後編 内なる法と外なる法
ギルド役員が事切れた男性冒険者のことを調べたところ、その冒険者は今月末にギルド直属の病院で余生を過ごすことになっていたらしい。
それを聞いた時に、俺はようやく鬼の言った「死ぬのが惜しかったからだ」という言葉の理由を知った。
鬼は決して狂ってはいなかったのだ。
ただ鬼なりに、冒険者を守りたかったんだろう。本心では自分が冒険者の旅路の伴をしたかっただろうに、それを他の魔力生物たちに任せ、自分は全ての咎を背負うほどに。
主たる冒険者の黄泉を伴できなかったことを、憐れにすら思う。
トリナスと共に向かった屋敷は、濃い血臭に包まれていた。
しとしとと降る雨は生温く、コールタールのように体へへばりつき、気持ちが悪かった。
畑に掘られた穴には屋敷全員のものだろう生首が積まれ、刀が一振刺さっていた。その中へ冒険者の首を収め、穴へと軽く土を被せる。
トリナスはその簡素な墓穴へと静かに祈りの言葉を捧げている。
穴の傍へ刺さっていた刀、これが鬼の言っていた生き残りだろうと検討を付け、屋敷内部へと足を踏み入れた。
これが地獄か。
思わずとよろめき嘔吐しそうになるトリナスには外で待つよう伝え、血に汚れる廊下を、靴を履いたまま歩く。
乾ききった黒い血は、床どころか天井にまで飛び散り、屋敷内を汚く彩っている。
キッチンには肉料理に精肉まで並べられ、その肉の出所にそっと祈りの形を捧げた。
別段、肉程度で悲しむような心は持っていないが、それでもこの理由に、悼む心があったのは確かだった。
使用された赤いソースの擦れた皿と箸。箸の先に触れてみるとそこは唾液で湿っていた。
誰かが食べたのだろうと考え、ここに一人残された魔力生物だろうなと当たりを付ける。小さく足音を鳴らす革靴で廊下を歩く。
引きずられた血の跡、床から天井までを彩る赤黒い血はずっと同じだ。時折見えるのは服の切れ端だった。襖が開け放たれた部屋を見ると、天井から吊るされた一人分の皮が服と共に残されていた。
「ここで殺されたのか」
その寝巻き代わりなのだろう浴衣は藍染であったものの滴るほどに含んだ血液ですっかり色が変わっていた。抜いた剣で“彼”を吊るしていた縄を切り、床へと落とす。
首も肉も内臓も失った皮膚は、ただどちゃりと重く濡れた汚らしい音を立てて床へと落ちた。
ふと、目の端に移った文机に置かれた白い表紙の冊子が気になり手に取り開くと、それはどうやら日記のようだった。それを読み、肉を失った皮膚の前へと屈む。
「お前のナツメは、死んだ」
「お前が殺したんだ」
それだけを静かに告げて、日記を持ったままに生き残りを探す。
冒険者の部屋から少し離れた、僅かに襖の開いた部屋へと入ると、そこには鬼が一人、膝を抱えて座っていた。
焦げ茶の髪はひと房だけが赤く染まり、その体は濃い緑色の着流しに包まれている。
鬼とははこのように蹲る性格だっただろうかと、自身の屋敷の鬼を思い出す。やはり俺の知る鬼はこのような性格では無かった。
「……鬼、ナツメの願いで、お前を助けに来た」
ナツメ、という名前に鬼は縋るように顔を上げた。その金色の瞳に、俺の白い髪が映る。
「……ナツメは、どうして」
掠れた声、その唇は水分を失いひび割れ、血が滲んでいた。その口元に赤黒い血液が付着している。
彼の前へと屈み、その口元を指で拭う。
「俺の、知る限りのことを話そう」
俺の伝えたナツメの言葉に、冒険者の真実に、ナツメの決意に、鬼は嘆き、泣き、崩れ落ちた。
そうして一頻り感情を発散して落ち着いたらしい鬼を伴い、俺はトリナスを拾ってギルドへと戻ることになった。
「貰って行く」
墓標代わりになっていた彼の刀を抜き、穴へ眠っているだろう冒険者へと一言声を掛けて、先にギルドへと赴いたトリナスと鬼……ヒナタに続いて門を潜る。
──幸せに暮らしてくれ。
最後に届いた声へ、静かに黙礼をし、門は閉じられる。
────
これからどうしたいんだと、どこかナツメに似たハイエルフに問い掛けられた。
隣には俺の主に良く似た、けれどまだ歳若い平凡な顔立ちで不器用そうな冒険者がいる。
それに、また涙が零れた。
どうしたい、何がしたい、突然掛けられた声に困惑する。
「他のパーティへ行くこともできるだろう。ギルドへ残り、ギルド所属の魔力生物として生きることもできる。そのまま、解放されて全ての記憶と縁を失い再び契約を待つこともできる。
鬼、お前は、どう生きたい」
穏やかな問い掛けに困惑をする。何か理由があり連れ出したのかと思えば、俺へそれを決めさせるのかと、そう驚いた。
「俺は、ナツメからお前を助けてくれと頼まれただけだからな。だから俺はお前をあの屋敷から連れ出した。これからどうするかは、お前次第だ」
与えられた言葉に、はくりと口を開く。
「──俺は」
────
ふと目を覚ますと、そこは日当たりの良い庭に面したテラスだった。
懐かしい夢を見たな。
そう唇に笑みを乗せる。
テラスの向こうに見える常春の屋敷は穏やかで、いつでも誰かの笑い声が聞こえる。
冒険者は男ではなく女で、彼女はいつも小綺麗にしていた。
明るい茶混じりの黒髪に、穏やかな顔立ち。人間の審美眼であれば、決して美人とは言えないが、器量は良い。幼い頃に結婚の約束をしてた幼馴染みがいるのだと聞いた。
彼女は、この屋敷のように穏やかだった。
ハーピーやハーフリンクの騒ぎ、走り、飛ぶ声が聞こえる。
エルフたちの穏やかな話し声も、鬼の喧騒も、獣人の笑い声も、ドワーフとリザードマンの酒宴も、どこか遠くで聞こえる。
風の運んでくる誰かが生活する音に、頬が緩む。
穏やかな、良いパーティだ。
主の肉を食べた俺の背中には、人喰いの痣が浮かんでいる。
それでも、そんな俺をただ普通の魔力生物として受け入れてくれたこのパーティに、報いたいと思っていた。
この屋敷へ来て暫くしたときの、主との会話をふと思い出す。
──婚約者が冒険者になって、七年、ずっと音沙汰が無くて……最近亡くなったって聞いて、ああ、もう会えないんだなぁって思ってしまってね。あの人が誰かに害されたり、殺されたりしたなら、わたしはその誰かも同じように苦しんでほしいって、そう思ってしまうの。こんな主でごめんね。
それに俺はなんと答えただろうか。
覚えてはいない。開かれた腹腔も、血塗れの主も、どこか遠くで聞こえる喧騒も、ただ愛しい。
いまの主の、血に塗れ震える手を優しく握り、地震の首を真横へと掻き切る。そうして返り血を浴びながら泣き、怯える主へ笑みを向ける。
「……主、」
気管を横に切り裂いたからだろう、息が漏れるだけの微かな声だったが、届いただろうか。
主はもう泣いていないだろうか。
どうか、果たした復讐に、この心優しい春のような主が喜んでいれば良いと、そう願った。
────
昔、本当に昔。まだ私が小学生だった頃、五歳違いの幼馴染みが約束してくれた言葉を、ずっと覚えている。
「お前が嫁に行き遅れたら、俺と結婚してくれ」
それだけの言葉だったけれど、お互いに歳を経る度に約束を覚えているかと声を掛け合っていた。
そうして、彼が三三歳の誕生日を迎えてから少しして、私が二八歳になった日、彼は冒険者になると言って遠くへ行ってしまった。
一年、二年と彼を待っても帰って来ず、私はいつの間にか三〇を数えていた。
両親からは早く身を固めろと言われていて、それでも私は彼以外考えられなくてただただ待ち続けた。
待つだけなのが嫌で、彼を追い掛けたくて、特定魔力生物管理者資格を取ってようやく冒険者になることができた私に伝えられたのは、彼の訃報だった。
魔力生物に殺されて、食べられて、何も残らなかったと。
彼への愛情が、恋情が、その魔力生物への恨みと憎しみに変わるのに時間はいらなかった。必死にその魔力生物を探して見つけ出した時、その傍らにはどこか不思議な雰囲気を持つハイエルフが立っていた。
ようやく肩の荷が降りたと薄い笑顔を向けたハイエルフは、私に「約束をしたから、大切にしてくれ」と言った。
私はそれに、なんと返したかは覚えていない。
けれどきっと、その時に返したものと真逆のことを行ってしまったんだろう。
空を仰ぐ私の目には、首を失い血を流す私の体が見えている。青い空に散る桜が、あまりに美しかった。
私とヒナタ、二人の体がテラスに倒れ、誰かが騒いでいる声が聞こえて……私の思考はそこで閉じた。
本当は知っていたの。ヒナタが悔いていたことも、唯一の生き残りだということも、彼を殺したのはヒナタではないということも、知っていたの。
それでも私の心は、憎しみに耐えられなかった。
私はそっと、呼吸を失った。
────
「ロイ、なんで人間は憎しみに駆られるんだろうな」
「人間だからだろう」
美しい白髪にも似た銀の髪に、永くの時を見つめてきた琥珀の瞳を携えたロイは、俺の問い掛けに淡々と答える。
「魔力生物と人間とは、元より全く別の倫理観で動いている。心を感情で左右される人間と違い、それぞれがそれぞれに内なる法を持つ魔力生物はただ、誇り高い。
他人に突きつけたものを自らに向ける強さを、人間は持っていないんだろうな。外なる法でしか他者を裁くことができないからこそ、人間はあまりに、弱く卑劣だ。俺たちは善を快く感じる自身の心を知ってしまっている」
ロイのどこを見ているとも分からない琥珀の瞳に、俺の黒い瞳が映っている。ゆっくりと瞬きがされ、彼の瞳から一瞬俺が消える。
普段はうっすらと笑みを浮かべる彼の唇は僅かに噛み締められている。
「……俺は、卑劣にはなれないな。誠実で正直でいるからこそ、心地よさを感じる自身に、嘘を吐くことができない。したくない。愚かさと弱さの影に隠れて恥じない心を持つ人間のようにはなることができない」
俺から視線を外して空を見上げたロイの心情は、俺には伺うことができなかった。
俺はロイの言う人間だ。
弱く、卑劣で、責任転嫁と言い訳を受け入れ、他人に向けた鋭い刃先から目を逸らす、ただの一人の人間でしか無かった。
俺の対極であり、自身の内なる法を重んじる誇り高い魔力生物には、人間はどう見えているのだろうか。
「ロイ、トリナス、ここにいたのか」
背後から掛けられた声に反応し振り返れば常通りの笑みを浮かべたムーサがそこにいた。碧の瞳はきらきらと輝き、金色の髪は月の下でも眩い。
「ムーサ、君たち魔力生物にとって、人間とは、冒険者とはどんな存在なんだ?」
「……そうだな、俺にとっては友であり、弱く愛しい守るべきものだ」
常であれば、好奇心にくるくると動く瞳を愛おしそうにきゅう、と細めムーサは微笑んだ。それに、そうかと返して、目を閉じた。
魔力生物のように強くはなれない。
誠実であることも、難しい。
外の法に縛られなければ自身を律することも難しい。
それが、きっと人間という存在だ。
今回の一連の事件に思いを馳せる。
死を怖がり一人逝くことを悲しんだ冒険者と、その冒険者を慰めようと同胞までもを共に殺し消滅した鬼。
その恨みに駆られ生き残りの鬼を殺した冒険者。
その死をただ悼んだ、人間とは違う倫理観を持つ、魔力生物。
きっと、何かが違えばもっと幸福な結末になることもあったのだろう。
けれどそれはただのたらればの世界でしかない。
人間は、ただ人間であるしか無いのだから。




