよ。姉貴似合ってそうだし」
「はぁ?」
姉貴は気持ち大きな声で応える。「バカなんじゃないの」
再びソッポを向いてしまう姉貴。
あぁ、あまりこの話を掘り下げると後から何かされそうだな―。
「姉貴はさ、この町の生まれだよね?ここの店って昔から来てた訳じゃないの?」
不意に口をついて出たのは、そんな話題だった。
「無かったわよ。元になったケーキ屋さんは小さい頃にお父さんと来たけど」
父…姉貴の父は、確か彼女が5歳になった頃に亡くなっている筈だ。
「その頃はショートケーキが美味しかった記憶があるわ。ここでもまだ売ってるんじゃないかしら」
「ケーキ屋が元なんだ」
「そうね。私が中学に上がる位までは毎年誕生日ケーキはそこのだったわ。でもその頃に店主さんが体調崩したとかで一回閉店。その息子さんが跡を継いだ形でこのカフェになったみたい。場所は離れてるけどね」
「んじゃ、頼むのパンケーキじゃなくてショートケーキにして食べてみたら良かったのに」
「帰りに買っていくわよ。多分雪菜も食べたいだろうから」
「なるほどね」
確かに、雪菜も小さい頃に食べている味の筈だった。
その生クリームの味がどうのこうの、生地がうんたらかんたら。イチゴにこだわって―なんて、姉貴がこの店のショートケーキについて語っている内に、また先ほどの『フリフリ』が視界に入った。
「お待たせしましたー」
そんな声と共に目前へ展開するパンケーキセット。かなりの大きさで、直径は20センチはあるのではと言うパンケーキが2枚重なって、その周囲にフルーツやアイスクリームが飾り付けられている。
ご一緒にどうぞと置かれたビンには黄金色のメープルシロップがほのかな香りを漂わせている。
そして、アイスコーヒー。アイスだと言うのに、そこに置かれているだけでしっかりと豆の香りが鼻に届く。
これは上等なセットだなと一見して思った。
「ごゆっくりどうぞ」
『フリフリ』はそう言い、伝票を置いて去っていった。
「良い香りね」
「ほんとソレ」
2人、自然と笑顔になった。
いただきます。同時に口をついて出る言葉。そして、ほぼ同時にケーキにナイフを入れた。
◇
昨晩の光が気になっていた。
ネットの情報を漁っても、神社でリハーサルをやっていた情報は無かったし、友人周りに聞いてもそれらしい回答は無かった。
もしかしたらUFOとか、オカルトの類いじゃないかと言う期待もある。昔からそういう番組が好きだったし、実際そんな番組で見る映像には不可思議な光が映り込んでいる事が多かった。
期待。そう言ってしまえば、そうなのかも知れない。でも、どこか不安も混ざったような―。
そんな事を延々と考えながら家を出て、電車に乗り駅に降りている。今日も蝉が騒がしい。日照りはここ数日の中では優しい方だが、気温と湿度は相変わらず高い。
鈴城山への坂を上る。神社に行くならロープウェーには乗らない方が早い。
歩きながら、神社の方を見上げる。木々の様子は変わりない。そこに覗く朱色の鳥居も相変わらずの色あせ具合だ。
汗が頬を伝う。歩いているだけじゃなく、緊張の汗も出ているのだろう。胸が早く鼓動を打つ。
神社へと繋がる道。まっすぐに林の中を登っていくその一筋の石段は、さながら塔の様に見える。近所の学校では体力づくりの一環でここを上り下りする部活もあるはずだ。
今日はそんな人影も無い。気持ちのせいか、石段も薄暗く見える。ムード満点だ。
息を呑んで、一段、一段と足を進める。数十段を登りきると、少し広い空間が目前に広がる。小さな屋根の下には清めの水が張られた岩。一対の狛犬。そして、色あせた鳥居。
その先にはもう一息、石段が続いている。狛犬の表情はいろいろな見え方があるらしく、今日は笑って見える。
鳥居を潜ると、ざ、と木々が啼いた。蝉の声が止んでいる。渦巻く風。空は見えない。周囲は暗かった。
今日一番、心臓が激しく鳴る。手が震えた。喉が乾く。
「なん…だよ」
悪態が口を吐く。視界が狭い。体が強張った。
ふと。林の中に人影が見える。…と言うより、真っ黒いヴェールを頭からかぶった様な影。動いている。俺の歩みに合わせて山の斜面を、林の中を蠢いている。
その動き方が人間らしくない。多分、小さい頃に想像する幽霊の動きそのもの。浮いている様な、這っている様な。気味の悪い―。
「山元君、早く上がって!」
階段の上―神社の方から女性の声に呼ばれた。
一層、周囲の木々が喚いた。足元が揺らぐ感じがする。
とっさに顔を上げる。神社の屋根が見えた。天には真蒼の空。そして、小柄な巫女装束の人影。
それは、俺を見下ろす遊佐鈴歌の姿だった。
「早く!」
跳ぶ様に言って、彼女は細長い何かを取り出した。
俺は数段階段を上った所で足が絡まって、両手を石段に付く。
すると、手の力が抜けていく。起き上がれる気がしなかった。初めての感覚に血の気が引いた。
上がれる感じでは無い。声にならない悲鳴の様なものが喉の奥から出た。
なんだこれ―と右を向くと、さっきの影が林を抜けてきていた。まさしく、影。
手も無いし、足も無い。ただ、目はあった。血走った、青白い眼。
地面なんか…傾斜や、地形なんか関係ないと言うように。滑って、こちら側へと寄ってくる。
…眼が、俺を捉えている。
何かはワカラナイが、ヤバいと言う感じはした。ただ、どうする事も出来なかった。
ゆらゆらと。確かな早さで近づく影。
それが、目前まで迫った所で。
白銀の筋が、影を払った。
影があった場所には黒い霧が舞う。
やがて、風に散っていく。
散った後を凝視しようが、見渡そうが。そこには跡形もなかった。
「は…?」
手に力が入るのが分かって、俺はよろめきながら立ち上がる。
石段を二段隔てたそこには。
巫女服の袖を翻し、ため息を吐きながら。
日本刀を、鞘へと納める遊佐の姿があった。
「山元君。少し、お話を。大事な。…大事な、お話を」
まっすぐに俺を見つめる眼。その眼は―遊佐の目は、確かに生気を帯びた、力強い目だった。