その3
一翔には一つ大きな疑問があった。
「黒崎澪は……あまりにもボカロを嫌い過ぎている」
差し込んだ夕日が室内をオレンジ色に染め上げる頃合い。一翔は誰もいない部室で一人ある疑問を真剣に考えていた。
「ボカロを嫌いだ、とあそこまで言い切る――――これは逆を返せばボカロの事を知っているって事だよな」
好きの対義語が嫌いというのは間違っている。正しくは無関心だろう。嫌いと云う事はそれを意識して嫌っているのだ。つまり関心があったり、嘗てあったりしなければ嫌いという感情は生まれて来ない。
黒崎澪はボカロが大嫌いだとはっきり言った。つまりそれは関心があるか、嘗て関心があった人間でなければ言う事はできまい。
「恐らく過去、ボカロに関心を持っていたのは間違えないんだけど…………ボカロPに親でも殺されたんかな?」
一翔は頭を抱え、
「わっかんねえええええ――――――――…………。」
深く低い声でそう漏らした。
「なーにがわっかんねーよ。若いんだから分かんない事だらけに決まってんでしょ」
「わぁっ!」
唐突に部屋の中に出現したのは澪の担任でありこの電研部の顧問でもある茅ヶ崎愛珠だった。年の割にミニスカートに派手なパッションブルーのシャツというハイセンスな服装の彼女はぶっきらぼうにタバコを咥えていた。
「んだ茅ヶ崎先生か。入るならノックぐらいして下さいよー」
「いや、防音扉なんだから開けた時にドデカい音すんでしょーがよー。アンタ難聴なの? ラノベの主人公かよ。」
「ラノベの主人公だって難聴になるのはヒロインのデレ台詞ん時だけっすよ!」
「あ、あたしヒロインだからか! そっかぁ〜てへぺろ〜♡」
愛珠は上目遣いでオトナの道(主に歌舞伎町辺り)へ誘惑した。
「スミマセン、三十路のおばさんほんっとキモいんで辞めて貰えます?」
「一翔くん、腕と足どっち先に折って欲しぃ☆?」
「…………先生の笑顔の殺傷能力ヤバいっすね」
そう言いながらも一翔は当たり前のように部室の奥から椅子を引っ張ってくると先生の前へそれを差し出した。
愛珠も当然のように無言でそこに座る。どうやらこのやり取りはいつもの事らしい。
そこへ座すと、彼女は足を組んでぷふぁーと煙草を吹かした。煙が目にしみる。
「校内禁煙じゃなかったでしたっけ……先生?」
「ったくアンタまで校長みたいな固い事言うんじゃないわよー誰もみてないんだからいーでしょー」
「……ほんっとよく採用してもらえましたねぇそんなんで。」
「ま、性格に問題あっても楽器さえ上手けりゃこの学校は採用してくれんのよー」
「はは、まぁ音高なんてそんなもんスよね」
互いに苦笑した。
愛珠の専門はフルートだ。嘗てフルートのソロプレイヤーとして第一線を活躍していたが教師になるという夢を捨てきれずこの学校に一昨年着任した。この砕けた性格から一翔達電研部部員達からは慕われているようだ。
「フルーティストがタバコって……演奏に支障でないんすか?」
「そりゃ出るよ」
「はっ!?」
「いやぁーあたしもそろそろ辞めたいって思ってるんだけどねーやっぱニコチンには勝てないわ」
「反面教師って言葉ご存知ですか?」
「……あたしがそれだって言いたいの?」
「ふふっ」
一翔は適当に微笑してその場を誤摩化した。この人怒ると怖いから。
すると愛珠はタバコの煙をもう一度深く吸った所あっ、と何かを思い出したように、
「そいやぁ昼休みの騒動何よあれー! もし新年度早々騒ぎにでもなったりしたら私の職員室での信用が落ちるじゃない!」
昼休みの騒動……彼女が主にさしているのは紫音と凛子の騒音事件の事だろう。
「生徒のまん前で堂々と学校のルール破ったり金で個人情報売ったりする教師にそんな事言われてもなぁ!」
「アンタだってそのお陰で得してんだから良いでしょ!」
「ま、……まあそれはそうですが。」
そうだ、勧誘に使うからと澪の個人情報を一翔はこの女から買い取っているのだ。買う一翔も一翔だが、こんな教師が居ても良いのだろうか。
それから愛珠は最後まで堪能し切ったタバコを手に取り、
「あれ、ここ灰皿は?」
「あるわけ無いでしょ!」
ちぇーっと一言ポケットからポケット灰皿を取り出しそこへ吸い殻を突っ込んだ。
新しいタバコを取り出そうとするもそれが最後の一本だったようで、「ちぇー」と一言、空き箱を片手で握りつぶし部屋の左奥にあるゴミ箱目指してそれを投げた。入らなかった。
「……んで結局黒崎澪の勧誘は出来たわけー?」
イライライしているからか、興味なさそうにそう問いかける。
「それがピクリともしないんですよ」
「……ま、そりゃそうだろうねぇー」
何故だろう、その答えをまるで知っていたかの様に愛珠はそう言った。
続いて机の上に置いてあった菓子パン(一翔の夕食)を勝手に手に取り食べ始める愛珠。
二、三口食べた所で、
「だってあの子の親…………おっと、これいじょーは個人情報だなぁー」
とわざとらしく濁すのだった。要するにこの先聞きたけりゃ対価を払えと云う事だろう。払えば教える所が色々終わっている気もするが。
「……そのパン全部食べていいんで教えてくれます?」
「えぇー……なら返す」
「要らねえよ!」
「あっそ」
結局愛珠はそれをガツガツ食べ進めた。
「……で、本当の所いくら払えば良いんですか?」
「んー百万くらい?」
「高ッ!」
「なーに言ってんのよ個人情報よ? しかもJKの! 美少女の! 寧ろ安いくらいよ」
「……何だろう、確かにそんな気が…………ってそもそもそんなもん売るのがいけないでしょ! もっと安くしてくれないと先生がタバコ吸ってる所の写真校長に郵便で送りつけますよ」
「何っ! 先生の弱みにつけ込むなんてよくないぞぅ!」
「今回ばかりは譲れません」
「なーによ真剣になっちゃってー」
……と、その時、
「ん―――――――――――――――――ッ!!」
愛珠は急に顔を真っ赤にして首元を両手で抑えた。これは……どうやらパンが詰ったらしい。人のパンを盗んだ報いだ。
「やれやれ…………」
一翔は手元にあった紙パックのイチゴ牛乳を手に取り、ストローを指すと愛珠に手渡そうと…………したのだが、
「これあげるんで澪の家族に関する情報下さい」
勝ち誇った様なジト目で一翔はそう脅した。
呼吸困難になりかけの愛珠は朦朧としながらも必死にこくこくこくこくと頷いて命乞いする。流石に命大事か。
「よーし交渉成立ー」
愛珠は一翔からイチゴ牛乳を手早く取り上げ必死に吸い上げパンを胃へ流し込んだ。
「ぷふぁ――――――あーこれ絶対昨日飲み過ぎたせいだわ――――――ゲップ」
愛珠はだらしなく口の周りをイチゴ牛乳で汚したままそんなふうに言った。
胃が弱っている時に勢い良く食べ物押し入れてはいけない。これも反面教師だ。
愛珠がある程度落ち着いた所で、
「で、澪の親がどうしたんですか?」
真っすぐと愛珠の方へ向き膝を突き合わせる一翔の表情は真剣そのものだった。
愛珠もそれを見ると胸ポケットからハンカチを取り出し口の周りを丁寧に拭き取り語り始める。
重々しく、こんな言葉から――――……
「黒崎弦山――――――それが彼女の父親の名前。正直これで大体伝わるんじゃない?」
その言葉は一翔にとって余程衝撃的だったのだろうか。
彼は顔面蒼白になるほど表情を崩し、絶句した。
*
黒崎澪の家庭は裕福だ。
大きな門構えの先に広がる庭園には色艶やかな花々が咲き乱れ、右を向けば絢爛豪華な外国車がズラリと並んでおり、そしてその先にようやく自分の背丈の二倍はあるだろう玄関扉が出迎えるのだ。
それもその筈。
彼女の父親――黒崎弦山はなんと世界最高峰と唄われるウィーンフィルハーモニーオーケストラと共演した事のある数少ない日本人ピアニストであり、国際コンクールのトロフィーは一通り家に飾ってあるという超が五つ程付くであろう天才ピアニストなのだ。毎年オーストリア政府が発表する最も実力のある演奏家ランキングに日本人で唯一十年連続ランクインしているのだから自他共に認める世界最高の実力を持っていると言えよう。
「ただいま戻りました――――」
先が見えぬ程長い廊下に残響が残る。
手早くローファーを脱ぎ下駄箱へしまうと無駄な動きは一切せず真っすぐとその廊下を進んだ。
「……早かったな、澪。では今日のレッスンは前倒すとするか。」
重厚な低音。獅子の様な恐ろしい風貌。
そう、彼が――黒崎弦山。澪の父親にして世界最高のピアニスト。
「はい、……お父様。」
澪は深々と頭を下げた。
「髪が伸びたんじゃないか? 演奏の時邪魔だからいっそショートにしたらどうだ。」
「……明日までにもう少し短くしておきます。」
「うむ。胸がそう大きくならなかったのは良かったな。大きすぎると腕の移動に支障が出る」
「――――……。」
一瞬舌打ちしそうになる憤りを澪は懸命に押さえ込み唇を噛み締めた。
「ウォーミングアップをして待ってなさい。私も直ぐ向かう。」
「承知致しました。」
そう言うと澪は再び頭を下げ、弦山がその場を立ち去るまで顔を上げる事はしなかった。
澪は幼い頃から父のレッスンの元厳しい練習の日々を過ごして来た。それは時に暴力や罵声が飛び交う厳しいものだった。
そして何より世界最高峰のピアニストの娘――それだけで周りからの注目は凄まじかった。天性の才能ではなく、そんな重圧に堪え続けた事こそが今の実力に繋がったのだ。
あるいはこうも言い換えられる。
――黒崎澪という人間にとってピアノとは自分の全てであると。
毎日十時間の練習は当たり前、空き時間があればCDや楽譜を眺める。生まれてから今日までずっと受験生みたいなものだ。
父からの無言の重圧――――練習しろ、とは決して言わない父だったが週に二度のレッスンで練習不足が露呈しようものなら叱咤されるのは当然だった。そんな彼女にとって当然ピアノが生活の中心で――いや人生の全てだったのだ。
――――もし。
もし仮にそんな彼女がピアノ以外の幸せを見つけてしまったらどうなるのだろうか。
好きな異性が出来るとか、趣味が出来るとか、他に夢を見つけるとか。
もしそうなればそれがごく一般的な女子高生にとって当たり前の事であっても、彼女にとっては正にビックバンの如く革命的な出来事となるだろう。生活は勿論、彼女の性格や倫理観などあらゆる所に多大な影響を及ぼす筈だ。そして黒崎澪という人物が今までのそれとは似ても似つかない別人に変わる事まであり得る。
つまりもしそうなれば彼女の身に、心に、周囲に、何が起こっても別段不思議ではない。
この事実に気付かない人間と気付く人間。その差は存外大きいのかもしれない。
*
広々とした防音室に彼女の音だけが谺した。
ショパンの練習曲――嵐のような難曲を引き終えた彼女の額からは無数の汗が流れ出ていた。
「はぁ……ん……――はぁ………………」
鍵盤をぼんやりと見下ろしながら息を整える。
そして長くて美しい髪を横暴にかき乱すと、
「――何なのよッ!」
唐突に怒りを鍵盤にぶつけて、不協和音を鳴らした。
充血した眼、必用以上に上がった息。いくら難曲を弾き終えた後とは云え、流石にそれは度が過ぎている気がした。
「……私は…………クラシックしか演奏しないの――――……。」
再び髪を強引に掴むと、
「ボカロなんて低俗な音楽何が面白くて演奏しなくちゃいけないのよ――――――ッ!!」
今度は両手で目一杯鍵盤を押え込み、ピアノは悲鳴を上げた。
そんな時、防音室の重たい扉が開かれ澪ははっと我に返った。
髪を手櫛でささっと整えると背筋をピンと張って姿勢を整えた。
父だ。
その存在が空間に入り込むだけで空気の色が冷たく色付いて行く気がした。
もうそんな時間だったろうか。
視界の端で捉えた時計はなるほど、確かに約束の時間ぴったりと示していた。
(私がレッスンの時間を忘れるなんて珍しいな…………)
そんな事を思いながらも澪は凛と真っすぐ前を見つめて父の言葉を待った。
「何を弾いていたのだ?」
「ショパンの練習曲……作品十の方の十二番です」
「十の十二――――あぁ『革命』か。」
「――はい。」
父はそんな事を言いながら澪の横へ向かうとそこに置かれた楽譜を手に取りぱらぱらと眺めた。
「これは俺も中学の頃は良く好んで弾いたものだ。若い頃はこういうカッコいいのを弾いて女の子にモテたいなんか思ったりしてな」
「お父様でもそんな時期が?」
「当然だろう。俺も男だ――そりゃ思春期は女の子にモテる事ばかり考えていたよ」
「……そうなんですね」
澪はやるせない気持ちを懸命に抑え込んだ。
「この左手の黒い音符…………これをミスなく弾いて見せればクラスのマドンナも俺に振り向いてくれるんじゃなんて考えてな。だがそんな事は甘えだ。」
「………………」
「音楽家たるもの音楽は音楽に返さなければならない。譜面を通して受け取った作曲家の意志を表現するのが音楽家であってそこに自分の想いなど他の気持ちが入ってはならない――あの頃の俺はそんな事も知らなかったと思うと恥ずかしい。そりゃモテないわけだ。お前にはそんな風になって欲しくない。」
「……ショパンの意志に、自分の気持ちを重ねてはいけないのですか……?」
ショパンが描いた世界を語るだけじゃつまらない。そこに自分の意志を込める事だって必用な筈だ。
だが父はそれをあざ笑うように「いけないな」と否定した。
「この曲はショパンが祖国の革命の失敗を嘆き怒りに身を任せて書いた作品だと言われている。お前にとってショパンが感じた程衝撃的な――革命的な出来事を体験した事はあるのか?」
「……ない、かもです」
「かもではない、無いに決まっている。そうなればそれは雑念だ。少なくともそう云う事はもっと技術が上がってから考えれば良い。今はただひたすら楽譜を正確に再現する能力を身につける事だけに集中すれば良い。」
「……………………」
「返事は?」
「わかり…………ました。」
すると父は満足気に一息ついた。
それから楽譜を元へ戻し近くの椅子に座すと足と腕を組んだ。
「お前、まさかとは思うが高校で部活をやろうなんて考えてないだろうな?」
弦山の鋭い視線が澪に突き刺さる。
「色んな事を経験するのは大切だが……一流のプロとして俺の跡を継ごうという奴にそんな余裕は無い。ましてや以前お前がやりたがっていた『ボカロ』なんて言う低俗な物をまたやろうなんて――――」
「――そんな雑念! ……とっくに捨てました――………………。」
モレンド――――後半になるにつれ次第に消えてしまいそうな声でそう言った。
それは何処か悲しく何処か冷たい――そうそれはまるで彼女の音を象徴するような声だった。
だがそのムキな感情を何故か好感的に捉えた弦山は、
「そうか。お前もあれで学んだか」
と一言、彼女の本心を全て理解したように深く頷いた。
彼女の中で沸々と煮え滾る感情を何一つ知らないにも拘らず…………。
「では最初から弾いてみなさい」
「はい。」
彼女は鍵盤を叩く。ここで彼女に出来る事はそれだけだ。今日も彼女は鍵盤を叩き続ける。
口答えも言い訳も我がままも願望も、全てここでは表に出してはならないもの。
こうしてこの日も厳しいレッスンが始まるのだった。
*
ヴァイオリンやフルートなら兎も角、コントラバスやティンパニーなどの大型楽器の練習と云うのは一苦労ある。それは楽器の持ち運びについてだ。あんなに大きい楽器をぽんぽん運ぶ事は当然不可能なのであって、たいていこれらの楽器の練習は学校においてある楽器を使用するしか無い。
こんな事情もあって八音では居残りや泊まり込みが割と簡単に出来る。具体的には個人単位の場合自分の楽器の担当教師に申請書を書いてもらうか、部活単位の場合部の顧問に書いてもらうかだけで出来てしまう。つまり「先生のサイン下さい!」と言えばドヤ顔で「ったく仕方ねぇな〜」と返事してくれる顧問がいる電研部部員は言って見れば居残りし放題なのだ。
そんな特権を存分に使っている男がここに居た。
月光が優しく一翔の横顔を照らす。もう春とはいえこの時間になると外は寒い。先程まで放り投げていたブレザーを羽織るとテレビの電源をポチリ。
彼の事だ、居残り練習だと言い張って学校で一人エッチな深夜番組でも見るのだろうか。
レコーダーの電源もポチリ。
はは、やはりそうか。どうせ録画したのに家では親が居て見れなかった正月特番『新春! 水着美女の尻文字書き初め祭り』でも見るんだろう。
……予想的中。画面半分を美少女のおっぱいが上下する卑猥な動画を食い入るように見つめるのだった。しかし予想と外れていたのはそれが正月特番のエロ番組ではなく、なんと同級生のおっぱいを隠し撮りした映像だった、という事だ。
なんとけしからんことか! 同級生のエロ動画を隠しカメラで映像に納めそして夜な夜な一人で見ながらきゃっきゃむふふぐへへするなんて!
ていうかこれは犯罪だ!