その7
まず囁くのはピアノの和音。繊細にコードをかき鳴らす。
EM9――――片思いを感じさせる和音だ。実に一翔らしい。
続いて入るのは赤子を撫でるような優しいキーボードソロ。
一翔の旋律と澪のピアノの音色がねっとりと甘く、そして何処か繊細に切なく絡み合う。そしてそれらは――次第に一つとなって愛の形を創り出す。
正に音と音が紡ぎ出す、恋心。
音を揃えるため見つめ合い、一緒になって呼吸する二人。
同じ空気を吸って、同じような音色を奏でて、同じ音楽を作る。
そんなエモーショナルなサウンドに二人は真剣になって、けれどふと我に返って頬を赤らめて目を逸らしたり。
そう、二人は今、音で恋を体験しているのだ…………
「スト――――――――――――――――――ップ!」
唐突に彩がドデカいシンバルのクラッシュ音と共にそう叫んだ。そして顔をパンパンに膨れ上げて目をギロリとつり上げるのだ。
「なに二人でいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃしてんだよ! 一翔のバーカ! バーカ! バーカ……! バーか……――! …………ばかぁ……――――」
言葉尻へ向かってデクレッシェンドしながら。
確かにこれはセッションだ、音楽作りだ。
けれど、最高の音楽家達とってセッションとは音楽作り以上の物になる。
音符の海へ飛び込んで、その中で見つけた音の星々を線で結んで、星座を作る様に旋律を紡ぎ出す。演奏を究極まで極めるとそんな感覚に襲われるのだ。
今の一翔と澪がまさにそう。
恋の唄を歌おう歌おう、と懸命に音を紡ぎ出すあまり、最早感情だけが先行して浮遊し、遂には恋という一つの結論へ結びついた。
『……これだから音楽家は辞められねえんだよな』
『久しぶりかも、アンタの意見に賛同すんのは』
ミックスルームの大人二名はくすりと笑いながら温かい目で若人達のそれを見守った。
音符とは文字。
音とは言葉。
そうだとするならば、
楽譜は台本。
音は台詞。
プロの役者が自分の役に没頭するあまり、本当に相手に恋をしてしまったり、本当に心から涙を流したりする事はある。
だとするならば…………
「二人ちょっとベタベタしすぎだよっ!」
音楽家がラブソングをあまりにも熱を入れてセッションするあまり本当に恋に落ちてしまう事も当然あり得る。
彩は、それを危惧して叫んだのだ。
二人は照れくさそうに頬を染めて目を逸らすと、
「……だってよ、そういう曲だし」
「そ、そうね……音楽が要求するもをプレイヤーとして再現しただけと云うか……」
ドギマギした微妙な距離感を保ちながら二人は口々に言い訳する。
「いやぁーでもさっきのは確実に音でキスしてたわな」
「確実。」
大崎姉妹のそんな指摘に、
「キ……キスっ!?」
彩はドラムスティックをぽろり、と手からこぼして顔面蒼白に。
音でキス。最高の演奏家達は音を聞くだけでそこまでの情景が浮かんで来るのだ。
恐らく彩にもそれが、又はそれに近い物が見えていた筈。見えていたのに何故だろう、そこから目を逸らしていた。
「ダメよダメったらダメ! キスなんては、ははは、破廉恥なの絶対ダメなんだからッ!」
ムキになってそう否定するとスティックを拾い上げ、
「ダメなんだから――――――――――――――――――ッ!!」
「おぶふっ!」
一翔の頭蓋骨目掛けそれを投げ飛ばした。
「はぁはぁはぁ……はぁ。」
この気持ちは何だろう。例え音であっても……いや音だからこそか、二人が近づくのを見ていると何だか胸が苦しい。
「さ、テイク2! さっさとやるんだからっ!」
「いい感じだったのに止めたのは何処の誰だよ……」
「う、うるさいなぁバカ一翔!」
「ご機嫌ナナメですな今日の彩は…………」
一翔も彩も定位置に付く。『じゃーテイク2いくぞー』と一言、Qランプを点灯させる。
メトロノームのクリック音が流れ出す。それに合わせて澪のピアノソロが再び始まった。
先程と同じ様に二人は絡み合う。
けれど、音でキスしていた、そう明言されたからか。お互い少しだけ照れくさくなって遠慮している。二つの音の間に微妙な距離感が。まるで喧嘩中のカップルみたいだ。
(ぐぬぬぬぬ……悔しい…………何か分かんないけど悔しいッ!)
――――ガシャン!
ドコドコとタムがリズムを刻んでから両手で目一杯クラッシュシンバルを叩いた。
(彩の奴……何キレてんだよ……)
テンポがどんどん速くなりそうになる。ヘッドフォンから流れる歌声と少しずつずれて先に進む。ドラムが焦っているんだ。
(ドラムの癖に走るんじゃねえよっ!)
キラキラとキーボードがグリッサンドで下降する。そして続くはフォルテのアクセント。リズムを先程よりキツめに叩く一翔。
(……誘発。)
するとテンポキープの要、ドラムのキックのリズムと同じリズムにアレンジしてベースが乱入する。それもキックより速いテンポで。これでは音楽が崩壊するのに……
(彩の肩、持つ。)
そう云う事か。音楽よりもフィーリング優先で音楽作っているらしい、凛子という少女は。
凛子は頭を振り回し、短い髪の毛を逆立てた。
(凛子まで……!)
音楽を聞く、紫音がにやついた。これは、……もう赤信号だ。
(私の音を聞けぇ――――ッ!)
本来は静かなギターのカッティング。そんなフレーズを、なんと、
(……アドリブソロとか……何考えてるんですか紫音先輩は……!)
しかも凄いロック。ディストーション系のエフェクターオンにしてゲインかけまくり。凄く、音が歪む。
仕方なく本来のカッティングは担当する。かっかっか、とそれを奏で出した所で、
(お、一翔カッティングやってくれんの?)
目線を一翔へちらり。
(だって紫音さんやる気ないでしょ?)
一翔もそれに答える。額の汗を拭う暇すらない。
(へへっばれた? でもだったら――――もっと暴れてもいいよなっ!)
――ピッキングハーモニクス。
その耳に残る強烈な高音が熱烈な咆哮を上げた。リズム、コード、フレーズ、何もかも楽譜を無視している。即興で思いついた……いや、今の気分と他の人の出す音から連想された音を出しているんだ。
流石にこれにはメンバー一同唖然とする。その最たるのが勿論黒崎澪。
(もう、なんなんですか皆さん…………楽譜を何一つ守ってない!)
ピアニストとは云え合奏やセッションは何度も経験している澪だったが、こんな意味不明なセッションは初体験だった。そりゃそうだ、普通はあり得ない。
(……けど、何でだろう、楽譜通りじゃないのに凄く気持ち良い……凄くカッコいい。何より…………)
その刹那――澪の表情がふわりと浮き上がった。
極上の笑顔。最高の音達への感謝の気持ちで、その笑顔は、太陽よりもキラキラと輝いていた。
(何より――――――――面白いッ!!)
澪がボリュームつまみをぐるりと回転させマックスに振り切った。部屋の中を占めるピアノの音の割合がぐんと上がる。
(楽しい……――)
ぽろん、装飾音を幾つか増やしてみる。
(……楽しい!)
コードとコードの間に一つコードを増やしてみる。
(さいっこうに…………楽しい!)
――――――じゃん!
最低音から最高音まで一気にグリッサンド――まるでナポレオンの馬がアルプスを駆け上がったみたいだ。
そんな澪をちらりと目線だけをちらりとずらして眺める一翔。初めて見る澪の目映く輝く笑顔に正直驚いていた。
(……澪の奴、あんな風に笑って…………。やっぱまだ好きなんじゃん、ボカロ!)
一翔もそれに嬉しくなったのか――紫音の補助を放棄。紫音の音を聞きながらその場で次のコードを予測。ハーモニーを長く長く伸ばして音楽全体に幅を持たせる。
リズムは彩に揃える、左手のリズムは凛子に。
そして右手の旋律は澪の音を補完する様に間の音を埋めるのだ。
(俺もこの曲が大好きだ!)
さあ、ラストスパートだ。
破天荒なピアノの旋律も、歪み過ぎたギターソロも、焦ったドラムも、それを後追うベースも、それらを引っ張るキーボードも。
それでも全て一つ、終止線と云う終わりへ向かって終息して行く。
ゆっくりと、しかし確実に音は集まって行く。
(ったく、結局最後の最後まで楽譜無視かよ……)
そして――最後の和音が、鳴り響いた。
*
「これじゃ売り物になんないわよ、野島」
ミキサールームでそんなすっちゃかめっちゃかな演奏を聴いていた愛珠と野島。そもそも今日の演奏の趣旨は楽譜を売り込む為の音源作成だ。楽譜を無視した演奏もってのほかだ。
「……ああ、売り物にはならねえな。けどだったらあの演奏を途中で止めろってか? このあとちゃんと譜面通りにやり直せよってガキ共を叱りつけろってか?」
野島は本当に嬉しそうに笑った。
「俺も音楽家だ。あんな良い音楽見せつけられて、文句言えるわけねーだろ」
演奏も終了し、少年少女の討論がこちらにも流れ込んでくる室内。愛珠も野島もこう思っていた。
「そうね……私達は音楽家だもの。良い音楽聞いた時は、震え上がっちゃうわよね」
彼女は全身鳥肌が立っていた。
レコーディングルームは五月蝿かった。
そりゃもう演奏中よりも五月蝿いんじゃないかってくらい。演奏の内容に関して今度は言葉で語り合っているのだ。
「……キックぐっ!」「有り難う御座います凛子せんぱぁーい! ベースの後押し心地よかったです!」「んだよ一翔、途中まで私のパートやっといてくれたのに!」「ハーモニー補完に切り替えたんですよ!」「いや、あれはカッティングに上に乗る方がロックだろ!? ハーモニーなんてなよなよしたものはどーでもいいんだよ!」「折角耳コピで予測して弾いて上げたのに……」「……んまぁ、確かに流石一翔、かなり精度高かったけどよ……」「それより一翔! なんで最初うちの高ぶる鼓動をセーブしようとしたのさー!」「歌とズレたら元も子もないだろ! アホかお前は走り過ぎだ」「はー? だいたいそもそもテンポ指定遅すぎんのよ、アンタの曲!」「原曲にケチつけてんじゃねえよ、まず従え譜面に!」「誰も譜面に従ってなかったじゃない、今は!」「……んまあ確かに。」
「ふふっ!」
その時、澪の笑い一つに、ノイズが静まり返った。
「あっはははははははははははははははははははは!」
澪は演奏中と同じくらいのとびきりな笑顔で、高笑いした。
そこに嘗ての彼女の――――氷の魔女の面影はなかった。
寧ろ、太陽の女神、とでも例えたら良いのだろうか。
……いや、それも違う。
――可愛い女子高生。
これが一番適切だ。何も気にせず、何も考えず、ただ純粋に、笑っていた。
そんな彼女に一同は目を奪われる。それは今までの彼女――冷徹で無慈悲な彼女――からは想像も出来ない姿なのだから。
――はっ!
そんな状況に不意に気付いた澪は顔を真っ赤に染めて薬缶の様にぽーっと湯気を漏らすと両手で顔を覆いハムスターの様にささささっと後ずさりして、部屋の端っこでこちらに背を向け体育座りした。縮こまるその姿はハムスターそのものだ。
そんな彼女の元へゆっくりと歩み寄る一翔。
そして暖かな声音で語り始めた。
「澪……今の音楽…………低俗だったか?」
「………………」
澪はじっと動かない。それでも一翔は止まらない。
「今の音楽、つまらなかったか?」
「………………」
電研部の皆、ガラスの向こうから愛珠、野島も見守る。
「澪――音楽は音楽なんだ。ボカロだから低俗とか、クラシックだから高貴だとか、そういうのは無い」
「……………………」
「あるのはかっけえ音楽とそうじゃない音楽、その二つだけ。そこにジャンルの境界線は無いんだ。」
「……………………」
「その二つを判断するのは――――自分の心、それだけだ。自分がかっけえ!って思ったらそれはかっけえんだよ!」
「……………………」
「自分を信じろ、黒崎澪」
そう言って一翔は右手を伸ばした。
「俺達と一緒に音楽をやろう」
だが、その手が握られる事は無かった。
「……ごめんなさい、もう少しだけ、考えさせて…………。」




