第一回「木曜日」
「帰ってこないの?」
大学が夏休みに入り暫くたってから母、志乃から電話があった。
「帰らないよ」
「どうして? 母さんの手料理が恋しくならない」
「ならないよ」
「あら、随分冷たいこというのね」
「冷たいって、こっちに来てまだ三か月ちょっとだし、それに大学で出来た友達と遊びに行く予定もあるから」
「友達出来たのね」
「出来たよ」
「そう。じゃぁ母さんが航太のところに遊びに行こうかな」
「いいよ、来なくて」
「いいじゃない。私、北海道に行ったことないし、航太の部屋に泊まれば宿泊費タダで済む」
「辞めてよ! こっちも色々忙しいんだから。いい、もう電話切るよ! 今からバイトに行かなくちゃいけないし、兎に角、勝手に来ないでよ! いい、わかった?」
航太はこれ以上、付き合いきれないと思い、一方的に電話を切った。そうでもしないと話をしているうちに何か口実を作ってこっちに来るかもしれないと思ったのだ。
するとスマホから着信音が聞こえた。航太はスマホを手に取りスマホを見た。メッセージが届いたのだ。航太はアプリを開きメッセージを見た。
〈絶対、行く〉というメッセージに笑っている女の顔のスタンプがついていた。
「怖いなぁ。一応、用心しておいた方がいいな」航太は呟いた。
舟山航太、十八歳。札幌の大学に通う一年生。航太の実家は東京。東京には大学もいっぱいあるが航太はあえて札幌の大学を選んだ。その理由は、ただただ親から離れたい。親が家にいると彼女が出来ても家に呼べない。要は落ち着いて彼女と過ごすことが出来ない。落ち着いてエッチが出来ない。それが大きな理由だった。もし東京の大学、いや関東の大学に行ったら実家から通えと言われる。ずっと親の目を気にしなくてはいけなくなる。そう思うと大学に行っても楽しい学園生活が送れるとは到底思えなかった。北海道の大学を選んだ理由は志乃がいうように航太も北海道に行ったことがなかったし、北海道にいけば、何か楽しい学園生活が送れそうな気がしたからだ。
大学に入学して初めて迎える夏休み。
「この夏休み、彼女を作る。そして、出来れば童貞を卒業する」
それが航太が自分に課したミッションであった。
このミッションを成功させるまで実家には帰らない。母の志乃に出鼻を挫かれるわけにはいかない。
航太はアパートを出て、バイト先の味噌ラーメン「ドドド」に向かった。
木戸丈一、三十二歳。味噌ラーメン「ドドド」の店主。脱サラして夢であった味噌ラーメン屋を開業した。「ドドド」は昼の部と夜の部に分かれている。昼の部も夜の部もバイト二名で店を回している。今日の夜の部は航太と劇団で女優をしている牧本カヨ、二十四歳の二人が働いていた。
夜の部は二十三時に閉店。閉店すると丈一はバイトに夜食を作らせる。基本、賄いはバイトに作る。
「自炊ぐらいしっかり出来るように」と。
今夜はカヨが厨房に入って麻婆豆腐を作っている。航太と丈一はカウンターに座りカヨの手際を見ていた。するとそこへ店のドアを開けて高野岳が顔を出した。
「こんばんは」
高野岳、十八歳。航太の同級生で航太と同じく「ドドド」でバイトをしている。
「おう、どうした?」丈一が声をかけた。
「いやぁ、お腹すいちゃって。俺もいいすか?」
「しょうがねぇなぁ」
「すみません」
岳は店に入ってきて、「ヨッ」と言って航太の隣に座った。
「もう出来るよ」カヨが言った。
航太はご飯をよそい、岳はテーブルに鍋敷きを置いたり準備をした。
丈一、航太、カヨ、岳の四人はテーブルに着き、カヨの作った麻婆豆腐をおかずに世間話をしながら飯を食べた。
食べながら航太が岳に尋ねた。
「それより教習所は順調にいってるの?」
「いやぁ、縦列でしくじった」
「なんだよ、まだ仮免にもいってないの⁉」
「もうちょいだな」
「お前が免許取って、みんなでキャンプに行くんだぞ。取れなかったらいけないんだからな」
「わかってるよ」
「キャンプ行くの?」カヨが言った。
「同じクラスの学生でキャンプしに行くことになってるんだ。車二台出して。一人はもう免許取っていてあとは高野の免許待ちなんだ。だから早く取ってもらわないと。岩佐さんの車でいかれたら、俺たち置いてけぼりにされて、ただの女子キャンプになっちゃんだからな」
「わかってるよ」
「それだけは勘弁してくれよ」
「あれ、航太君、やけに熱心ね」
「え、いやぁ、まぁ、みんな楽しみにしていることだし」と航太ははぐらかした。
そう、航太には自分に課したミッションがある。
〈この夏休み、彼女を作る。そして、出来れば童貞を卒業する〉
というミッションが。このミッションをクリアしてこそ楽しい学園生活が待っているといっても過言ではない。その絶好の機会がこのサマーキャンプ。男子七人、女子七人の合コンキャンプ。学生生活にもなれ、航太はここにかけていた。
「じゃぁ、岳君が取れなかったら、私が運転しようか?」カヨが言った。
「あ、いいっすね。岳がバイトに入って」
「なんだよそれ」
「なんか楽しそうだな。俺も行こうかな」丈一が言った。
「丈さん、店あるじゃないですか」
「岳と楓さんに任せるか」
楓さんというのはもう一人、「ドドド」でバイトをしている専業主婦の小幡楓、二十七歳のこと。
「勘弁してくださいよ」岳が言った。
「なら、さっさと取れよ」航太が言った。
夜食を食べて、かたずけをしたバイト三人は丈一に挨拶をして「ドドド」を出た。
丈一は一人、仕込みをしている。
カヨはバイクにまたがって「それじゃ、おやすみなさい」と言って帰っていった。
「今日、遊びに行っていい」岳が航太に言った。
「家近いんだから家に帰れよ! 帰って実家の車で縦列の練習しろよ!」
「わかったよ。じゃあな」
航太と岳は自転車に乗って帰っていった。
航太はアパートの一階に住んでいる。
アパートの駐輪場に自転車を止めた。
「ほんと、マジで免許取ってもらわないと。この夏が最大のチャンスなんだから」
航太はブツブツと呟きながらドアにカギを差し込み、ドアを開けた。
真っ暗なワンルームの部屋。
航太はスイッチを押して部屋の明かりをつけてた瞬間、航太は悲鳴を上げた。
「え! 何!」
航太はベッドから離れた。
部屋のベッドに壁の方に体を向けて寝ている私服姿の女性がいた。
長い髪は見えるが顔は壁の方を向いていて見えない。
「母さん?」
航太は壁に向かって横になって寝ている女性の姿を見た。
「なわけないか。じゃぁ誰?」
ベッドに近づいて女の横顔をマジマジ見た。
女性は熟睡している。
「……誰?」
航太はベッドに寝ている女性の肩に手を置いて「もしもし」と言いながら軽く揺さぶった。
女性は小さく呻いただけだった。
今度は「もしもし」と言いながら大きく肩を揺さぶった。女性が目覚めるまで揺さぶり続けた。すると女性が「んん、何?」とだるそうに呟いた。
女性は体を仰向けにして、ゆっくり視線を航太に向けた。すると航太を見た途端、女性は驚いたように「誰!」と言った。
「いやぁ、誰って」航太は呟いた。
すると女性は吐き気を催したのか、ベッドから飛び起き、航太をどけて台所に行き吐いた。
航太は茫然とした。
女性はベッドに腰かけ、航太はフローリングに座っている。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。ちょっと飲み過ぎた」
「あの、ここ、僕のアパートなんですけど、どうしてここに居るんですか?」
女性はパンツのポケットか鍵の束を取り出して「これ」と言って鍵を見せた。
「それは?」
「ここに住んでた元カレがくれた合鍵。すすきので飲んでてホテルに泊まるにしてもお金かかるから一晩泊めてもらおうと勝手に入ったの」
「そうなんですか」
「ごめんなさい。引っ越してるとは思ってなかったから」
「いえ」
「出てくわ。ほんとごめん」
「いえ」
女性は自分のカバンをもって部屋を出ようとした。航太はそれを見送るために女性の後ろにいる。すると航太はふと呟いた。
「あ、もう電車、走ってませんよ」
女性は時計を見ると深夜一時前。
「あ、ほんとだ」
航太と女性は目が合う。
「……もしよかったら、このまま今夜だけ泊っていっていきます?」
「え、いいの」
「いや、電車もないし、そちらが良ければ別に構いませよ。なんか仕方ないし……」
「そう。じゃぁお言葉に甘えちゃおうかな」
女性はハニカミながら微笑んだ。
「あ、どうぞ」
「私、服部里咲。宜しく」
「僕は舟山航太です。大学一年生です」
「そうなんだ。じゃぁ、ここで一人暮らし?」
「はい」
「出身は」
「東京です」
「東京か、いいなぁ」
「そうですか」
「そうでしょう」
「めっちゃ人いますよ。こっち来て思いました。東京は人疲れするって」
二人は話しながら部屋の中に入った。
服部里咲。二十二歳。見るからに美人。見るからにグラマー。着やせしないタイプ。酒に酔っているからかもしれないが、二十二歳には思えない大人の色っぽさが全身から漲っている。そんな女性が今、自分の部屋にいる。航太はどこか嬉しかった。
〈これも一人暮らしの恩恵なのか?〉
航太と里咲は少し世間話をしてから、里咲はベッドで眠りについたが航太は眠れなかった。
〈めちゃめちゃグラマーな綺麗な人が俺のベッドで眠っている〉
そう思うとどこか興奮して眠れなかった。それどころかなんかムラムラしてきた。
〈童貞には刺激が強すぎる。まだ俺にはそれに耐えうる免疫がない〉
自分の気を静めようと外に出た。こんなところで襲い掛かって捕まって人生を終わらせるわけにはいかない。外に出るとゴミ捨て場に段ボールが置いてあった。
航太はその段ボールを取って広げて横になった。
星空が見える。
「なんか落ち着くなぁ。暫く、星でも眺めて気を落ち着かせるか」
航太は星空を眺めているうちにその場で寝てしまった。