1/被日常。
十年ほど前、個人のサイトで連載していたラブコメ作品のキャラクターを用いて、本来書きたかった形としてまとめた作品になっています。全10話構成の予定です。是非感想、叱咤激励のお言葉などいただければと思いますので、よろしくお願いします。
嫌味な程に天気の良い日だ。ここの所連日の様に今季最高の暑さだとか、記録的な猛暑だとか言うワードがニュースを湧き立たせている。
雲は一つも無く。陽炎の揺れる路面には、虚像の水溜りが広がる。
蜃気楼を一瞥して、俺―岡崎裕也―は額の汗を拭った。
―1/被日常。
眼下に流れる川はその水量を減らし、本来であれば水底だろう乾き上がった泥の上には、名前もわからない魚の死骸が落ちている。
何も、こんな暑い日にやらなくとも―。と思った所、このアルバイトが早く終わる訳でも無いとも分かっている。
本来であれば今頃はクーラーの効いた部屋でゲームでもしている筈だった。世間では夏休みだ。本来自由を謳歌するべきこの楽園。
それを、気付けば義理の姉である由亜のアルバイトを手伝う形で灼熱地獄の中を過ごす事になっている。
…そもそも、由亜も帰省してまでバイトに精を出す事も無いのに。
籠にチラシを満載した自転車を漕ぎだして、独りごちる。
アルバイトは分け与えられたエリアにチラシをポスティングする仕事だ。エリアの広さは連日異なるものの、広さは一定して三丁程。そこを、由亜と二人でざっくりと二分にして、チラシ配布の許された家々のポストを回る。かれこれ、この仕事を始めてから五日目。
そもそもは、由亜がかつて世話になった新聞屋の関係から舞い込んだ仕事だ。
何故この仕事を手伝うことになったかと考えれば、由亜の強引な性格で『私一人にやらせようなんて思わないわよね』とかなんとか。
そんなこんなで気付けば自転車を漕いでいた。だから、五日間もやってしまった手前、今更断るのは骨が折れる。
はぁ、と大きな溜息を吐いた所で、また数軒の家が立ち並ぶエリアに差し掛かる。オレンジ屋根が目印の洒落た洋風の家、洒落た型のポストにチラシを投函し、次の家へ―。と。
「こんにちは。岡崎さん」
背後から透明感のある声が聞こえ、ペダルにかけた足を止めた。
「アルバイトですか?」
振り向くと、そこには隣街の進学校に通う女性の姿。南条千穂先輩の姿があった。
「お久しぶりです。南條先輩」
淡い色の制服に、日傘を指した姿。黒いストレートのロングヘアが似合う和美人。
どことなく、デジタルな現代には少し不釣り合いな美しさがあった。
「そうです、暑い中じゃ堪えますね」
彼女の雰囲気が堪らなく、表情が緩んだのが自身でも分かる。鼻下が伸びている事だろう。
「大変ですね…あ、由亜さんのお手伝い…でしたっけ」
「あれ、どうしてそれを?」
「雪菜さんが楽しそうに言っておりましたから。お姉さんが帰ってきて、お兄さんを振り回してる、とかなんとか」
くす、と悪戯な笑みを浮かべ、ゆらりと揺れる日傘。その姿からはどこか、気品を感じる。
「そんな事を…」
はぁ、参ったなとわざとらしく頭を抱えて返す。
「えぇ、とても楽しそうで羨ましいです」
―と、少し遠くから「姉様」と彼女を呼ぶ声。
凛とした声だ。
何故かはうまく言えないけれど。どこか、つんけんとした冷たさを感じる。
「美穂、この方は雪菜さんのお兄さんの岡崎裕也さん」
美穂、と呼ばれた女性は照り付ける太陽の下、長袖の黒ワンピースに、栗色の髪がウェーブを描いている。
背丈は南條と並んで、その雰囲気とシルエットは先輩に似ているなと思った。
「はじめまして」
俺は自転車に跨ったまま、会釈をする。
「私、南條美穂と申しますわ。姉様がいつもお世話になっております」
ワンピースの裾を持って、軽く上半身を沈めて会釈をする美穂。
汗一つかいていないその姿。そして隙の無い所作は、まるで映画で貴族が取る挨拶の様だ。思いながら、言葉を返す。
「いえ、こちらこそ雪菜がお世話になってます」
ほんの逡巡。微笑みを浮かべた彼女―美穂は、真剣な眼差しを向けて続ける。
「岡崎様、お詫び申し上げますわ。私どもはこれより行かなくてはならない所がありまして。もう少しお話をしたいのですけれど、またの機会にお願いいたします。姉様。時間がありませんわ」
言って、美穂は千穂の手を取る。
「岡崎様、ごめん遊ばせ」
美穂が挨拶と同じ動作をしつつ言い、遠ざかっていく。千穂もバツの悪そうな顔を俺へ向け、それ以上は何も言う事無く路地へと消えていった。
南条千穂先輩は四年前、俺の妹―雪菜が習っていたピアノ教室で会って以来話をする仲だった。
ピアノ教室を雪菜が辞めた後も、雪菜を気に入ってくれた彼女とは個人的にお茶をしたりと、交流の機会は多い人物だ。
また、南條家と言う家柄がこの街一番の豪邸を構えた名家だと言うのも知っている。しかし…。
「南條先輩、妹がいたんだ」
それは、今日の今日まで話題に上がることも無く、知り得なかった事だった。
◇
その日の業務を終え配達センターに戻ると、先に業務を終えていた義姉の由亜が待っていた。
「遅い!」
腕を組んで、姉の由亜が言う。その後ろで新聞屋のお兄さんが悪戯に笑っている。姉貴の勝気な性格を知っての笑みだろう。
「ごめん、ちょっと迷ってさ」
「ふぅん。今日は少し広いエリアだったもんね。あたしは同じ位の広さでも後十分は短縮出来るけどね」
まぁ仕方ないわ、と由亜が続ける。
「今日で一区切りらしいよ。明日は休んでいいって」
「やり。姉貴も休むんだろ?さすがにさ」
お疲れ様でーす、とトーンを上げた由亜の声が事務所に響いた。
そして、俺には低いトーンの「どうかな」。
2つ歳上。細い長身。釣り目の整った顔立ち。髪型はその日毎に違うが結ばなければ腰辺りまで差し掛かる栗色の長髪。
もう少し愛想が良ければ、身内ながらそれなりに嬉しい容姿なのだけれど…。
思って上げた視線に、傾いた太陽が刺さった。
「なんか、休んだら身体がなまりそうでさぁ」
由亜は苦笑を交えて言う。機嫌はそれほど悪くなさそうだ。
「姉貴は休んでられない訳?だって、大学ある時もずっとバイトしっぱなしだろ」
「まぁ、そうなんだけどね」
彼女ははぁ、と大きな溜め息を吐く。
「いえぁ、せっかく帰省してるんだから、雪菜も連れてどこか行かない?」
ちょうど今日から雪菜も夏休みだし、と言ってみる。
うーん、と悩む由亜。いいじゃん、と押す俺。ほんの少しの間を置いて。
「そうね。半年ぶりだし、出掛けましょうか」
言って、由亜は笑顔になった。
◇
黒い景色。突如浮かぶ白い球。―月。
風が吹く。頬が擽られる。月の明かりに浮かび上がる影。―赤い、赤い人影。
なんだろう、と思って歩み寄る。突如として、足元が崩れた。黒いピースになって、砕けていく大地。落下感を覚えるのと同時。
その景色は、消え去った。
「…お兄ちゃん?」
雪菜に呼ばれて目を開くと、そこはリビングだった。
締め切られたカーテンと天気予報を流すテレビを一瞥して、もう夜なのだと悟る。
「裕也、起きた?」
ぼう、とする意識のまま声の方を向くと、由亜が眉を顰めて裕也を見下ろしている。
自身が寝ていたのがソファだと理解するのに、そう時間は要らなかった。
「ごめん、どのくらい寝てたかな」
目を擦りながら上半身を起こすと、キッチンの方では湯気と何かを調理する母の姿が見える。
「もう一時間になるわ」
由亜が不機嫌を隠さずに言う。
「せめてソファの上では寝ないで欲しいわ」
「まあまあ、お姉ちゃん」
由亜をなだめる雪菜。由亜は俺を睨む様に一瞥し、フン、と髪を靡かせてキッチンに向かった。
「帰ってきてからすぐそこに倒れこんだから心配したよ」
雪菜が良かった、と笑顔で言う。
由亜の妹らしく整った顔立ちだが、その目つきは丸っこくて『可愛らしい』方だと思う。
「ごめんごめん。でも全く記憶ないな」
今日は暑かったからだろうか。
「あ。そうだ、雪菜。南條先輩に妹さんが居たのって知ってた?」
「え、そうなの?あたしは知らなかったなぁ」
今日の配達中に会った事、『お嬢様』な感じが滲み出て居た事を話す。
「そうだな、歳は雪菜より上っぽかったかも。高校一年生位?」
「へぇ、会ってみたいな。綺麗な人?」
「南條先輩に凄く似てたよ。髪が少しくるっとしてたのが特徴的だったなぁ」
いいなぁ、と思いを馳せる雪菜。
と、キッチンの母から声がかかった。
「もうすぐ出来るわ、準備手伝ってー」
雪菜はそれに応え、小走りで俺の前を後にした。
俺も雪菜の後に続き、少し重く感じる頭を抱えてキッチンへと向かった。何か、大事な夢を見た様な気もするけど。
―やがて夕食も終わり、キッチンで洗い物をしていると、テレビから流れるニュースが入ってくる。
今日のニュース。遠い街の殺人事件がトップになっていた。
『ここで、長浜さんは首を切られ、殺害されました』
毎日毎日、殺人には枚挙に暇が無い。
日本のどこかで必ずと言っていい程に誰かが誰かを殺す。
しかし、その事柄とは常に非日常的で、自身には全く関係が無い事だとも思っている。
「結局、全国の殆どの人はこう言う事と無関係に生きていくよな。なのに毎日ニュースになる。なんか考え始めると不思議な感じだよ」
「急にどうしたのよ?」
隣で、洗った食器を拭きあげる由亜が返す。
「いやさ、毎日毎日ニュースを見たら誰かの殺人事件の事をやるじゃん。だけど、それを見た所で結局は話のネタにしかならない訳で。人が生き死にするって事をニュースでやる必要あるのかな」
「人が死ぬとか、そう言う事よりは…殺人する、その行動の異常性を世間に知らしめる為のモノなんじゃないの?」
「ふうん。なんか、どの道いい気分にはならないよね」
そうね、と由亜は肩をすくめる。
洗い物は裕也の手元には無くなり、残りは由亜の目前にある拭きあげる食器だけになっている。
『続いては、明日の天気です』
「お姉ちゃん、明日も晴れだよ!」
雪菜が嬉々としてキッチンに駆け寄る。
「それじゃあ、明日は電車で山の方にでも行きましょうか」
由亜は満面の笑みを浮かべた雪菜へと告げて、最後の食器を棚に戻した。
「うん。あ、お姉ちゃん一緒にお風呂入ろうよ」
「そうね。もう入っちゃいましょうか」
「あ、姉貴。まだ風呂沸かして無いからすぐやるよ」
言って、俺は風呂場に足を向けた。
スポンジを掴んで、浴槽に力を込めてそれを押し付けた。
「悪いわね」
背後からかかった由亜の声に背中で「いいって」と返して作業を続けた。
「あと五分もあれば沸けると思うから」
掃除を終え、濡れた袖を肌に当たらない様に捲る。
「お兄ちゃんありがとう」
雪菜が笑顔で言う。可愛い妹だ。
「うん。今日は久々に姉貴と入るんじゃないか?」
もちろん、俺は一緒に風呂に入った事は無い。義理の妹と言う立場上、なんかヤバい気もするし。
「そうだね…半年振り位かな」
「雪菜がちゃんと成長してるか見てあげるわよ」
テレビを見ながら由亜が悪戯っぽく言う。
「恥ずかしいよ」
雪菜は頬を赤くして返す。俺の方に顔を戻すが、バツの悪い表情を浮かべたまま、頬を赤らめて。
中学二年生。…成長か…。
「まぁ、ゆっくり入ってきてよ」
危ない妄想を断ち切る様に、そうだ、と俺は続ける。
「明日、山の方って言ってたけど」
一体何かのプランがあるのだろうか?
「ん、サンドイッチでも作ってお散歩、どう?山なら少し涼しいでしょ」
「…鈴城山?」
「そうそう」
言いながら、由亜は机上のスマホを手に取った。
画面を何回かタッチし、俺と雪菜へと画面を見せた。
「ここ、景色も良さそうだし。ロープウェイもあるから軽く行けるじゃない?最近はずっと暑い日ばっかりだしさ」
「そうだね!いいね!」
雪菜がニコニコしながら言う。
「それじゃ、明日は十時出発で」
分かった、と告げて俺はソファに腰掛けた。
「とりあえず、姉貴がサンドイッチ作るの?」
「そうだ、お姉ちゃんのサンドイッチ食べたい!」
雪菜が続ける。
「カフェ、ライトブルー仕込みのサンドイッチ!」
由亜は「仕方ないわね」と微笑んで、キッチンに向かった。材料は…と独りごちている。その姿を見た雪菜もキッチンへ。
冷蔵庫を覗きながら雪菜と語り合う由亜のその姿を見るには、材料は足りそうだなと思った。
程なくして、風呂が沸いた事を知らせるアラームが響く。
由亜と雪菜は風呂場へと向かう。
俺はその姿を一瞥して、テレビの方へと視界を向けた。
だけど別段、テレビを見るつもりは無い。ただ、バックグラウンドとしてテレビが流れていればそれで良かった。
『達人の職場。今日は三重県にある…』
バラエテイ番組が、今話題のタレントをリポーターに、昔ながらの工場を映している。
火花が起き、何かがプレスされ、磨かれ、箱詰めされて行く。その、全てが噛み合った動作をぼんやりと眺めているだけで満足だった。
やがて、雪菜と由亜が風呂場から戻ってきた。
由亜は雪菜の髪をバスタオルで拭きながら、あんたも入ってきなさいよ、と裕也に告げる。
成長は見れたのだろうか。気になる所はあるが聞ける訳も無い。
「あぁ、入ってくる。湯冷めしない内に寝ててな」
ふと、その後の風呂に入るのか、と考えて少し耳が熱くなった気がした。
「ありがと。おやすみ裕也」
「おやすみ、お兄ちゃん」
バスタオルの中から顔を覗かせた雪菜は笑顔を見せた。
「おやすみ」
そんな雪菜を、そしてそれを笑顔で見つめる由亜を一瞥して、俺は風呂へと足を運んだ。
◇
目覚まし時計のアラームに目を覚まし、一階へと降りると由亜が既にキッチンで料理を始めていた。
「姉貴、おはよう」
「おはよ」
フライパンを火にかけ、何かを炒め始めている。サンドイッチだけじゃないのか、と感心した。
「何作るの?」
「おかず」
言って、由亜は迷う事無く具材をフライパンに次々投入する。
しめじが既に炒まっている所へ、ソーセージ、ニラとを強火で炒めた。
「まず一品」
次、と先ほどの炒め物を乗せた皿の脇に置いた溶き卵を、四角いフライパンへ。煮立つ卵をリズミカルに巻いていく。
その動作を目で追う間に、気付けば卵焼きは四等分に切られ、皿の上へ鎮座していた。さすがはカフェの実質的料理長。
…カフェで料理長ってなんだろうとは思っていたが、その手際を見ているとわかる気もする。
「裕也、これは私がやるから準備しておいて」
「あぁ、分かった」
次々とおかずを量産する由亜はまるで昨日のテレビの工場見学の様で、見ていたい衝動もある。が、着替えを済ませてしまわないと怒られるのは明白だ。
程なく着替えを終えてリビングへと戻ると、食卓の上にはランチボックスが入った手提げと、皿に盛られた卵焼き、そして茶碗に盛られた白米が待ち構えていた。
「裕也、朝ご飯食べちゃって。私は準備してくるから」
言いながら由亜はエプロンを外し、イスの背もたれにかける。
「あ、うん。分かった」
何から何までが由亜に乗っかった様な形になってしまった。
申し訳無く思いながら、由亜が戻ってくるまでに朝食を終わらせてしまおうとも思い、食卓についた。出来る嫁になりそうだな、なんて思いながら。
やがて、由亜と雪菜が二階から降りてきた。
「姉貴、ごちそうさま」
ちょうど後片付けを終わらせ言うと、由亜は首を傾げて「朝ご飯は雪菜作よ?」と返す。
「え、そうなの?」
これまで、雪菜に食事を担当して貰った事は無かった。―お兄ちゃん嬉しいよ!
「お姉ちゃんに教えて貰いながら作ったの」
へへ、と悪戯に舌を出して雪菜は照れてみせる。
「へぇ、さすが姉貴の妹だな。美味しかったよ」
「卵甘過ぎなかった?」
「うん、ちょうど良かった」
ありがとう、と告げると雪菜はもう一度、照れ臭そうに笑った。
荷物を携え、家を出ると今日も気温、湿度共に高い日本の夏が展開されている。
由亜は黒いプリーツスカートに白いブラウス、髪は二つに結ぶ出で立ち。黒のニーハイソックスもあって近頃流行りのアイドルの様な雰囲気。
雪菜は白いワンピースに麦わら帽子と言うスタイルで、綺麗な黒髪も相まってどこかの令嬢の様だと、裕也は思った。
駅までは徒歩で十分程だが、体感気温四十度近くの今は、そこまでの徒歩も三人にとっては少し気が滅入る。
「ゆっくり行きましょ」
三人の間に流れる雰囲気を察し、由亜が一声あげる。
「お茶とかも持ってきてるしね」
雪菜が続いた。
「休憩したくなったらすぐ言うのよ。雪菜は」
俺は、と言った所で姉貴の鋭い目つきが俺を捉える。
「あんたは気合いだして行きなさいよ、女の子二人をエスコートするんだから」
「俺がガイド役かよ」
くす、と雪菜が笑う。
「当然じゃないの」由亜が言うのを合図に三人歩き出した。
アスファルトはあたかも鉄板の様に熱を持ち、路地の彼方では陽炎が上がる。
道中、雪菜は何度かお茶に口をつけ、由亜も汗を拭う。
そんな二人にハンカチを差し出すのは俺の仕事だった。
その姿を見て雪菜が笑い、由亜もつられて笑顔になる。
一人で歩く時の半分程のゆっくりとした足並みも、とても楽しいモノに思えた。
程なく、駅舎が視界に入った。
コンクリート造りの平駅で、最近になって漸く改札機が導入された。快速電車等は停車しない、小さな駅。
二台置かれた券売機で乗車券を買い、改札を通る。
ちょうど、電車がやってくる合図の放送が流れていた。
「ジャストタイミング」
雪菜が力を込めて拳を握る。
その額には薄らと汗がうかんでいた。
その汗を横から拭きながら、由亜も雪菜に続いて喜んでみせた。
「さすが姉貴の計画だな」
感心だ。そもそも、この時間に到着すれば…と時間取りをしたのは由亜だった。そこには多少の余裕を持っていた筈だが、それも全て由亜の計算の内だった様だ。
「でしょう。暑いだろうからって…少し時間にも余裕持って計算したんだから」
ふん、とオーバーに胸を張って見せる由亜。あまり豊かでは無い胸だが。
その姿にわざとらしく拍手を送ると、電車が金属音と固まった風を引き連れてホームに滑り込んで来た。
三人の目前でドアが開き、車内に足を進めるとそこには乾燥した涼しい空気が飽和している。
楽園だ。こう言う時のエアコン程ありがたいものは無い。汗のせいで少しばかり寒い気がするけれど。
「寒くない?」
窓際に三人分空いていた席へと腰掛けながら聞く。
大丈夫、と二人。満面の笑みだ。
ドアが閉まり、横向きの重力がゆったりと三人の身体を揺らす。反対側の窓を、様々な景色が塗り替えていく。
住宅街…畑。そして、生い茂る緑。
ここから見える西側の景色は山々に包まれている。が、東側、背後には海が広がっている。
時折、その景色へと目をやりながら、その景色が綺麗だとか、今度は海に行こうとか話が盛り上がる。
海に行ったら…。水着か。なるほど、それもいいかも知れない。
思っているとやがて、電車は減速を始める。
窓の外は左右どちらも、鮮やかな緑の山々を写し、蝉の声が締め切った車内にも響く。
蝉の声がなんとなく懐かしく思えた。自分が小学生の頃は住宅街にも蝉が居て、そのジワジワとした声に暑苦しさを覚えていた筈だ。なのに、ふと考えてみれば近頃はメッキリ蝉の声を聞く機会は無くなっていた様に思う。
「なんか懐かしい感じだなぁ」
電車が止まるのと同時、自然とこぼれた呟き。
「そうねぇ、なんか校外学習を思い出すわ」
電車を降りながら、由亜が返す。由亜も、幼い頃…小学初等の頃を思い返しているのだろう。まだお互いに知り得ない頃の話だ。
「あたしは最近も校外学習あったよ」
改札へと向かう中、雪菜が言う。
「むかーしの日本のお役所があったって言う所。そこ行ったら、蝉とか、いーっぱいいたんだ」
あぁ、そう言えば家から三十分位のエリアにそんなのがあったとハッとした。
「あったあった、そんな所あるわ」
改札へと切符を滑り込ませながら、由亜が笑う。
「俺もすっかり忘れてた」
それを思い出した事、そしてそれがどうやら由亜と同じタイミングだった事がおかしくて笑った。
「二人とも忘れないでよー。凄く大事な遺跡とか、珍しい出土品が多いらしいんだよ?」
そういえば、二ヶ月ほど前に雪菜からそこの事について聞かれた事があった。
いつ頃の建造か知ってる?とか、どんな目的があったか勉強した事は?とか、聞かれたんだった―。
「そうか、雪菜沢山勉強してたもんな」
「うん。学校の宿題だったけど、自分の家の近くにそんな施設があるって事を知れていい機会だったよ」
「歴史博物館とかもあるもんね」と由亜。
「そうそう!博物館も行ったんだよー」
色々な展示物があった事。出土品、再現品があって、何故か木を使った火起こし体験もした事を嬉々として語る雪菜。
その姿を見ながら、俺も姉貴も顔がほころんでいた。
「あ、ごめんね。今日はこんな話するつもりじゃ無かったんだけど」
語り過ぎた、と思ったのか雪菜は肩をすくめる。
「構わないって。楽しそうじゃん、博物館。俺が行ったのはもう四年位前だったな。そんな色々やったかな?」
火起こし体験など、やった覚えが無かった。雪菜の話を聞く限りでは展示物も変わっている様子だ。体験型の方が楽しいだろうな。
「私なんかもう十年近いわよ」
ちょうどオープンした頃だったなぁ、と由亜は記憶を辿る。
「それじゃ、博物館も今度行こうね!」
雪菜は微笑んで、続ける。
「他の内容は行ってからのお楽しみで!」
「いい切り上げ方ね。PR大使か何か?」
くす、と由亜は笑って「さすが山の方に来ると暑苦しさは和らぐわね」と話題を切り替えた。
「そうだな。そう言えばそんなに暑くない」
暑く感じないね。と雪菜も続く。
「ロープウエーまで二十分位の距離よね?」
由亜が腕時計を確認しながら言う。
「大体その位の距離だよ。あの山に見えるワイヤーがそうだね」
指差す先には緑の山と、今まさに動くロープウエーのゴンドラがあった。
「それじゃ、行きましょうか」
由亜が先頭に立ち、歩き出す。駅前のバスロータリーには二台バスが居るものの、乗っている人数は外から見る限りは疎ら。疲れてるだろうし、帰りはバスでもいいか、と感じた。
駅からまっすぐ伸びる二車線道路に沿ってある歩道を行けば、山の麓に着く。
山、とは言っても標高は四百メートル程の高さで、住宅街の中に山が一つ聳えている様な立ち姿。その道なりは登山と言うよりはハイキングコースに数えられる事も多い。
それでも涼しさを三人感じているのは、緑の豊富さがあった。大通り沿いには街路樹が並び、住宅街のあちこちにはまだ藪や林が残っている。その殆どに蝉が止まり、一夏の命に火を灯していた。
「しかし蝉多いわね」
さすがに耳に障ってきた、と由亜は思う。
「確かに。車の走る音より蝉の声の方が大きいもんな」
「頑張ってるんだねぇ」
雪菜は木々を見回して、しみじみと言う。
「遠くで聞こえる分にはいいんだけどねぇ」
これだけ包囲されると、と由亜は愚痴る。
「まぁまぁ、聞き溜めって感じだね」雪菜は笑う。
「夏しか聞けないしね。姉貴、秋になったらこの声が恋しくなるかもよ」と俺も笑った。
「何よ二人して」言いつつ、由亜も笑う。
「あ、ロープウエー乗り場見えてきたよ」
視界には、陽炎の先に揺らぐ建造物が見えていた。周囲の一軒家よりは少し大きい、白壁の飾り気が無い建造物。その奥手からワイヤーが山頂に掛けて伸び、現在もゴンドラが人の歩く程の速さで動いていた。
「三人です」
窓口で由亜が乗車券を買い、ゴンドラへと乗り込んだ。
やがて、ゆっくりと揺れながらゴンドラは山頂へと向かった。
だんだんと遠ざかる街並みを見て、雪菜が「あの建物は駅だ」とか、海の青さに感嘆の声を上げる。
車内アナウンスが始まると、この山の標高が…とか、左手側にある神社は鈴城神社と言って…だとか、ガイドをする流れに沿って、雪菜がそのそれぞれへと反応を繰り返す。
「雪菜はこのロープウエー初めてだっけ?」
由亜が聞くと、雪菜は顔を返して頷く。
その目が輝いているのを見て、来た甲斐があったな、と思う。
本当に可愛らしい妹だ。
そう言えば秋兎―同級生のバカ―が、補習終わったら雪菜ちゃんに会いに行く!とか言ってたのを思い出した。変な虫がつかないようにお兄ちゃん頑張るよ!
―程無くして、ゴンドラは山頂の駅で停止した。雪菜を先頭に、足を進めていく。
「涼しいね」
雪菜が山頂を歩き出して開口一番、微笑む。
「そうね、風が気持ちいいわ」
「不思議と蝉の声も煩わしくないな。ねぇ、あ・ね・き」
「…このくらいの涼しさなら…いいわね」
由亜は不意をつかれた事に照れた様に笑ってみせた。
「あ、見て見て」
雪菜が駆ける。その先には展望台が広がっていた。
俺達の住む街、更にビルの並ぶ中心街、海。自分達が住んでいる街を一望出来るここに来るのも久々で、この景色を捉えた写真を何ヵ月か前に見た覚えがあるくらいだ。
それだけにその景色には、これほど広い街だったんだと言う改まった驚きと、ただ純粋に見応えのある景色だと思う気持ちがない交ぜになって心を満たしていく。
「綺麗ね」
由亜は風に揺れる髪を抑えて、笑う。
「なんかわくわくしてくる景色だな」
俺も笑った。
「ね、お弁当食べようよ!」
雪菜が言うと、由亜はそうねと近くのベンチに腰掛ける。雪菜はその隣。俺は雪菜の隣へと座った。
「はい、サンドイッチ。後は雪菜と私の作ったおかず盛り合わせ」
由亜オリジナルの炒め物や、雪菜の巻いた少し型崩れの卵焼き、サラダが色鮮やかに配置されている。
「うまそう」
「そりゃそうよ、あたし達が作ったんだから」
言って、雪菜と由亜は胸を張って見せた。
「いただきます」
三人揃って、手を合わせた。
それからの一時間程は、三人で山の散策をして楽しんだ。
普段は見ないような植物、虫や、景色など。三人共が笑い合える様な時間が過ぎ、元のベンチまで戻ってきた所で、そろそろ帰宅、という話となった。
「楽しかったね」
「うん。景色がなかなか…」
と、続けようとした時。
林の中から俺達を見る目に気が付いた。その目は、藪を掻き分けて俺の方へと近づく。
「あれ、裕也知り合い?」
その目の不思議な雰囲気を感じ取り、由亜が聞く。
「誰だっけな」
その視線に覚えがあった。こちらを見てはいるが、焦点は自分では無くもっと遠くの何かに合っている様な、不思議な視線。その記憶は、木々の間から出てきた小柄な女性の姿を見てはっきりと繋がった。
「あ、遊佐」
遊佐、と呼ばれて女性は、俺から視線を外して由亜と雪菜へ一礼づつ頭を下げた。
無表情。黒のショートボブ。ジーパンにTシャツの飾らない感じ。
「岡崎裕也さん、少しいい?」
静かな物言いだが、その声はとても良く通る澄んだ声質だ。彼女の声を聞くのは夏休み前の休み時間以来だった。
同じクラス故に顔を合わせる事はあったが、直接話をした記憶は殆ど無い。そんな彼女に、話したい事があると言われたのが最後。その時は用事があると答え、彼女もそれならいいと言ってからの今日。
「雪菜、先に行っておきましょ」
由亜が気を利かせて雪菜を連れて駅に歩みを進める。
由亜が会釈をすると、遊佐も目を伏せて頭を下げて見せた。黒髪が柔らかく揺れる。
「ごめんなさい」
遊佐は蝉の声にかき消されそうな声で言う。
「いや、大丈夫だよ」
俺は笑ってみせるが、遊佐の表情は変わらず無表情。
学校でも笑っている姿を見た事は無かったな、と思い返す。
「本当は夏休み前にお話したかったのだけれど」
「この間の件?」
遊佐は頷く。
不思議な雰囲気に呑まれたのか。ほんの少し、鼓動が早くなる。
「なんの話だろ、俺は全く分かんないけど」
「少し座りましょう」
彼女はベンチへと歩み寄り、手招く。
高校生にしては大人びた雰囲気がある女の子だった。
クラス内でも、あまり話さない割には男子勢からの人気が不思議と高いのが、遊佐鈴歌と言う女性。
そんな女性にこんな所で二人きりの話、と言うシチュエーションが緊張感を伴って胸を踊らせる。
「遊佐、今日はなんでここに?」
「私の家はここの神社なので」
「え」
そうなんだ、と驚くより先、遊佐は言葉を続けた。
「私にはこの街を守る義務があって」
遊佐の表情が少し、曇ったのが横顔からでも分かった。
「普通であれば知り得ぬ情報も、私の元には入ってくるの」
遊佐が神妙な面持ちで、言葉を選びながら続ける。
「そこで、この一週間。いえ、せめて、この夏の間は南條千穂に近付かないで」
「は?」
周囲が一気に静かになった様に感じられた。
「なんで、千穂先輩?」
「上手く納得させられる様に説明出来る自信が無いの。だけど、貴方自身の身と、家族が大切なら彼女とは接触してはだめ」
「はあ」
「これは私からのお願い。彼女は勿論、今まで通り貴方と接触を図ろうとしてくる。だけど、話を聞いてはだめ。なんでか、と思うだろうけど、お願いです」
強く言い切る遊佐に、裕也は戸惑いを覚えた。
「よく分からないけど…」
言葉を選んでいる内、遊佐は立ち上がった。藪の方へと歩みを進め、振り返ると会釈を一つ。そのまま、林の中へと消えていった。
何が何なんだ?何故遊佐がここで千穂先輩の名前を?街を守るって一体何なんだよ。
混乱した頭のまま、ひとまず雪菜と由亜の元へ急いだ。
「裕也、どうだった?」
「お兄ちゃん」
目を輝かせる二人を見て、一時の安心感を覚えた俺は、笑って「勘違い、勘違い」とだけ言うに止めておいた。