その3
「澪――――」
練習室に戻った澪の表情は先程までとは見違える物だった。
今までに無い程晴れやかで、力強かった。
「お父様、お話があります。」
「うむ。話してみろ」
弦山も彼女の表情を見て気付いていたのだろう、分かった様にすぐそう返した。
だがそれでも彼の醸し出すオーラや態度や表情が甘くなる事は無い。獅子のような風格や鬼のような表情、彼女の事をずっと蝕んでいたものらが彼女の心をくじこうと威圧してくる。
(ダメだ、黒崎澪……! ここで負けたら、自分を許せない…………ッ!)
――一歩、前へ出る。
――強く、蹴り出す。
その一歩はただの一歩だが――彼女の人生にとって大きな意味を持つ一歩だった。
そんな彼女の勇姿に、弦山の方が思わず一歩身を引く。
「まず、この動画を見て下さい……先日レコーディングしたボカロ曲です」
そう言って手に持ったタブレット端末の再生ボタンを押す。
いつもは大量の楽譜を持ち歩く為に使っている端末。これで動画なんて見た事無くて、見方を一翔に先程メールで聞いた。
そこに映し出されるのはこの前の映像だ。
再生回数はアップから二週間で既に五万近い。
一翔は地味にボカロ界では人気のある人間らしい――最近のボカロ事情に澪は全く詳しくないので分からないが。
視聴者のコメントが画面の右から左へ流れて行く。
そこには賞賛の声もあれば心ない言葉も書かれている。
だが、それがボカロの面白い所だ。
名前も知らない誰か――けどその曲の魅力に取り憑かれた人――と曲について語り合えるのだ。それは、クラシックでは体験出来ない魅力だった。
そして――――――
「音源と楽譜で幾つか相違点があるな」
「アドリブを加えているんです」
そう。
クラシックとは違い、譜面の制約が小さい。
自分のやりたい事が出来る。音で会話出来る。音で、語り合える。
――音で、恋出来る。
そして遂に澪は、
二年前に言えなかったあの言葉を、
ようやく口にした。
「お父様――――私はボカロが好きです。大好きなんです」
長かった。
ここへ辿り着くまでに、幾つもの苦悩があり、難関があった。
けど、
(ようやく辿り着いた。ようやく見つけた! ……ようやく言えたっ!)
澪の天の川の様に輝くその瞳は、凛と真っすぐ弦山を見つめていた。
……………………。
暫し弦山は音に聞き入った。
そして演奏が終わった時、
「成る程。」
いつも通りの野太い低音でそう呟いた。
唐突の無音が、静寂が澪の心へ襲いかかる。
心臓がドクドクといつもの二倍くらい速さで波打っている。
唾をごくり、次の言葉をじっと待った。
そして意外にも、弦山は繊細な飴細工を撫でるような柔らかい声音で語り始めた。
「俺は間違っていたのかもしれない。……自分が過去に犯した失敗を、お前にさせたくなくて必死になりすぎていたんだ」
「過去に、犯した……?」
澪は全く予想していなかったその一言を確認の意味を込めて聞き返した。
「ああ、そうだ。あれは丁度お前がボカロに出会った頃の――中学の頃の話だった。」
そう言って弦山は、昔話を始めた。
「俺は当時好きだった女の子が居たんだ。でもその子はクラスの男子皆が狙っててな。どうしても自分に振り向いて欲しかった俺はピアノを始めた。ピアノが弾ける男はカッコいい、モテるなんてそんなバカな事を考えていた。そんな事無いのにな。実際ピアノは上達したが彼女が振り向いてくれる事は無かった。」
昔を懐かしむ弦山の表情は澪も今まで見た事が無い程、優しく、柔和だった。
「それでも当時の俺はもっと上手くなれば必ず振り向いてくれると信じて疑わなかった。だから俺は練習した。練習に練習を重ねた。だがそんな時、事件は起きた。」
すると弦山は笑みを浮かべ照れくさそうに、
「まぁ、事件と言う程でもないんだがな。高校三年の頃、その子に彼氏が出来たんだ。ショックだったよ。俺はピアノを弾く理由を失った。それから一年間は一度も鍵盤に触れなかったよ。」
「……………………」
父親がピアノを始めた理由はモテたいからだ、というのは何となく聞いてはいたが、それ以外の事は澪にとってもまったくの初耳だった。
「それからピアノに復帰する為には凄く多くの労力と時間を要した。それで俺は悟ったのさ。若い頃は演奏に対して別の感情を持つべきじゃないんだ、と。」
「それで、私にクラシック音楽以外に触れるなと……」
弦山はそれに対して深々と二度頷く。
「澪には真っすぐ、プロになる事だけを考えて欲しい。それ以外の事は何も考えず、真っすぐ道を踏み外さず歩んで欲しい。そう思っていたのだが…………どうやらそれは間違えだったようだ。」
「間違え、とは……?」
一体澪のどんな行動が、弦山を間違いだったと認識させたのだろう。
「思えばそもそもあの子を好きになっていなければ俺はピアノを始めていないんだ。仮に始めていたとしてもあの子がいなければ今程良いプレイヤーにはなれていなかっただろう。そんな事に気付かないなんて親失格だな。俺にとってのマドンナが澪にとってのボカロや雨宮くんだった、というだけだ。きっとボカロや彼は澪の音楽人生を豊かにしてくれる存在になるのだと思う。それに今、澪の目を見ていて気付かされたよ」
「なっ! べ、別に私は一翔の事、好きって訳じゃ……!」
「……出会って間もないのに名前で呼び合うような仲になったのか」
「……あれ、そういえば私いつの間に一翔って……」
そうだ、ずっと雨宮さんだったのに気がついたら雨宮くんになってそれから一翔に……。
そんな事を考えて狼狽える澪を見て弦山は「ははは」、と笑う。
「今まですまなかった。都合のいい話かもしれないが、自分の好きな事を正直に愛せる人になって欲しい、我が娘、澪よ」
弦山はそう言って、その大岩のような上半身を深々と下げた。
「……お父様…………!」
そんな彼に構わず澪は、その大きな胸に飛び込んだ。




