第3話 マーブル模様の涙。
ツユヒコと最後の電話を交わした次の日、
イカルはバスタオルだけで長い時間ボーッとしていたせいか、
本当に久しぶりに風邪をひいた。
精神面が弱っていたせいもあって、計ってみると自分でも驚いたが、四十℃近い熱があったのだった。自分でも「あぁ、なんてアタシは不幸なんだろう」と自分の境遇を情けなく思ったが
「情けないっ!失恋でその上、風邪で発熱だなんて。アンタは高校生かっ!これで髪まで切るってったらアンタ三冠王よっ?」と、親友のサホミにまで言われた。
イカルは「三冠王」と言う彼女の表現に笑いそうになりながらも、笑えば彼女に更に怒られるのは目に見えているのでとっさに笑いを飲み込み、半分本当の咳で誤魔化しながら「ごもっともです」と、言って電話なのにペコン頭を下げた。これは一種の癖だ。
同い年で専業主婦のサホミは、いつも思ったことをハッキリ言う。
煮え切らない性格のイカルには彼女はいつも眩しく見えたし、とても羨ましかった。
二人が出会った頃、サホミは他のグループの女の子たちに「キツイ性格だよね」と裏で言われていた。
それでも、サホミはいつも厳しい意見を言いつつも、実は不器用なだけで本当はとても優しいことをイカルは知っていた。彼女は、おせっかいで弱っている人を放っておけない。
そんなサホミの気質が、寂しいとき「寂しい」と言えないイカルととても馬が合った。
高校の時から、サホミが結婚してイカルは就職して、お互い身を置く環境が変わってもなお、
二人はどちらからともなく定期的に連絡を取り合っていた。ずっと親友だった。
結局、彼女のおせっかいで(こう言うとまた彼女は怒るので口に出しては言わないが)
彼女の夫が内科外来医を勤める市民病院に行くことになった。
せわしなく人の行き交う外来の、どことなく薄汚れた長椅子に腰掛けて自分の名前を呼ばれるのを待つ間、横のブックラックに置いてあった女性週刊誌を手にし、読むともなく眺めていた。
その週刊誌には某大物俳優同士の確執だとか、業界きってのおしどり夫婦と言われている大物女優の不倫疑惑、タレント政治家の汚職事件、胸ばかり大きな若い女の子の不自然極まりないポーズのグラビア写真やそんなモノ等で溢れていた。
ページを捲る度に、一体何人がこのくだらない話題をお金を払ってまで得たいと思っているのだろう。一体何人がこんな情報等を得ることによって、わずかにでも満足感を覚えているのだろう。と、熱のせいか、そんな普段は考えもしない事ばかり次から次へと浮かんできた。
「人間ってなんて愚かな生き物なんだろう」と、幻滅から余計に気が滅入ってきた。
読者は、他人の不幸を見てでしか己の幸福を量れないのか。マスメディアは、他人の傷をつついて広げては部数を重ね、自らの懐を肥やすことしか考えられないのか。
その情報等によって構成される、ほんの僅かな優越感になんの意味があると言うのか。
少なくとも、こんな雑誌が出版業界で生き残っている、と言う事実がその証拠ではないのか。
などと、ぐるぐると思考が巡る。
ふいに、目の前を子供が走り去り思考が止まる。イカルはハッとして我に返ると、
「ダメだ。途方もなく悲観的になってるわ」と、つぶやいて両腕で頭を抱えた。
「しかも、偉そうに、アタシは何様だ」
なんだか可笑しささえ覚え、くすっと笑って上着の前を合わせるついでに天井を仰ぎ見た。
真っ白な天井には等間隔に蛍光灯が並び、その一つがチカチカと切れかかっているのが見えた。
「あぁ、あの蛍光灯。今のアタシみたい」と熱で朦朧とした頭で考えた。
思考が止まらなくなりそうなので雑誌をブックラックに戻し、イスの背に深くもたれかかった。
平日の朝とは言え、外来はいつもの通りやはり人が多い。イカルの名前まだ呼ばれそうにない。
ため息をついて遠く、病室がある棟の方に目をやった。
その瞬間、息が止まった。
「・・・ツユヒコ・・・?」
思わず確かめるように小声で名を呼び、イスから立ち上がった。
間違いない、つい数十時間前まで恋人同士だった男性。
見間違うハズもないその姿。
「ツユヒコ!」
躊躇する間もなく、熱でまだ少しふらつく足取りでイカルは彼に駆け寄っていた。
その時、彼の後ろから現れたのは見覚えのない若い女性だった。
「イカル?」
突然の事でツユヒコも驚いている。
まさかこんな所で出会うはずもないと思っていたのだろう。それはイカルも同じだ。
「ツユヒコさん、どなたですか?」
花瓶を片手に彼女は、その小さな頭を愛らしく傾げながらイカルとツユヒコの顔を見比べるように見た。その質問は、なんの含みも感じられない無邪気な声色だった。
彼女の柔らかそうな長い髪が、肩から滑り落ちるように揺れた。
「あ・・・、はじめまして」イカルはとっさに彼女にそう言うと、
「お久しぶりです。ツユヒコ、さん」
ツユヒコにも事務的な挨拶をした。頭の中は真っ白なのに体はちゃんと対応が出来るらしい。
頭と体は別々に機能している、と言うことかもしれない。
良い意味でも悪い意味でも、人間の図太さを思い知る。
そして、こんな時に働く、人間の勘の良さもまた同じだ。
イカルは知っている。当たって欲しくない勘ほど当たると言うことを。
一瞬で理解してしまった、彼女がいるから私はツユヒコの側にいられなかったのだと。
目ざとく見た花瓶を持つ彼女の小さな左手の薬指、そこに小さな指輪が光っていた。
不思議なほど冷静だった。
ただ、あんなに好きだと思っていた彼を実際に目の前にしても、彼の“本命さん”を見ても、
少しも動揺を表にせず事務的な挨拶の出来る自分が少し、悲しかった。
ポツリと(あぁ、これが「終わる」と言う事か)と声にはせず呟いた。
抗う隙もないほど、それを全身で思い知った。
まるで「あの頃の二人には決して戻れないのだ」と、
自分の力が到底及ばないような大きな大きな存在に、そう言われているような気がした。
「あぁ、うん。お久しぶりです。あのねウタコ、彼女は前お世話になった広告会社の人でね、」
ツユヒコがたどたどしくその『ウタコ』と言う女性に説明しだす。
本人は余裕がないので気付いていないだろうが、声はうわずっているし、目も泳いでいる。
そんな情けないツユヒコの姿を見守りながらイカルは(相変わらずとっさの嘘がへたくそな人)と、
妙に懐かしく思ってしまった。
「婚約者?」イカルは目一杯、友好的な笑顔を作りながら彼女の左手を手で示した。
「あっ!えぇ、来月にね、式を控えているんです」
ウタコは左手で抱えていた花瓶を右手に持ち替え、左手の甲をイカルに向けて、
本当に心から嬉しそうに、照れくさそうに笑った。
イカルとツユヒコの仲を少しも疑う様子もなく、二人の誓いが形となった、
おそらく彼女の誕生石なのだろうルビーをあしらったアラベスク模様の細工が施されたまだ真新しいその指輪を、その小さな指に光らせて。
「そう・・・。おめでとうございます」
イカルも彼女の笑顔につられそう答えた。
「ありがとうございます」無邪気に笑うその笑顔に、イカルは眩しさを覚えた。
(あぁ、彼女は本当に幸せなのだな)と。
ツユヒコはイカルと目を合わせようとしないまま
「ウタコ。花の水を換えに行くんじゃなかったのか?」と、話題を逸らした。
「あぁ!本当だわ。すっかり忘れていたわ。イカルさんどうぞごゆっくり」
そう言ってウタコは小さな後ろ姿でパタパタと廊下を小走りで駆けて行った。
廊下に残された二人はしばらく無言のままウタコの去っていった方向を見つめていた。
「おめでとう、だね」そう言ってツユヒコに微笑んだ。
彼は遠くを見たまま泣き笑いみたいな顔して「・・・ごめんな」と答えた。
イカルはため息を一つついてから、
「いいよ、もう。なんかさぁ、謝られたらアタシ、空しくなっちゃうよ。そんな付き合ってた事自体が間違いだったみたいな顔しないでよ。そうやってカッコつけてさ。罪、全部一人で背負ってます、みたいな顔されたらアタシ立場ないじゃない。一人でさ、バカみたいじゃない。余計に惨めだよ」
と、思い切ってイカルは溜まっていた思いを一気に吐き出した。
付き合っているときのイカルは、いつもツユヒコの顔色を伺って一番当たり障りのない言葉を選んで話す女だった。そんなイカルが、初めてそんな事を言ったのでツユヒコは驚いたようにイカルの顔を見た。
一瞬の間をおいた後、
「今日初めてアタシの顔マトモに見たね、ツユヒコ」とイカルは寂しく笑った。
それを聞いた、ツユヒコもゆっくり目を細めて苦笑しながら右手をそっと差し出し握手を求めた。
「うん。そうだな。でも、嘘だと思っていいけどお前のこと、ちゃんと好きだったよ」
その瞬間、ツユヒコと別れて初めて涙がこみ上げて来るのを感じた。
それは、『悲しい涙』とか『うれし涙』とか、そんな大ざっぱな分類が出来ないような、
とても曖昧で、淡い、マーブル模様のような複雑な感情から湧き出てくる涙だった。
その涙は、一筋だけイカルの頬を伝ってから病院の無機質な床に落ちた。
「バカね。そーゆー事は付き合っている時に言いなさいよね。好きだなんて一回も言わなかったくせにさ」そう言ってイカルも右手を差し出し、ツユヒコの男らしくごつごつと骨張った懐かしいその手を、ぎゅっと強く強く握った。
付き合っている間にずっと聞きたかったそのたった一つの言葉は、不思議と何の抵抗すらなくイカルの乾燥した心にゆっくりと浸透してゆく。
不安ばかりだったこの恋がこんなに不意に、なんだか全てが許せてしまうなんて、イカルは今なら「出会えてよかった」とさえ言えるな、と思った。
やがてウタコが、またパタパタと花瓶を抱えて遠くの方から廊下を小走りに駆けてきた。
彼女は相変わらず幸せそうな微笑みを浮かべ、イカルたちの存在に気づくと水をかえたばかりの花瓶を持ったまま片手の手のひらを軽く振った後、ぺこりと会釈した。
その光景はとても微笑ましくて、彼女とは今日会ったばかりなのに、どうしてツユヒコが自分でなく彼女を選んだのかとてもよく分かったような気がした。
ごしごしと涙の跡を上着の袖で吹きながらイカルは、
微笑んで「とても、いい子を見つけたね。ツユヒコ」
今度は本当に、心からそう言えた。
ツユヒコも本当に素直な声で「うん」とだけ言った。
別れてから初めて、分かり合えた。
そんな気がした。
ここでようやく一旦、イカルさんのターンは終わりです。
年齢的には「オトナ」のくせに不器用で天の邪鬼で可愛げのない彼女の、
一つの恋の終わりの物語にお付き合いいただきありがとうございました。
しかし、お話に出てくる市民病院。
執筆当初はまだ心配になるほどオンボロだったのですが、、
今は要塞のような外観になっているので懐かしく思います。
時の流れとモノゴトの終焉は、いつも残酷ですね。
誰でも平等に、と思うとそれはある意味で
「優しい」とも言えるのかも知れません。
なんてねー。(照れ隠し