前編 4000年前の事件─血の惨劇─
ロイは、ベッドの上でゆっくりと目を開く。久しぶりに、かつての主であったトリナスの夢を見たのだ。
ロイは、トリナスとの過去を反芻するように、ベッドの上に座り再びゆっくりと目を閉じる。
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その鬼と出会ったのは、トリナスと共に赴いたギルドの特定魔力生物管理者窓口でのことだった。
トリナスは自身の魔力生物に対して、惜しみなく知識を分け与える者だった。
他の冒険者であれば魔力生物には決して言わないだろうことまでトリナスは教えてくれる。
例えば、ギルド窓口では特定魔力生物保護への願いを出すことができるだとか、冒険者の募集を見ることができるだとか、魔力生物にとっても冒険者にとっても要注意冒険者の話や、異常パーティと呼ばれる屋敷の話も。
それらは通常の魔力生物であれば知らずに生涯を終えるだろうもので、知ること自体もあまり良いとはされていない。
それらを余すところなく教えるその冒険者の元へ来てから、早いものでもう五年と半年が過ぎていた。
ギルドは未だ後暗いところもあり、敵味方を見分けなければ世渡りもできないような世の中で、トリナスは師と仰いでいた者も無くし、それでも冒険者として生きていくしか無かった。
トリナスはいつの間にか、冒険者業務の傍らに呼び出され冒険者を失い、行くあてのなくなった魔力生物の、医療魔法ではどうにもならない、精神という脆い部分を治療する冒険者となっていた。
それは冒険者自身の精神を酷く蝕むこともあれば、遣る瀬無い想いに身を焦がすことも、無力感に苛まれることも否応なしに全身で受けるような、そんな仕事だった。
やりがいだけではどうにも続けることのできない、暗雲の立ち込める仕事だ。
それでもトリナスはそれを誇りだと言い、行い続ける。
今日もそんな仕事の一環のために俺とトリナスはギルドの窓口へ来ていたのだ。
「もし、もし、すまない」
窓口で話していた主を待っている最中、近くから聞こえた聞き慣れた声にふいとそちらを見ると、頭から血をかぶったように真っ赤に染まった鬼が、自身の冒険者だったのだろう男の生首を両手に大切そうに抱えて、そこに立っていた。
その表情は、贔屓目に見れば無表情な人間といったところだ。
「もし、すまない、役人殿」
穏やかな声音だった。
まるで、少しカフェにでも行ってこよう。その程度の平坦な声音だ。
そして、その声音に似合わぬ事態にギルド役人は言葉を失い全ての動作を止めて“それ”を見つめた。
動作を止め、ただ凝視するだけの役人達に鬼は困ったように右手の人差し指で頬を掻いた。
その爪の間にも血液が入り込んでいて、それに俺はひどくごわごわしそうだな、と思ったものだ。
その爪で頬を掻くと、あかぐろい、血液の固まったカスがぽろぽろと落ちていた。
まるで自身の屋敷の中で見る鬼とまったく同じ様子でありながら、それはあまりにも非日常だった。
「どうした、お前。殺したのか」
問うた声は、多分平坦だっただろう。
「……なんだ、君、ハイエルフか。これは驚いたな。ハイエルフなんて、そうそう見ることが無い。今日は良い驚きを得た。
うん? こんな話をしているんじゃなかったか。
いやあ、それがな、食べたんだが、食べたら体が無くなるだろう。俺の主がなくなって、途方に暮れてここへ来たんだ」
こちらを振り返り大仰に驚いて見せたその赤色の瞳には温度が乗っていなかった。
それを証明するように、彼の声はただ穏やかだ。穏やかだったからこそ、その言葉が真実なのだろうということは分かった。
ふと、鬼の姿を見るとその身が黒くズレたように感じた。言葉を失っているトリナスの背中を軽く叩いてから鬼へと近付く。
彼は愛おしそうに首だけとなった冒険者を両腕に抱いている。その瞳には静かな狂気が渦巻いていた。
人の身は、冷静に論理的に発狂することができるのだ。
「鬼、お前は、何人食べたんだ」
俺の言葉にその鬼は、さながら無垢な童のような瞳で笑んだ。
無垢な童のような、人間を信じ切った子犬のような、黒々と光る瞳が妙に恐ろしかった。
その、血色の良いとは言えぬ唇が、白い歯が、乾いた血液や唾液に溶けた血液で赤く黒く濡れ、乾いてひび割れている。
人のような考えや性質を持った者が浮かべられるはずのない、あまりに無垢な笑みに、背筋に怖気が走る。
「たくさん、だな。たくさん食べた。冒険者も、魔力生物も」
「そうか、同胞も食べたか」
「ああ、同胞も食べた」
「それは、美味かったか?」
俺の問いかけに鬼は目を見開き口角をぐいっと引き上げた。
それはまるで肉食獣が威嚇をしているかのような笑顔だった。
「ああ、それはもちろん──最高に美味かった」
鬼は愛おしそうに男の生首の頬を撫でる。強く触れては崩れてしまう彫刻や、それでなければ宝物にでも触れるかのような手つきだった。
男は三十半ばほどだろう、顎にはぽつぽつと無精髭が生え、彫りの深い、けれど見目が良いわけではない、どこにでもいそうな、あまり特徴の無い人間だった。
死んで暫くが経っているのだろう、弾力の無さそうな、土気色をした皮膚だった。
「お前は、何故食べたんだ」
俺の問いかけに、今度は心底不思議そうに首を傾げた。
「死ぬのが惜しかったからだ」
今度はこちらが首を傾げる番だった。
「どういうことだ」
「人間は死ぬだろう」
「ああ、そうだな」
「魔力生物も、死ぬだろう」
「ああ、そういうこともある」
「それが、俺は悲しかったんだ。だから食べた。一つになればもう離れることはないだろう?」
ああ、狂っている。
この鬼は狂ってしまったのだと理解した。もうどうしようもないほどに狂って、堕ちている。
「途方に暮れてここへ来たと言ったが、お前はどうしたいんだ」
「屋敷にひとりだけ残っているんだ。そいつを、助けてやってくれ」
鬼は目をきゅうと細めて笑うと、もう限界だったのだろう、その場でみるみると醜い魔物の姿へと変貌していった。
鋭く長い牙が生え、額には醜く歪んだ角が、体からは瘴気が吹き出す。
白く輝かんばかりだった衣は見る影も無く黒く染まった。瞳も髪も浴びた血が定着したかのように赤黒く変貌していく。
彼の冒険者の生首を抱いたまま、同胞殺しと冒険者殺し、そしてその肉を喰らいその身に余りある穢れを抱いたことにより、魔力生物としての存在から思考も言語能力も持たぬ魔物へと堕ちてしまった。
その鬼の姿から醜い魔物の姿へと変貌した彼へ短い黙祷を捧げ、鬼だった魔物を一太刀の元に切り捨て、静かに鞘へと刀身を収める。
魔物の手から落ちた既に事切れ血を失い軽くなった生首を両手に抱き、俺はトリナスを振り向く。
「トリナス、あの鬼の屋敷へ行くべきだ」
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地獄とは、まさしくここのことだろう。
昨晩までは笑い声が響き、みなが駆け回っていた屋敷に呼吸をする者は自分以外におらず、ただ血腥いにおいと穢れに満ち満ちていた。
瘴気が溢れ、外には穢れを纏った雨が降っているのだろう、屋根を叩く音がする。
このパーティを運営していた冒険者は今年三六歳になり、試行錯誤しながらに着任してからようやく七年が過ぎたところだった。
あまり優秀とは言えなかったが、穏やかで人の良い、共にいても気負うことの無い優しい、良い冒険者だった。
短く刈られた黒髪に、柔和にも見える目頭と目尻の皺、笑うと不格好に左頬だけが上がる、手先も性格も少し不器用な普通の男だった。
武芸に秀でるわけでもなく、書類仕事が得意なわけでもない。ただ実直で真面目で、誠実。魔力生物にも、人間にも愛される素質を持っていた。
主は、今月の末に結婚が決まっていた。
故郷に住む幼馴染みなのだと。幼い頃に互いに婚姻が遅れたら結婚をしようと、そう約束したのだと穏やかに微笑みながら俺へと伝えたのはいつのことだったか。
それに常通りお前のことになど興味が無いと伝え、それでも端末を駆使して様々な通販サイトから見つけ、ようやく購入した主に似合いそうな、青い宝石が控えめに主張するタイピンを、渡すつもりだった。
渡すつもりだったのだ。
月も半ばに差し掛かった日の早朝、屋敷で嗅ぐはずの無い鼻を擽る濃い血臭に飛び起きた。
それが主の部屋から香るということに気が付いた俺は、寝間着代わりの着流しのまま刀を掴み、主の部屋へと飛び込んだ。
そこには敵はおらず、代わりにただ穏やかに微笑みながら主を殺すナツメの姿があった。
常通りの笑顔で、天井から逆さに吊るした主の首を落とし、血抜きをして皮を剥ぎ、まるで豚を屠殺しているかのように淡々と作業を続ける。
びちゃ、ぐちゃ、と汚らしい濡れた音が響く。首を失った主の腹腔から内臓が落とされていく。
その、常軌を逸した光景に、俺はたじろぎ、言葉を失ってしまった。よろ、と数歩後ずさって、廊下の壁へと背中を押し付け、ずるずると座り込む。
ナツメ・ウミャーチは、このパーティで最も強い魔力生物だった。
初相棒であるジョック族であるハイイロオオカミの獣人であるラピスの次に契約され、その器用さからずっと側仕えを任されていた。
穏やかに笑い、ハーフリンクやコロポックルの世話も、新人の世話も好んでするような、優しく穏やかな魔力生物だった。目新しいものが好きで、けれど古いものも愛し、何よりも主とこの屋敷のものを愛していた。
その、誰よりも主から信頼されていた鬼が、主を微笑みながら切り刻んでいる。
その光景に、俺の脳は容量を過ぎたらしい。目を開いていたままに脳が現実を見ることをやめていた俺が次に気が付いたのは、ラピスの怒号が響いてからだった。
「テメェ! 何してやがる!」
怒号が鼓膜を揺らし、ハッとして目の前を見ると、朝の白い日に照らされたそこにはただ血の海が広がるだけで、主の姿も、ナツメの姿も無かった。
理解の及ばぬ脳が必死に体を動かし力の抜けた肢体を持ち上げ声の聞こえてきた方向へ向かおうと足を踏み出すと何かを蹴ってしまい、ふと足元を見た。
そこは足の踏み場も無いほどに血にまみれていた。
腥いにおいに、あまりに濃い血臭に、視界が揺らぐ。
廊下に、点々と胴体を失った首が落ちている。さながら子供が目印のために落としていった小石かパンくずのように。先ほど蹴ってしまったのも、この中の誰かの首だろう。
この首はハーピーのオルニット、これはセイレーンのシー、ああ、ハーフリンクのスピトー、トゥパ、……落とされた首だけが驚愕と畏怖の表情のままに血にまみれ転々と落ちている。
血に濡れた廊下を、足を引きずりながら歩く。一歩進む事に靴下が血を吸い、びちゃ、ぐぢゅ、と濡れた音が立つのがあまりに不快で、あまりに現実味が無かった。
靴下が汚れたら、サトゥムに怒られてしまう、今日の洗濯当番は確かトゥパだったな、血の汚れは落ちづらいからきっと小言を言われるだろうと、現実逃避さながらのことを考えながら辿り着いたキッチンの中では、ラピスが武装もしていない夜着のままにこちらへと背を向け、常通りに戦装束を着込んだナツメの袷を掴み、どういうつもりだと恫喝している。そのラピスを、ナツメはただ微笑みながら見つめていた。あまりにいつも通りの笑顔で。
それが、恐ろしかった。
「なんで殺した……!」
ラピスの押し殺した慟哭に、ナツメは壊れた人形のように首を傾げた。
理知的な光を灯す、とても狂っているとは思えない瞳、幼くも見える、鼻に寄った笑い皺、目尻に寄る、主に似た皺。それに、知らず滂沱と涙が溢れる。
「死んでしまうのは可哀想だろう、だから食べるんだ」
ただ、穏やかにそれが当然なのだとでも言うかのような声音で、穏やかにナツメは言った。




