前編 慟哭
魔力生物の狂った姿を、見たことはあるか。昏く燃え上がる絶望に身を焼き、嘆きは誰に届くこともなく、ただ空に慟哭するしかない、そんな涙を目にしたことはあるか。
水すら喉を灼き、涙は目を溶かし、皮膚は崩れ、肉は腐る……それほどの狂気に身を焦がされたことはあるか。
誰に問いかけるでもなく零れた言葉に、目の前の歳若い冒険者は首を振る。
二〇代の半ばだろう、精悍な顔立ちに緊張からか引き結ばれた薄い唇、穏やかな眦にも関わらず宿る力は強い。それは全てを薙ぎ払う力の強さでも無ければ、山のように動かぬ心の強さでも無い。人はその強さを、優しさと形容するのだろう。穏やかな眼差しの若者だった。
冒険者の隣へと座す、黒く美しい髪を持つ人魚は一体何を考えているのか。ただ言葉も無く、視線を畳へと向けていた。湿気に撓み毛羽立った畳は、もう替える者も無いためにそのままになっている。
それが、少しばかり恥ずかしくもなった。
黒髪に、青色の瞳。色素の薄い唇は僅かに開かれている。その右手は、自身の能力である歌をすぐに使えるよう首元へ掛けられている。すぐに力を振るえるよう、主を害されぬようにとのことだろう。
信頼しあっているようにも見える二人の姿に、そっと瞼を閉ざした。
きっと、俺だけだ。
もうここには存在しない主の変貌を最初から最後まで見つめ続けてきたのは、この屋敷に呼び出された魔力生物の中で唯一、俺だけだろう。
血と腐肉の臭気が取れなくなったフードを目深に被り直す。静かに前へと座す二人へと視線を向け、立ち上がる。
「何があったのか、話そう。執務室へ」
言葉を投げれば、冒険者は目礼にて感謝を示し、人魚は無言のままに立ち上がる。
辿り着いた執務室の前でゆっくりと深呼吸をする。
柱へ刻み付けられた深い傷、襖や壁に飛び散ったどす黒く変色した血痕は拭っても、もう取れなくなっていた。
まだ年若い魔力生物たちが映画に影響されこぞって身長を測った柱も、ここだった。執務室の襖の近くにある柱。
魔力生物たちの身長の高さに刻み込まれたナイフでの傷へ指を這わせれば一等元気だった初相棒の姿を思い出す。
一度目を閉じ、再度開いてからやや引っ掛かりを覚える襖を滑らせると、最後に見た時から一つも変わらない、無人の執務室が現れる。
その様子に郷愁に駆られ下唇を噛み、中へと足を進めた。二人のための座布団を敷き、主の執務机を背に座る。
二人が俺の前へ座したことを確認すると、どこから話すかと記憶をそっと掬い上げる。
──この屋敷は、成績優良パーティと呼ばれていた。新たなダンジョンへの綻びが見つかれば、いの一番にその綻びの調査へ赴くよう伝令を与えられるような、優秀な頭に統率されていた。
だからこそだろうな。一度綻びができると、あとは坂道の一番上から落としたオレンジのように一気に転がっていった。……いや、転がっていくしか無かった。誰も止める者も、止められる者もいなかったからだ。
初期の頃からいた俺に、初相棒の……シルフのフエラ。俺と主とシルフは三人で必死に生きていた。
屋敷が与えられてから新しい魔力生物が顕現されるまでの間、ただただ死にものぐるいで戦へ参加していた。
アンタは、昔の戦争を知っているか? そうか、いや、知らずとも仕方がない。古く、戦争は誇りを守るために行われていた。それが、歴史が進むにつれ、誇りのための戦争というものは存在しなくなっていった。
金に、兵器に……人間はいつだって何かを手に入れるために戦っていた。それが、目に見えぬ誇りから目に見える戦果となったのは仕方の無いことだろうな。
この戦も同じだ。
正しい世界なんて空を掴むようなもののために戦っている。
正しい人生、正しい選択、正しい世界。
……アンタはおかしいと思わないか? どこか違和感があるだろう。正解の無いものを無理矢理型にはめて答えにするかのような。なんたって、連綿と続いてきた世界を知っているのは俺(魔力生物)たちだけだ。
だからだろうな。
だから、知ってしまったんだろう。
この世界は既に誕生したダンジョンによって幾度も修正され、改変されている。世界はその改変された世界を“正世界”として扱っていることがある。
いや、既にそうするしかないように変化させられてしまっていたところもあるからだろう。
シルフは風と共に存在し、鬼は世界と共に生きている。……その全てを知っている人間はギルドの捜査官と言えども存在しない。
ただ確認した時には改変されていた世界を正史とするしか無い。もちろん生まれたダンジョンの中にはその[[rb:正史 > ・・]]とされてしまったものを憎み変化させようとする者も現れる。
その、間違った正史をまた別の世界へと変えようとしているのが、俺たちの戦っているダンジョンのものたちだ。
地上階から上へ上へ、天へと進むことで世界の変異を取り戻そうとする、それがこの戦だ。
それについて腹に据えかねた魔力生物がいた。
この本丸の初相棒、シルフのフエラだ。フエラと鬼のフォンユの知る正史ではシルフは魂を持つ風の精霊で、鬼も柔らかな心を持ち人と共存していた。
しかし、鬼は母子の命を奪い、敬愛する主の腹を裂いた。その記憶がフォンユにはあるにも関わらず、どうしてか変わっているその世界を世界は正史だと言う。
それが我慢ならなかったんだろうな。変わった世界に風の精霊は魂は持たず、けれどその記憶の中には魂を持つ自分がいる。その歪みは積もり積もって穢れとなってフエラを内から破壊した。
なあ、アンタ。ダンジョンというのは、魔物とは、何だと思う。
……分からないか。まあ、そうだろうな。
あれは……元は俺たち魔力生物と根を同一とするものだ。
歪んだ世界に気が付いて、怨嗟と恨みと歪みに身を滅ぼされ穢れた魔力生物はダンジョンそのものや世界に住まう魔物となる。
世界の歪みに気が付かず、なんらかの恨みによって身を穢し怨嗟に身を堕とした者はその場で魔力生物としての存在意義を失い破壊される。
昔、マティルダ・パジという冒険者が死去したことも、それと同じだ。
……何を怒っているんだ。ああ、アンタの師だったのか。それは、……すまないことを言ったな。
ひとまず、以上は理解できただろうか。……ありがたい。
……このパーティの初相棒は、シルフのフエラだった。フエラが世界を知り、歪み、怨嗟に身を堕とし……それを一番に知ったのは、フォンユだった。
だが、フォンユは何をするでもなく、フエラのしたいようにさせ、フエラのために動き始めた。……それが、フォンユができる唯一の償いだったんだろう。
フォンユはフエラのことを、自身のことを知りながら、決して口にはしなかったからな。そうして徐々にフエラを蝕む世界を憎悪する穢れは他の者へと伝播していった。
俺たちがダンジョンへ赴くのは、それが世界の記憶の中だからだ。集められた記憶。
探索をすることで変わるのは、その記憶でしかない。世界の認識を書き換えるために俺達は探索をしている。
その世界認識へ、このパーティは食指を伸ばしていった。
この屋敷の様子を見ただろう。空気は穢れ、息をするだけで肺腑は爛れる。
日は照らず、植物は溶け、地を這い、池には油膜が張り、水面に浮かんだ魚の腹には蛆が湧いている。たった一人の魔力生物の世界認識からこうなるんだ。ギルドの人間が秘匿し、俺を処分したがった理由も分かるだろう。
幸い、このパーティの魔力生物はまともだった俺を残して全員が死んでいる。あとは俺が死ねば、他の誰にもこのことを知られずに葬ることができる。それを狙ってのことだろうな。
……俺の知っていることは以上だ。何か、質問はあるか?
長くかかった語りを終えて、膝先へ落としていた視線を上げたところでギョッとする。冒険者がその眦からぼたぼたと涙を零して必死にそれを拭っていたのだ。それは驚く。
「な、なん、なに……」
「あなたは、どうするの。そんな、そうなって、あなたの大切だった冒険者も魔力生物も、みんな死んで、それで、そうなって、良いの」
問われた言葉に、頭にカッと血が上る。
「良いわけが無いだろう! 俺は、だって、でも」
まとまらない言葉ばかりが口から飛び出す。
どうしようも無くて、悲しくて、泣きながらも俺をしっかりと見つめるその強いまなざしに、同じようにぼろりと涙が零れた。だって、それは仕方がない。どうして仕方がないんだ。
魔力生物にも関わらず、人間の知る世界では無いものへ変えようとしたから、それが何故悪いんだ。
どうして、悪いんだ?
考えればおかしいことだった。何故俺たちがその犠牲にならなければならないのか。人間に使われる存在だからか。俺たちの知る世界へ戻して何がおかしいんだ。何故それが悪いと言われなければならないんだ。何故、善悪を判断されなければならない。
「それが、最善だと人が決めたからだろ」
人魚の声が、ふいに聞こえた。
「それでなくてはならないと決められたからだ。それでなくては、世界はその道筋を辿らないからだ。
何か一つが変われば、アンタの兄弟が生まれない未来になるかもしれない。何か一つが違えば、アタシはここで契約もしてなかったかもしれない、誰にも見られることなく朽ちていったかもしれない。
何か一つが噛み合わなきゃ、ギルドにいるハイエルフはまだ森の中で苦しめられて朽ちていたかもしれない。その、たらればが全て排除された世界が、いまのこの世界の記憶だ。
だから、仕方無いだろ。アタシは……パーティを知ってしまった。コロポックルたちの快活な笑い声を、世話好きなエルフたちも、精霊の穏やかな感情も、悪魔の深い愛情も、天使の静かに風情を慮る姿も、何より、冒険者のことを知ってしまった」
愛しいと血を吐くように言うその様子に喉が鳴る。
「お前も、俺たちが悪だと言うのか」
「アンタが悪なら、この世界に善人は一人だっていないさ」
寂しそうに笑う様子に、ふと、彼女も何か心に閉じ込めたものがあるのかもしれないと考える。
「……お前たちの決定に従おう」
俺の答えに、冒険者は安堵したように表情を緩ませる。この女は、多分優しいのだろう。
「向いていないな」
「うん、私もそう思ってるよ」
眉を下げて笑う女について歩く。
ふと後ろを振り返れば、日の差した屋敷の、なんと美しいことか。壁の傷も血痕も、全てが愛しかった。俺の友が戦った証だった。
「……行ってくる」
出かけるときに必ず言っていた言葉を漏らせば、どこかから「気を付けてね」と笑う主の声が聞こえた気がした。溢れる涙を拭い、俺は思い出が残る屋敷を後にする。
世界を、記憶を変えようとしたフエラが、それを叶えようとしたフォンユを、同調してしまった俺の兄弟分を、その相棒のような存在を、人魚を、淫魔を、天使を、悪魔を、精霊を、ウンディーネを、この屋敷の魔力生物たちを、彼らが大切だったからそれを止めようとした魔力生物たちを、誰が咎められるだろうか。
屋敷は次第にボロボロになっていった。みなで笑いあった大広間が、駆けまわった庭が、餌をやっていた鯉のいる池が、それぞれの思い出が残る部屋が、刀傷に覆われ、血痕に汚され、きっと俺の目も曇っていた。
それでも、それらを振り払って俺は生きるしかない。
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ボクのギモンは、きっと、どうして、ヒトはヒトをころしてはいけないの? どうして、ソラはアオいの? どうしてチキュウはマルいのに、チヘイセンはまっすぐなの? という、それだけのギモンに、とってもヨくニていました。
「ねえ、フォンユ。セカイのレキシをカえては、ナゼいけないの」
「……かなしいことはあっても、その次に我らがいるからだよ」
「ワからないいよ」
「そうだな……」
マイヨ、ネるマギワにボクはフォンユにトいかけました。
ナゼいけないの。ヒトは、レキシをかえたいとネガうのに。ボクたちは、ナゼいけないの。
フォンユ、ボクは、ボクたちがいなくなってもいいから、タマシイのあるセイレイに、モドりたいよ。
そうしてヤサしいフォンユは、とうとうボクにそれをユルしてくれた。
あるじも、ボクをぎゅうっとダきしめてくれました。そして、「フエラがのぞむなら」とイってくれました。
そうしてセカイをカえたいボクたちと、それはいけないとわかっているマリョクセイブツたちの、アラソいとなってしまいました。
ケッキョク、ボクもフォンユもうたれてしまって、ボクをうったテンシが、ナンドもアヤマって、ボクをダきしめてくれました。
カノジョのウデの、なんとホソいこと。ボクはこのウデに、どれだけのものを、セオわせてしまったんだろう。




