初恋ディスカッション
なぜか今日は雨なんて降らないような気がする。そんな確信めいた、いわゆる根拠のない自信を抱えながら、僕は学校に向かったのだけれど、もともと僕の勘というものはそもそも頼りにならないものだったし、何より昨日の報道番組のお天気コーナーでは、台風が接近しているとのことだったので、まあこんな日に雨が降らないと確信して傘も持たずに家を出た僕は、相当に能天気なお坊ちゃんか、或いは何にも左右されないマイペースな奴とでもいうべきか。ともかく他人からしてみれば馬鹿の一言で片付けられるような状況で、僕は降り始めた雨をぼんやりと眺めていた。
二時間目、ストッキング、曇り空、そんな散文的な言葉が浮かんでしまうくらいに、退屈で眠たい数学の授業が始まっていた。僕はだいたいにおいて数学の授業では小日向先生のストッキングを見ることにしている。別に性的欲求から来るスケベ目線の凝視なんかじゃなくて(あくまで僕の名誉を守るために言うけれどね)、たまに小日向先生のストッキングは穴が開いていることがあるから、それを見つけるのが楽しみになっているんだ。いわゆる暇つぶし、他人がどうでもいいと思うようなことに、僕は楽しみを見いだしているわけだ。まあそんなくだらないことで時間をやり過ごしているから、僕の数学の成績はいつまでたっても2とか3なんだけれどね。あーあ、本当に、数学なんてつまらない。こんなのは、ただ人間が真面目くさった顔して作ったパズルじゃないか。こんなものは大学の研究者、あるいはそれを目指す人間だけがやればいいんだ。だいたいが小学、中学の数学問題さえできれば事足りるのだから、高等な数学なんて、別に興味がなければ学ばなくたっていいんじゃないの? と、僕は常々そう思うのだ。いや、日本の学校のシステムからしてさ、僕は元々、疑問を抱いていたのだ。みんながまるで普通な顔して、高等学校に通って、高等な勉学を学んでいるのだけれど、その高等な学問を本気で理解し、本気で数学や文学や歴史学の道を歩む、または学んだ事を将来の研究にいかそうだなんて人物は、数えるほどしかないないだろう(いや、全くいないかもしれないね、僕の学校には)。ああ、またこうやって言うと、屁理屈な佐伯くんだなんて言われてしまうのだろうけれど、僕の考えとしては高等学校なんて行かなくても、例えば自分のやりたいことがあったら、専門学校にとっとといけるようなシステムが浸透すればいいんだ、ってことを本気で思っているんだ。そもそもなんで、当たり前みたいに、僕らは高校にいかなければいけないのだろう。これだって、別に高等な学問なんて学ぶつもりじゃなく、中学校の延長として、大学進学への切符を手に入れるために、あるいは仕事をするにはまだ幼すぎるから、とりあえず高校と言う場所に、同じ年代の子供を集めて見張っておきましょう、と言うシステムにしか、僕は思えないんだ。いや、もちろんさ、これは僕のとても穿った見方だってことは分かっているんだよ。でもね、もっと言わせてもらうと、高校だって、大学だって、何だって、そんなところに平気で通っている僕らみたいな奴ってさ、本当は将来やりたい事だの、何かを成し遂げたいだの、自分の進むべき道の具体的なイメージだって碌に思い付いちゃいないのさ。なんとなくふわっと、何とかなるでしょうとか、別に本気じゃないけれど、何となく雰囲気で将来の自分のイメージを思い描いているだとか、そんな程度の幼稚な奴らが集まってるだけなんだ。いや、中には相当にまともな奴だって、いるにはいるんだよ。それは知ってる。僕の友達の杉井なんて、プログラマーになるために、なんだかよく分からないスペシャリストの資格を取って、昨日のホームルームで表彰されてたし、もう行くべき専門学校も決めてあるし、隣のクラスの真崎なんかは、美容師になりたいとか言ってたから、まあとりあえずは将来の姿はおぼろげながら描けているわけだ。でもさ、そんなに本気で目指しているものがあるなら、なんで専門的な事を学ぶわけでもない私立高等学校、普通科、特別進学コースに通っているんだ、って時々思うわけなんだよ。まったくの言いがかりみたいな言葉で申し訳ないけれどね。とにかく僕が文句を付けたいのは、杉井や真崎と言った連中じゃなくて、自分のやりたいことがあるなら、なぜ高校に通わなければならないのか? その風潮に対して僕は文句をつけているわけだよ。この数学の授業中の、小日向先生のストッキングを見つめながらで申し訳ないけどさ。いや、文句を付けたいのはそれだけではない。高校だけじゃないんだ。むしろ大学にしたってそうさ。大学入試を受ける奴らの中で、本気で研究者の道に進もうなんて奴は、賭けたっていいけれど、1パーセントにも満たないだろう。ただ就職へのパスを得るため、何となく決められない自分の将来への猶予期間をそこで過ごすために、別に仕事なんかしたくないから、親から言い逃れするための免罪符を得るために、入学をするだけなんだ。新しい自分を探すとかなんとかふわふわしたこと言って、サークル活動ばっかりに精を出して、人脈とか言って特に目的もなくいろんな人に話しかけまくって、碌に勉強もしないで親の金で大学の4年間を過ごしたり、恐らくさ、そういう人ばかりだと思うんだよね。僕もそうなるだろうし、まあそれはそれでしょうがないと思うんだよ。僕が考えるには、現在の大学のシステムって言うのはさ、(もともとそうなのかもしれないけれど)大学の研究者たちの研究資金を集めるために、巧妙に築かれたシステムだと思うんだ。特に目的もなく過ごすであろう大学受験生と言うカモを釣ってお金を得て、それで一応その対価として研究者たちが学んだ事の一部をとても分かりやすく馬鹿でもわかるような感じで入学者たちに教えて、そんで4年間ちゃんと座って聞けた子たちには、それぞれの企業へのパスをプレゼントするよ(最近はその当選率が少ないけれどね、就職するには抽選で何名様のプレゼントに当たるくらいの運が必要らしいんだ)てなシステムだと思う。大学側だってそれぞれの専門を研究して論文を発表するため(本来大学ってそう言う場所だと思うんだ。もちろん専門知識を学ぶ場でもあるんだけれどさ)、もちろん研究者たちにとって何かを研究、実験するためには莫大なお金がかかるし、そのためには多くの学生から稼がなくてはやっていけない。だから対価として入学すれば知識を提供するよ。就職先も提供してあげるよ。簡単に言うと、大学って言うのはこういう場所だと思う。だって本当に、真面目に学問を研究するため大学に行く人だけを集めたら、それこそ毎年数十人くらいしか入学者がいなくなっちゃうもん。その点、僕らみたいな無目的で流動的で、無知で、能天気で、とりあえず学校の勉学だけはなんとかできるよって学生は、大学にとってはいいカモなんだろうね。思えばこのシステムは、高校にだって通用する。高校だって、別にこんなに皆が高等勉学を学ぶようになったのは最近の話で、僕たちなんかは特に学ぼうと思って入学しているわけではないのだ。でもなんだか雰囲気的に入学しなくちゃいけないから、入学する。それに味を占めたそれぞれ私立学校なんかは、自らの高校のいいところをアピールするわけだけれど、しょせん金集めのカモを引き寄せる行為でしかないんだよ。本気で高等勉学を学びたい奴なんて数えるほどしかいないさ。でも高校には入学しないと生きていけない雰囲気がある。社会から零れ落ちる雰囲気が漂っている。だから僕らは仕方なく高等勉学を学ぶ。僕らもうんざり。教える教師たちもうんざり。でも金は動いていく。そんなシステム。でもさ、そういう僕らみたいな、現代のいろいろな選択肢を与えられすぎて逆に身動きが取れなくなりそうな若者、皆と同じように雰囲気で自分の未来を決めてしまいがちな若者がさ、そんなふわふわしてるけど幸せに生きてるやつらみたいな者が大勢いないと、やっぱり駄目なんだろうね。だって社会を支えるのは、研究者じゃなくて、こういう何となくで生きている奴らなんだもの。そういう人がたくさんサラリーマンやら、作業者になって、生活を作っていくわけなんだろう。スペシャリストがいっぱいいても仕方がない。手足がしっかり動くからこそ、脳は発達していく、なんて言う例えはおかしいかもしれないけれど。まあ、その点で言えば、この教育システムは理に適っていると言うか、自然にそうなっていったのかは知らない。僕みたいな馬鹿な奴でもなんとか落ちこぼれずに大学に行けて、そんで将来は僕でもできるような仕事をしながら、ぎりぎりで生きていくのだろう。そう考えると嬉しくて涙が出ちゃう。この国って言うのは、案外僕らを守ってくれているのだろうね。
「佐伯君、この問題を解いて」
そんなことを考えていると、例のパンティストッキング先生が僕をご指名なさった。この人はいつもこうなんだ。僕がこうやって何かを真剣に考えている時にこそ、遠慮なく指名してしまうわけだ。とりあえず僕は立ちあがって黒板に書かれた数式と睨みあったわけだけれど、そこに描かれる不思議な模様からは何も読み取れなかったので、僕は黙って下を向いた。僕の落ちこぼれている姿が、教室中のみんなにさらされているようで恥ずかしい。分かりませんと言う勇気もない。ただやりきれない時間が、誰も発言しない妙な時間が過ぎていく。僕が俯いていると、しかし隣の席の島本さんが小声で、7Xだよと教えてくれた。
「7Xです」
と、僕が素直にいったら「は? この問題にXなど出てこないが」なんて言われて、女子にたちに笑われて終了、何て被害妄想が浮かんできたけれど、しかし先生は、僕の7Xオウム返しに対して「正解」と言っただけで、その後はすぐに解説に移ってしまった。島本さんは僕に正しい答えを教えてくれたようだった。
僕は急いで座ってから、こっそりと隣を向いて小声で「ありがとう」と呟いた。島本さんは少しだけ微笑んでから、再び前を向いてしまった。しかし、何で僕に答えを教えてくれたのだろうか。気まぐれか、からかいか、或いは僕が好きなのか。なんて事はさすがに中学生じゃあるまいし、思わないけれど、とにかくなんだか僕は、その島本さんの一瞬の微笑に、やられてしまった。僕に一瞬だけ見せた微笑において。完全に、否応なく。全てを許してくれるような彼女の笑顔を受けて、僕は島本さんに、恋をしてしまったようのである。これは全く理屈じゃなしに。大学のシステムやなんかとは関係なしに。恋は突然に始まってしまった。これは、本当に、馬鹿みたいだ。陳腐だ、恋なんてくだらない、と馬鹿にしてきた僕が、全てを皮肉って屁理屈で片付けてきた僕が、なんだか馬鹿みたいに、何でもないような理由で、恋に落ちてしまったらしい。事実は小説より陳腐なり。
帰りのホームルームが終わる。掃除当番の人たちが机と椅子を後ろに下げ始める。先生はとても良い姿勢で廊下を歩いていく。僕は特に予定もなく、家に帰ろうとしている。ただ一つだけ問題なのは、僕らの町に大きな渦が出来てしまっている事だ。相変わらず雨は降り続いている。雨脚は強まり、風は勢いを増し、台風は僕らの町に予定通りにやって来ている。そして僕は傘を持ってきていない。ああ、惨めだ。こんなことなら傘を持ってくれば良かっただなんて、そんな愚にも付かないような後悔をしたところで、これが僕と言う人間なのだから、どの道傘なんか持ってきやしなかっただろう。学校の玄関口に置いてある傘立ての置き傘を盗むって手もあるけれど、そもそも他人の持ち傘と置き傘なんて区別もつかないし、だいたい盗みなんか僕はしたくない。これは僕の責任であり、それで他人の傘なんて盗んだら、僕はただの屑じゃないか。僕は間抜けだれど屑ではない。これはとても大事な線引きだ。というわけで、僕はどうしようもなく、傘を差さずにこのほとんど嵐と言ってもいいぐらいの大雨の中を、駆け抜けて行くしかないわけだ。みんなに後ろ指を差されようとも、それが僕のキャラクターであることを自覚しつつも、僕はこのひどい雨の中を駆けていかなければいけない。
下駄箱で、上履きと靴を交換している時に空に稲光が走り、そして数秒後に辺りに轟音が響き渡った。辺りに居た女子たちは悲鳴を上げ、男子たちはこのちょっと非日常ともいうべきか、いつもとは違う雰囲気にはしゃいでいる。僕はと言えば、豪雨に強風、おまけに雷ときて、非常にうんざりした気分に陥った。もう傘を盗もうかな、とちょっと思ってしまったぐらいだ。
靴を履いて、玄関口の庇の下に立ってみる。そしてじっと雨を見つめる。ああ、僕の人生はいつもこうだ。ひどい雨になる事が分かっているのに傘を持って来ない。怒られることが分かっているのに、宿題をやってこない。雰囲気が悪くなることが分かってるのに、理屈ばかりを捲し立てる。まるで本当に、ひどい雨の中を傘も差さずに走る抜けるみたいな人生だ。土砂降りの雨に濡れて、寒さに震えながら、笑われるような人生だまあ、そんなポエティックな言葉を頭に浮かべてみたところでどうしようもないし、問題が何一つ解決するわけじゃないので、僕はいよいよ、意を決して雨の中に踏み出すことにした。
「あれ佐伯君。傘ないの?」
その瞬間に、僕の後ろから、まるでタイミングを計っていたような感じで(いや、まさかそんなことは無いだろうけれども)、少しハスキーな特徴のある女の子の声が聞こえてきた。
「ああ、傘、忘れたんだね。いや、佐伯君らしいけどさ、さすがにこんな日ぐらいは、気を付けないと。ずぶぬれになって風邪ひいちゃうよ。心ない人からだって笑われちゃうし」
僕が振り向くと、何故か島本さんの顔が近くにあって、僕は慌てて後ずさった。結果、短い階段を踏み外して、ぬかるんだグラウンドに背中から突っ込む形になった。周りにいたやつらは僕の姿を見てくすくす笑い、知り合いなんかは「また佐伯かぁー」とあきれるように笑い、そして僕に手を差し伸べていた島本さんは、とてもおかしそうに、思わずこらえきれないと言うように僕を見て笑いを吹き出していた。
「佐伯君、面白いなあ。今のこけ方漫画みたいだったよ? ああ、ごめんごめん、私の所為なのに」
そう言って、島本さんは僕に改めて手を伸ばして、僕はその手を取って立ち上がった。そして僕はまた例の、言い訳やら屁理屈を並べ立てることに専念した。
「ありがとう。いや、もちろん島本さんの所為ではないんだけれどね、でもあんな場所で声をかけられて、それで振り向いてあんな近くに顔があったなら、誰だって驚くだろう。そう、僕が転んだのは不可抗力なんだ。仕方がない。いや、屁理屈なのはわかっているけれど、これはどうしようもなかったんだ。ただ、雨が降って階段が滑りやすくなっていて、グラウンドもぬかるんでいて、絶妙なタイミングで声をかけられたと言う、僕の不運でしかないんだ」
僕がそう言うと、島本さんはまたおかしそうに一つ吹き出した。
「あー、また屁理屈言ってる! 私、佐伯くんのその屁理屈って、なんだか好きなんだよねー。妙におかしいのに、本人が真剣だし。なんか悪い人じゃないんだなーって思うし」
佐伯さんは、立ちあがった僕の制服の、泥のついた部分を、まるでお母さんがやるみたいにしてパンパンとはたいてくれながら、慰めるようにそう言ってくれた。
僕はなんだか恥ずかしいと思った。いや、いつもみたいな惨めな恥ずかしさではなくて、女の子にこういう事をしてもらってるのを、みんなに見られている恥ずかしさと言うか、なんかクラスメイトにからかわれるんじゃないかとか、そんな純情な少年みたいな恥ずかしさでいっぱいだった。
「ねえ、傘忘れたんでしょ? だったら私の傘、貸してあげるよ」
「え、いや、それは悪いよ。と言うか、そうしたら島本さんの傘がなくなるんじゃないか?」
「ううん、私は自転車通学だから、レインコート着て帰るし。一応さ、いつも鞄に予備の折り畳み傘を入れているんだけど、全然使うこともないんだよねえ。だから今日はそれを使って帰っていいよ。あ、と言うかさ、佐伯君っていつも傘忘れそうだからさ、その傘あげるよ。それでいつも鞄に入れっぱにしておけば、もう傘忘れないじゃん。やばい、これっていいアイデア! ということで、じゃあ、それあげるね」
そう言って、島本さんは鞄から折り畳み傘を取り出して、僕の胸元に押し付けるようにして渡してきた。水玉模様が可愛らしい、いかにも女の子の好みそうなデザインの傘だった。収納袋にはフリルも付いているし、有難いけれどこんなの僕が持っていたら、それこそ心ない人たちにからかわれそうな気もする。でも、島本さんから物をもらったと言うだけで、僕は今、人生の最高潮の幸せを感じていて、有頂天になっていると言うのも事実なのだ。なんだかこんなに突然に偶然みたいにして、女の子からプレゼントを、好きになった子からプレゼントをもらってもいいものかと、なんだか不思議な気持ちになった。しかし自分の幸運を疑うと言うか、自分の人生にこんな幸運が訪れるはずがないと信じていると言うか、この幸運の分の、それを取り返すような不幸せがこの後に起こるんじゃないかみたいに、僕なんかはすぐに思ってしまうのだから、案外、不幸が板についているのかもしれない。
「ありがとう。なんか本当にありがとう。でも、何で僕なんかに傘を? 理由がないと思うんだけれど」
「あー、すごい佐伯君。そう言うのをドストレートに聞けちゃうの凄い。そりゃあさ、うん、何であげたのかと言うと、何か見ていて気になるからだよ。佐伯君のこと。放っておけないと言うかさ。私、なんか駄目な人が気になると言うか。いや、どうだろう。恋愛感情と言うのでもないかもしれないし、佐伯君を変に舞い上がらせて傷つけたくはないからさ、はっきり言葉にできないけれど、でも佐伯くんって、私が昔好きだった人に似てる」
なんだかんだ言ったって、島本さんだってあけっぴろげなく自分の思った感情や気持ちを言ってるように僕には聞こえるけれど、でも、なんか、これは僕の今までの人生ではなかった、不思議な状況に置かれているような気がする。えっ、この後どうすればいいのだろう。アドレスでも聞けばいいのだろうか。一緒に帰ればいいんだろうか。僕はこういう時の対応なんて全く分からないんだ。と言うか、え、島本さんは、僕の事、好き? いや、そうと決まったわけではないし、ここで舞い上がったらだめだ。まだ罰ゲームの可能性だってある。罰ゲームで島本さんが、僕に接して来ている可能性もある。我ながらこんな発想をしてしまうのはかわいそうで仕方がないが、それだけ僕の人生はパッとしないものだったし、こんな僕に惚れるような子がいるだなんて、あるわけがないんだ。いや、惚れられているのか? ああ、何なんだ本当に、この状況は。だいたい怪しいじゃないか。いきなり僕の事が好きかも知れない子が現れるだなんて。おかしいじゃないか。神様。なんだ。どうした。神様は、僕を徹底的に不幸にしたいんじゃなかったのか。それとも僕のこれまでの不幸を唐突に埋め合わせようとしているのか? 帳尻合わせしようとしているのか? それとも島本さんと接することで、これ以上に僕は不幸になるのか?
「あっ、またなんか考え込んでる。いいねー。佐伯君って見てるだけで面白いなー」
僕はそう言われて、ちょっと顔が赤くなるのを感じた。
「そうだ。佐伯君。一緒に帰ろうよ。佐伯君は電車通学だったよね。駅まで一緒に歩かない? 私自転車押していくから」
何なんだ島本さん。ぐいぐい来るな。こんな積極的な性格だなんて知らなかったよ。大人しい子が集まった女子グループにいたから、もっと控えめな性格の子だと思っていたのに。時々、友達と笑いながら、僕の方を見て噂話しているから僕の事をからかっているのかと思ったのに、いや、これも現在進行中でからかっているのか? なんだ、どうなんだ? なんだか島本さんの事が、分からない。島本さんが分からない。なんなんだ島本さん。あなたは僕の予想を超える、予想外の生命体みたいだ。
「それじゃあ行くよ! ほら」
そう言って島本さんに手を引っ張られながら、僕は駐輪場へと向かう。後ろから、島本さんと仲のいい友達二人組が、高い声で「バイバーイ、頑張れ!」って言ってるのが聞こえた。え、何を? ああ、僕をからかうのを頑張れって? 僕の面白い場面を引きだして、そのネタを明日話すために今日は頑張れって事? そうだな。あの二人はやけにニヤニヤと僕たちの事を見ているし、そうだきっとそういう事なんだろう。ああ、僕の恋は終わった。
「もう、あの馬鹿たち……」
当の島本さんは、頬を少しだけ赤くしながら、恥ずかしそうにずんずんと歩みを進め、僕の手を無理やり引っ張っていた。正直かなり痛い。島本さん力強すぎ。握力強すぎ。
「島本さんって、力強いね」
僕がそう言ったら、なんだかちょっとだけ睨まれて、思いっきり肩をぶっ叩かれた。
「もうっ、そう言うのって、あまり女の子に行っていい言葉じゃないでしょ!」
何なんだ島本さん。さっきはご機嫌そうだったのに、なんでいきなり怒りだしたんだ。まったく島本さんが分からない。ああ、まあそりゃあ、好きでもないやつから痛いだのと文句を言われれば怒るか。うん、僕の配慮が足りなかった。
「と言うかさ、佐伯君。折り畳み傘さしなよ? すっごい濡れてるし、それに私たちさ、佐伯君が傘差さないから、すごい目立ってる……」
「あっ」
そう言われてみて、僕は唐突に自分が傘を差し忘れていることに気が付いた。が、よくよく考えてみれば――
「島本さんも、レインコート……着てないんじゃ」
「あっ」
島本さんはポカンとしたように、自分の服装を眺め、空から落ちる本降りの雨を眺め、濡れているお互いの姿を見て、それから笑い出した。
「あ、あはは……いや、あー……うん。なんか、私たち、ちょっと馬鹿っぽいね。うん、なんか、あはは、面白くなってきちゃった」
そう言って島本さんは、急にまた吹き出した。それからまた僕の手を握って、振り回し始めた。
「なんだか、私たちは案外お似合いかもしれないね」
「そうなのかなー。僕は島本さんが全然わからないよ。でも、島本さんが楽しそうで良かった。あ、あとちょっとしたことでも楽しそうに笑う人だってことは、分かった。あと、喜怒哀楽が激しそう」
「あー、そうかもね。うん、そうやってお互いの事を知っていくのがいいかもね。これから。ねえ佐伯君。良かったら後で、佐伯君のアドレス教えてよ」
「う、うん。あの、僕でよかったら全然いいんだけど。え、もしかして島本さんって僕のこと好き?」
「うわぁ、すっごい! 佐伯君てビックリするぐらい思ったこと口にするんだね! うんうん、また一つ佐伯君の特徴が分かったよ」
島本さんは誤魔化すようにそう言って、濡れた前髪を手櫛で整えた。
駐輪場に着いた僕らはずぶ濡れで、島本さんのショートカットの髪も、黒色のブレザーも、プリーツスカートも、ごまかしようがないくらいに濡れていた。
「もう少しだけ、秘密」
「え?」
唐突に島本さんはそう言って、僕は思わず顔を上げた。
「佐伯君が好きかどうかって言うのは、もう少し秘密。仲良くなったら教えてあげる」
島本さんは下を向いてはにかむような笑顔で、僕を見た。それからすぐに、鞄からレインコートを取り出して身に着ける。うむ、女の子ってわけ分からないな。なんか独特の考え方があるな。
「そうか。まあ、とりあえず折り畳み傘。ありがとう」
「ううん。いいの。気にしないで」
それから僕らは、ひどい天候の中を、ゆっくりと並んで歩いて行った。島本さんのことは何もわからない。僕をどう思っているのか。僕とどう接したいのか。そして彼女の性格、好きな物、嫌いな物、血液型、正座、誕生日、好きな教科、好きな食べ物、お気に入りのサイト、本は読むのか、兄弟はいるのか、音楽は好きなのか、秋の風の匂いは好きなのか、花火をとても楽しそうな笑顔で振りまわすのか、楽しくなると踊り出したくなる気分になるのか。島本さんのことは何一つわからない。それでも、なんだか、島本さんは、僕にとって、このどうしようもなく続いていくシステムの中の、太陽のような存在になる気がした。高校、大学、会社と続いていくくだらないシステムの中の、太陽のような存在。
初恋はまるで拙いディスカッションの様に、お互いの存在、そして愛を主張し合う。もともとが全く別の考え方生き方をしている者同士が出逢い、惹かれあって恋人となる。たくさんのディスカッションを重ねて、お互いの考え方や想いを伝えあって、重ねていき、僕らは人間関係を深めていく。僕らの淡い恋心も、願わくばディスカッションを重ねて、より熟成されたものになっていければいいと、僕は思うのだった。
このひどい雨の降る道を二人で歩きながらね。
SS速報で【折り畳みかさ】というお題を貰って書いた小説で御座います。
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