後編 錆色の心
食事すらもできなくなり、毎日の風呂にも入れず、湯を含ませ搾ったタオルで体を拭かれるとそれだけで心地良さそうな吐息を漏らすその姿に、もうすぐなのかとソキウスは静かにキトーを見つめた。
キトーに宛てがわれた一人用の部屋の中。
それでも、そんなソキウスの感情にすら気付いているのか、キトーはまたあの微笑みでソキウスとドクトゥスを見る。
あの屋敷へ行った時から毎日見る、ガラス玉のような瞳に、口元だけが穏やかに弧を描いた、保健所のガス室へ入れられ、ただ死を待つだけの犬と同じ瞳。
「なにか、したいことはあるか?」
もう体中を錆が覆うまで幾許も無い頃だった。ソキウスが問うた言葉に、キトーはゆっくりと息を吐き出す。そうして、ソキウスを見つめた。
その、乾燥してひび割れた唇が小さく動く。
もう吐息のようにしか発することのできなくなってしまった言葉を聞くためにソキウスは耳を傾け、一言一句聞き漏らさないよう、神経を尖らせた。
「ごしゅじん、に……あいたい……」
絞り出すような言葉だった。
どうしようもない、叶わないと分かっている、キトー自身も叶うことのない願いだと分かっているだろうその言葉に、ソキウスは思わず目を見開き、そして涙を抑えることができなかった。目の奥がぐうっと熱くなり、心臓が早鐘を打ち、塩辛い涙が畳にボタボタと落ちる。
ソキウスは、そんな風に涙を流すことなんて初めてだった。
その時、ソキウスの背中に誰かの手が触れる。振り返ると、そこには常通りの表情をしたドクトゥスが立っていた。
なにをと、言おうとしたソキウスの唇へドクトゥスの指が触れた。
その指が、キトーのほうへと滑らかに動く。
それをソキウスが視線で追うと、キトーはゆっくりと最後の呼吸を終え、その美しかったはずの体のまま、何も無い虚空をただ幸せそうに見つめていた。
それは、キトーがギルドへ来てから、初めて浮かべた本当の笑顔だったのだろう。
「キトーは、こんなに綺麗に笑えたんだな……」
ソキウスがキトーの瞼を閉ざしてやろうと、その体へ触れた瞬間、体にゆっくりと亀裂が入り、静かに無数の破片へと変わってしまった。
思わず、「ああ」と嘆きが漏れる。
「ソキウス」
静かに掛けられた言葉にも、どうしても反応ができなかった。
ただ、ソキウスの救えなかった体の破片を、静かに広い集める。
錆びた体も欠片になり、形は既に無く、集めた端から粒子となって空気へと溶けていく。錆びた欠片はソキウスの掌を傷付けて空気の中へと溶けていく。
それがあまりにも悲しかった。こんなに悲しいことがあって良いものかと、ソキウスは言葉を失う。
キトーが、何をしたというのだろうか。
──俺の腕は二本しか無くて、俺はただの人間で、魔力生物で、スーパーマンのような力も無い。俺自身に何か特別な力があるわけでも無く、手の届く範囲のものを救えるだけの力も無い。ただ、看取ることがほとんどだ。
どうして俺なんだと慟哭する。
俺でなくても良いだろう。どうして俺なんだ。
嘆く俺の背中をドクトゥスが撫でる。錆びた体をかき集めたせいで傷だらけの掌へとガーゼを当て、不器用にそれを巻き付けてくれた。
「人には、役割があるんだ。
お前は、きっと見送ることが役割なんだろう。人や物が生まれれば、その生を全うして死んでいく。それを救う者がいれば、代わりに見送る者がいる。そういうものなんだろう」
穏やかな声音に、けれど塩辛い涙は止まってくれなかった。
そうだ、キトーはドクトゥスのように穏やかだった。ずっとその目の前にある死を見つめ、穏やかに微笑み、一度として激昂することは無かった。
「ドクトゥス、君は……」
言葉を紡ぐ唇へと、ドクトゥスの指が当てられる。
「もう随分と寒くなったな、明日の仕事はもっとしんどくなりそうだ」
ドクトゥスが立ち上がり部屋を出て行く。キトーが命を散らしたことを伝えに行くのだろうと、ソキウスは考える。ドクトゥスに続いて扉を出ると、そこにはフェネック獣人のイグニスが立っていた。
「いったのか」
「ああ、俺とソキウスが見送ったよ」
「そうか、最後が一人で無かったのなら、それは良いことだろうな」
屋敷の外には、あの日のようにさらさらと降り始めていた雨粒が、その姿を雪へと変えていた。
もう少しすれば雪が全てを覆い隠して、この屋敷内を歩き仕事をする魔力生物たちの足音も消えるのだろう。
この悲しみも、いつか雪が覆い隠すように癒える日が来るのかもしれない。
───────
わたしは国家公務員試験を取得して社会人への道を歩み出したばかりの新卒の社会人だった。内定も決まっていたし、新居ももう借りていた。それが、唐突に遮られて冒険者としての道を歩まされることになってしまった。
就くつもりの無かった職業、右も左も分からなくて、見知らぬ、人間ですらない魔力生物達と二四時間、三六五日を共に過ごす。そんな職業へ就くことになって、わたしは段々と焦燥に駆られるようになっていった。
自分の屋敷を持って、必死に、ただ必死に生きていた。
寄ってくる人間でないものが恐ろしくて、帰りたいと泣けばダンジョン探索に覚悟が無いものが首を突っ込むなと怒鳴られて、きちんと服を着て化粧をしていなければ身嗜みもまともに整えられないのかと罵られた。
わたしは好きでこんな場所に来たんじゃないと、声を上げたかった。こんなところ、来たくなかった。
わたしはわたしのためだけの人生を歩みたかった。わたしを、帰してほしかった……。
大人数の食事も洗濯もわたしが用意をして、ああ……駄目だと、思ってしまった。
脳のスイッチがふいに切り替わった感覚がして、わたしはわたしの服装へと文句を言い始めた魔力生物の股間を蹴り上げて、顔を殴って、馬乗りになって首を絞めた。
その見開かれた目に写るわたしの顔はただただ無表情で、自分で自分が恐ろしくて仕方がなくなった。
次に、わたしは何かをわたしに対して言う者の目の前で新しい魔力生物を呼び出して目の前で殺して見せた。呼び出されたままに無理矢理解放することは、とてつもない苦痛を得るらしい。
女の力で魔力生物を殺すことは難しいから、契約用のヒトガタを破壊することで殺した。目の前で失われる姿に、魔力生物は恐ろしくて仕方が無いという顔をした。
次には、彼ら自身に魔力生物を殺し合わせるようになった。
ようやくその頃になると彼らはわたしに何も言わなくなった。けれどやっぱりわたしは帰りたかったし、こんなところにはいたくなかった。
魔力生物が早くみんな死んでしまったら良いと思って、重い怪我を負っても探索させ続けた。新しく契約をすることもなく、いまにも死にそうなほどに重い怪我の魔力生物は更に探索へ行かせる。
そうして、ギルドからの魔力生物契約指示でその夢魔と契約したのは、何かの気の迷いだったんだと思う。
濡れ羽色の髪に柔らかな灰色の瞳を眼鏡のレンズに隠している青年だった。柔らかな微笑みでわたしを見ると、座り込むわたしを彼は抱き締めてくれた。
久しぶりの人肌の温もりに、わたしはただその背中へとしがみつくことしかできなかった。
そうして、ぽつりぽつりと今日までの二年間を話し続けた。彼は決して急かすことなく頷き、相槌を打って、話し終わったわたしをもう一度抱き締めて「つらかったね」と言ってくれた。
そうすると、もう駄目だった。堰を切ったように涙が溢れた。鼻の奥がツンとして、目の奥が熱くなって、喉が涸れるまで泣いた。
わたし、ただ、認められたかっただけなの。
なにもいらなかった。ただ、頑張ったねって言って、つらかったんだって共感されて、そうして、そう、抱き締められて、それだけで良かったの。
その日からわたしはようやく微笑むことができるようになって、穏やかに過ごせるようになった。
もう魔力生物を殺すこともなかったし、……初めて魔力生物図鑑を開いて魔力生物の名前を覚えはじめた。
こんなにたくさんの魔力生物がいるだなんて、わたし知らなかった。
キトちゃんと呼ぶと、「どうしたんだいご主人」と返してくれる。
わたしの服装を見ても、化粧をしていない寝起きの顔を見ても何も言わなかった。
幸せだなって思った。
幸せだなぁって、思ってしまった。
だからきっと罰が当たったんだ。
魔力生物を不幸にしたのにわたしが幸せになってしまったから。
きっと、罰が当たった。仕方ないとか、わたしだって救いが欲しかったとか、そんなことを言ってもきっと仕方の無いことなんだと思う。
雨季に入って、しとしとと静かに雨が降る日だった。
紫陽花も綺麗に咲いていて、それが開かれた窓から良く見えた。キトちゃんには青い紫陽花が似合うよと言ったら、嬉しそうに笑ってくれた。
それが、とても、とても嬉しかった。
きっとキトちゃんはどこのパーティで契約されてもこんな風に笑って冒険者のために行動してくれるんだろうけど、それでもわたしはキトちゃんに助けられたから。
だから笑ってくれると嬉しいなぁって、そう思ってたの。
突然開かれた襖。
刀を構えたアンゲルスさん。
ああ、そうかぁってわたしはその瞬間に、きっと決心したんだと思う。
この、幸せな気持ちを抱いて死んでいこう。
地獄へ落ちても幸せでいられるくらいの嬉しいを貰ったから。
空気を切る音に、そっと目を閉じる。金属が激しくぶつかる音。痛みが来なくて、思わず目を開くと、わたしの目の前にはキトちゃんの背中。どうしては、言えなかった。
わたしを助けてくれたことが、ただ嬉しかった。
一瞬よぎった、死にたくない。を聞き届けてくれたみたいで、それだけでまた幸せになれた。
そうだ、キトちゃんはいつでも微笑んでわたしの欲しいものをくれた。
欲しい言葉をくれて、してほしいことをしてくれて、わたし、本当に幸せだった。
だから、もう良いんだ。
栗色の髪をした小さな魔力生物が横薙ぎにふるうナイフへ微笑んだ。
ああ、あなたと、初めて目が合ったね。
わたし、いままで怖がって下ばかり見ていたから。あなたの瞳は、そんなに美しかったんだ。……勿体なかったなぁ。
わたしと目が合うと、驚いたように彼女は目を見開いて、けれど振り抜く腕は止められなかったみたい。
彼女の後ろから必死な形相でこちらに手を伸ばすキトちゃんが見える。
ねえ、キトちゃん。あなたは人間のようにわたしを慰めてくれていたけど、中身は誰よりも魔力生物だったから、きっと分かってはくれないと思うの。
けれど、ねえ、キトちゃん。わたしはきっと、あなたのことを愛していたの。
あなたを、愛していた。
冷たい刃がわたしの喉にぬるりと差し入れられて、横に薙がれる。
開かれた喉からまるで空気の抜けた風船のような音を立てながら吐息をゆっくりと漏らして……わたしの体が後ろへと倒れていく。
天井が、……キトちゃんが開いた障子が……雨に濡れた外が……。
「ご主人!!!」
キトちゃんの切羽詰まった声。
あなた、そんな声も出せたのね。知らなかった。勿体無いなぁ。勿体無い。
あなたはいま、どんな表情をしているの?
もったいない……もっといきたかった……。
──わたし、知っていたの。キトちゃんが、契約を終えていないこと。いつだってさよならできたのに、傍にいてくれたこと。……ずっと、知っていたの。
そうして最後の二酸化炭素を吐き出して、わたしの体は生きることを諦めた。




