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入学式で私を婚約者に指名した完璧な彼。その理由、教えてもらえます?

作者: 柏原夏鉈

透き通るような青空が広がる春の朝、千歳灯依(ちとせとい)は校門をくぐる。新しい制服が少しだけ肩に馴染まない感触。入学式という特別な日に胸が高鳴る一方で、見知らぬ顔ばかりの人混みには、どこか息苦しさを覚えていた。


「こんな大きな学園で、うまくやっていけるのかな……」


そう呟きながら渡り廊下を進むと、広大な講堂の扉が目に入った。生徒たちが流れるように中へ吸い込まれていく。灯依もそれに倣い、ふと息を整えてから足を踏み入れた。


講堂内は、すでに新入生で埋め尽くされていた。前方の舞台には白く輝くスポットライトが降り注ぎ、その下に並ぶ椅子が一層の緊張感を生み出している。


灯依は大勢の新入生の一人に過ぎず、この時はまだ、特別な存在ではなかった。誰も灯依に注目する事もなければ、あるいは避けて遠ざかる事もない。


訳あって、地元を離れて遠くの大規模な学園にやって来ていた灯依は知り合いもこの場には誰もいない。両親は離婚していて、唯一の家族である母も多忙のために欠席している。


やがて、入学式が厳かな雰囲気のまま進んでいく。|退屈な時間が過ぎていくが、灯依にとっては貴重な平穏の時間が今まさに終わろうとしている事を知る術もない。


司会の声が響く。


「続きまして、在校生代表、生徒会会長、二条真人にじょうまことによる挨拶です!」


拍手が波のように広がり、壇上に一人の青年が現れた。


彼は紺色の制服を身にまとい、端整な顔立ちに自然と視線を集める雰囲気を纏っていた。その立ち姿はまるで絵画のように完璧で、灯依も息を飲んでしまう。


真人はゆっくりとマイクを手に取り、低く穏やかな声で挨拶を始めた。


「新入生の皆さん、ようこそ。今日からこの学園で新たな物語が始まります」


言葉は簡潔ながらも、どこか温かい響きを含んでいる。壇上に立つ彼の瞳は真っ直ぐで、会場全体を包み込むような優しさを湛えていた。


だが、挨拶が終わりに差し掛かったその時だった。


真人は新入生たちを見渡していたが、その中で一際目を引いた灯依に視線を留めた。その目には、驚きと歓喜が混じったような感情が浮かんでいた。


真人は一瞬間を置き、ふっと微笑みを浮かべる。そして、その場の全員が息を呑むような言葉を口にした。


「……そして最後に、僕から一つお伝えしたいことがあります」


会場がざわつき始める。彼はその動揺を楽しむように言葉を紡いだ。


「今日、僕は婚約者を見つけました」


灯依は一瞬、自分の耳を疑った。


婚約者?壇上で?突然?


その衝撃的な発言に会場がさらにざわつき始める中、真人は迷うことなく言葉を続けた。


「彼女は――新入生の、千歳灯依さんです」


静まり返る会場。無数の視線が一斉に千歳灯依なる人物を探し始め、いつしかその視線が灯依に集まって来た。


まるで水面に灯依が立ち、そこにひとひらの風が舞い降りたかのように、波紋が広がるように新入生たちは静かに離れていき、自然と輪が形作られた。


「えっ……え?」


灯依は心臓が跳ねるような音を感じた。ただ自分を指名した真人の視線が真っ直ぐに灯依を捕らえている事だけはわかった。


何が起きているのか、理解が追いつかない。会場の喧騒が遠くなるような感覚の中、じっと灯依を見つめる真人の微笑みだけがやけに鮮明だった。


――どうして私が?


壇上に立つ真人はそんな灯依の困惑などお構いなしに、ステージ傍の階段を降りて灯依に向かってくるのがわかる。


その恐怖に耐えかねて、灯依は身を翻して、講堂の出入り口に向かって駆け出した。


   ◇   ◇   ◇


入学式の後、灯依は気づけばクラスの教室に座っていた。頭の中は先ほどの出来事でいっぱいだ。


「千歳さん、だよね?」


不意に声をかけられ、顔を上げると隣に座る女子生徒が微笑んでいた。彼女は栗色の髪を揺らしながら、興味津々といった様子で覗き込んでくる。


「は、はい……?」


「やっぱり!さっき、二条センパイに婚約者の指名されたよね!すごいじゃん!」


その勢いに圧倒されながら、灯依は頷いた。


「えっと……突然すぎて、私も何が何だか……」


「だよねー。あたしは双葉由莉(ふたばゆり)。よろしくね!」


「あ、はい。千歳灯依、です」


思わずして自己紹介を受けたので、反射的に灯依も自己紹介で返した。由莉と名乗った彼女は身体ごと灯依ににじり寄って来て、最初の遠慮がちな声など無かったことのように、元気な声で灯依に話しかけてくる。


「でも二条センパイってほんっとにすごい人なんだよ?」


「双葉さんは生徒会長さんのことを知ってるの?新入生だよね?」


「由莉でいいよ!……あたしじゃなくてもみんな知ってるよ。だって二条センパイって二条財閥の子息で、学業もトップクラス、しかも生徒会長ってだけじゃなくて会社の役員としてもバリバリ活躍してるの!全校の女子の憧れなんだから!」


「そ、そうなんだ……」


全く知らなかった事実に灯依は頭がクラクラした。そんな人がどうして自分を――。


「ねえ、あたしも灯依って呼ぶね?灯依は二条センパイの事、知らなかったみたいだけど、遠くから来たの?」


「うん、そうなの。だから二条先輩とは初対面なはずなんだけど」


その答えに由莉は目を丸くし、次の瞬間、興奮気味に声を上げた。


「初対面で婚約者宣言!? それって、すごくドラマチックじゃない?」


灯依はただ困惑の表情を浮かべたまま、由莉の興奮に応えることができなかった。


――これから、自分の身に何が起きるのだろう?


胸のざわめきは収まることなく、灯依の新しい学園生活が始まった。


   ◇   ◇   ◇


「待ってください!」


ある日の昼休み、灯依はようやく真人を捕まえた。彼は生徒会室から出てきたところで、タイミングを見計らっていた灯依が声をかけたのだ。


真人は振り返り、その穏やかな瞳で灯依を見つめる。


「千歳灯依さん、君から来てくれるとは助かったよ。時間を作って君を訪ねようとは思っていたんだが、タイミングが合わなくてね」


その優雅な態度に、灯依の心臓がまた不規則に跳ねる。だが、ここでひるむわけにはいかなかった。


「どうして私を婚約者だなんて……そんなこと、全然聞いてません!」


真人は少しだけ首を傾けると、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。


「驚かせてしまったね。君にとっては急な話だったと思う」


「当たり前です!何の説明もなく、突然……」


その言葉を言い切る前に、真人はふっと深いため息をついた。そして彼女を見つめる瞳が、どこか影を帯びる。


「正直に言うよ。僕にも、どうしてあんなことを言ったのか分からないんだ」


「え?」


予想外の返答に灯依は戸惑う。


「でも、君を一目見たとき……心のときめきを強く感じて、誰かに取られてしまわないようにしなきゃと思ったら、口をついて出たのが、婚約者に指名するという言葉だった。だから理由なんてわからない。強いて言えば一目惚れかな」


その静かな声には、どこか真実味があった。だが、曖昧で掴みどころがない答えに灯依の混乱は深まるばかりだった。


「とはいえ、後悔はしていない。今もこうして君と向かい合っているだけで、僕は今まで感じたことのない感情に支配されている。そして、僕には少し立場があってね。思わず口にしてしまったとはいえ、婚約者に指名したからには、取り消すのは容易ではないんだ。まあ、取り消す気はないんだけど」


あまりにも自分勝手な言葉に灯依は腹が立って来た。


「そんな一方的な事を!」


「君の怒りは当然だ。でも……」


真人の声が少しだけ弱々しくなる。


「お願いだ、千歳灯依さん。しばらくの間だけでいい。“婚約者”のフリをしてくれないか」


「……そんな事」


真人の頼みを受け止めきれず、灯依は言い淀む。


「もちろん、僕にできる限りのことはする。こういう言い方もしたくないが、僕は経済的に余裕があるから、援助を望むのなら……」


「お金なんか絶対に受け取りません!」


馬鹿にされたようで、灯依はさらに怒りが増して来た。しかし、真人はびっくりした表情で口元に手をやって隠して「どうして口走った?これはまさか……」と何やら思案する様子だ。


「すまない、決して君を侮辱するつもりで言ったんじゃないんだ。謝罪させて欲しい」


真人は深々と頭を下げて謝罪した。未だに生徒会室の前で話していたものだから、いつの間にか遠巻きに二人のやり取りを見守る人たちが増えて来ている。


恥ずかしくなって、灯依はすぐに真人の肩に触れながら言った。


「や、やめてください。わかりました、許しますから」


しかし真人は頭を上げず、そのままさらにお願いをして来た。


「重ねて、しばらくの間だけ、僕の婚約者になって欲しい。君にとっては偽りの婚約者という事で構わない。さっきは失礼な事を言ってしまったけど、僕にできる事なら何でも君のいう事を叶えると約束する」


「と、とにかく頭を上げてください!」


ようやく真人は頭を上げた。真人はその大きな瞳で灯依をじっと見つめる。その目に写っているのは、強い渇望だった。


灯依は強い違和感を感じた。真人が灯依を見る目には、決して一目惚れしたからなどという曖昧な理由だけでは説明できない、必死さを感じるのだ。


灯依の心は激しく揺れていた。彼の言葉は信じられないほど不自然で、納得のいく説明もない。だが、それでも――


(この人、どこか必死そう……)


真人の微笑みの奥に見える影が、なぜか気になってしまう。


「……分かりました。でも、あとでちゃんと説明してくださいね」


そう言うと、真人の表情が柔らかくほころぶ。


「ありがとう。本当に助かるよ。これからどう呼んだらいいかな?千歳さんか、あるいは灯依さんか。何か愛称があるなら……」


「そんな物ないです。灯依、で良いですから」


「そうか。では灯依さんと呼ぼう。私が年上だが、婚約者であれば歳の差など関係なく対等だからね。僕のことも真人と呼んで欲しい」


「はい……、真人さん」


――どうして私なんだろう?


その疑問は解消されないまま、灯依はこの奇妙な関係を引き受けることになった。


   ◇   ◇   ◇


放課後、灯依は教室で由莉にすべてを打ち明けた。


「ええっ!? 偽りの婚約者!?」


由莉は目を輝かせ、身を乗り出してくる。


「なんだか面白そうじゃない!せっかくだから全力で楽しみなよ!」


「楽しむって……そんなこと……」


灯依が困り顔を見せると、由莉はにんまりと笑う。


「いいじゃん、どうせ偽物なんでしょ?だったら色々と買ってもらったり美味しいもの食べさせてもらったりしなよ!何せ大富豪なんだからさ!それに二条センパイが嫌でも、他のお金持ちの御曹司とお近づきになれるチャンスだよ!芸能人にも会えるかもしれない!楽しまなきゃ損だよ!」


そのポジティブすぎる言葉に、灯依は思わず肩をすくめる。だが、由莉の明るさにはどこか救われる気持ちもあった。


「……うん、由莉のいう通りかも。こんな機会、無いよね。ちょっとくらい美味しいものを食べたりしても、良いよね」


「うん、そうだよ!……ぶっちゃけ最初は興味本位で話しかけちゃったけど、なんだか灯依と仲良くなれそう!これからもよろしくね!」


由莉は手を差し出してきた。灯依は少しだけ驚きながらも、その手を握り返す。


「こちらこそ、仲良くしてね」


その瞬間、灯依の胸にわずかな温かさが宿るのを感じた――。


   ◇   ◇   ◇


翌朝、登校した灯依は、教室の扉を開けると一瞬で視線を集めた。小声で交わされるざわめき、熱っぽい視線、そしてひそひそとした噂話――それらが一斉に襲いかかってくる。


「ねえ、あの子が……」

「二条会長の婚約者だって……?」


灯依は息を詰め、何も聞こえないふりをして自分の席へ向かった。


(どうして、こんなことになってしまったんだろう?)


机に腰掛けると、隣から由莉がすぐに声をかけてきた。


「灯依、すごい注目浴びてるね!まるで芸能人みたい!」


「全然嬉しくないんだけど?」


灯依は小さく溜め息をついた。だが、由莉は気にも留めずに続ける。


「でもさ、せっかくだから堂々としてればいいじゃん!悪いことしてるわけじゃない、婚約者なんだし!」


その無邪気な言葉に、灯依は複雑な気持ちを抱えつつ、ただ苦笑するしかなかった。


   ◇   ◇   ◇


放課後、生徒会室の前で待つ灯依に真人が現れた。制服姿の彼はどこまでも凛々しく、廊下を歩く生徒たちが自然と立ち止まるほどの存在感を放っている。


真人は灯依を見つけると、柔らかく微笑んだ。


「待たせてしまったかな?」


「……いえ、大丈夫です」


その言葉と共に、灯依は真人に連れられ校門を出た。


「少し付き合ってほしいんだ」


連れて行かれた先は、学園近くの高級ショッピングモールだった。煌びやかな店が立ち並ぶ中、真人は迷いなく進む。


「えっ、ここで何を……?」


灯依が尋ねる間もなく、真人は立ち止まり、ショーウィンドウに飾られたネックレスに目を留めた。


「これ、君に似合いそうだ」


「いや、そんなのいらないです!」


慌てて首を振る灯依を見て、真人は少し困ったように笑った。


「そうか。でも、気になるものがあれば遠慮なく言ってほしい」


「だから、そういうのは……」


灯依が拒む度に真人は微笑むだけで、それ以上は押し付けてこなかった。しかし、彼の視線が灯依をじっと見つめるたび、心のどこかがざわつく。


(私が何を見ても、全部買ってくれるつもり?)


結局、真人に「せっかくだから」と促され、小さなペンダントを手にすることになった。


そして、この日から灯依は真人とのデートを重ねていく。


真人は灯依をあちこち連れて行き、美味しいものを食べさせたり、綺麗な夜景を見に行ったり、灯依は普通の女子高校生じゃ出来ないような体験をした。


真人はあくまで紳士に灯依をエスコートするので、純粋に灯依は素晴らしい体験を楽しむ事が出来た。


   ◇   ◇   ◇


ある日、真人の誘いで二条家の邸宅へ訪れることになった。ささやかなパーティが催されるので、婚約者として灯依を一族に紹介したいとの事だった。


あくまで偽りの婚約者であり、紹介なんかされてしまっては、外堀を埋められていくかのような不安に駆られたが、真人はパーティに参加するのにパートナーを同伴しないというのは不自然だから、何もしなくて良いので参加だけして欲しいと頼みこまれ、やむを得ずに頷いた。


目の前に広がるのは、まるで宮殿のような豪奢な建物。広大な敷地に広がる庭園、並んだ高級車、そして品のある執事やメイドたちが出迎える光景に、灯依は圧倒されっぱなしだった。


「ここが二条家……?」


呟いた声を聞きつけたのか、真人が振り返り、微笑む。


「緊張しないで。何かあれば僕がフォローするから」


その言葉に少しだけ安心し、邸内へ足を踏み入れる灯依。しかし、その胸の内はどこか落ち着かない。やっぱり断っておけば良かったかと後悔しながら真人に着いていく。


パーティー会場には華やかな衣装を纏った人々が集まり、どこかぎこちなく微笑み合っていた。


(みんな大人っぽい……こんな場所、私が来ていいのかな……)


灯依が不安に駆られる中、ふと彼女のそばに現れた男性が言った。


「これが真人様の婚約者?随分と幼いお嬢さんだ」


灯依はぎこちなく微笑み返す。しかし、次々と他の招待客が寄ってきては、妙な言葉を投げかけてくる。


「当主様が示した条件に合う女性なのか、興味深いわね」

「随分と早く条件を満たしたようだが……本当かしら?」


灯依はその“条件”という言葉に引っかかりつつも、何も聞けなかった。ただ、真人の横顔を見ると、彼は穏やかに微笑みながらそれらを受け流しているようだった。


(何のことを言っているんだろう?)


その疑問が胸に重くのしかかる。


   ◇   ◇   ◇


帰り道、車の中で静まり返る空気を真人の声が破った。


「ごめんね、変なことを言う人たちが多かっただろう」


その言葉に、灯依はふと彼を見た。真人の横顔には、どこか疲れたような影が差している。


「でも、不思議なんだ」


彼は続ける。


「君が隣にいると、すごく落ち着くんだ」


その言葉に、灯依の心臓が軽く跳ねる。


(どうして私に、そこまでこだわるんだろう?)


真人の微笑みは温かく、どこか寂しげだった。その表情に、灯依は言葉を返せないまま、ただ目を伏せた。


車窓に映る夜景が静かに流れていく。灯依の胸には、説明のつかない感情が芽生え始めていた。


   ◇   ◇   ◇


春の柔らかな日差しが差し込む生徒会室。灯依は無数の書類を前に、机に向かっていた。


「これで、整理が終わりました」


真人の生徒会長としての作業が忙しいというので、日頃は真人に何から何までしてもらって引け目を感じてた灯依は手伝う事を申し出た。


小さな束を手に取りながら、灯依は真人を見上げる。彼は別の書類に目を通していたが、灯依の声に顔を上げると、優しい微笑みを浮かべた。


「ありがとう。助かるよ」


その一言に、胸が少しだけ温かくなる。


「でも、こんなに書類が多いんですね。生徒会ってこんなに大変なんだ……」


灯依が漏らすと、真人は軽く笑った。


「そうだね。普通の学校より少しやることが多いかもしれない」


「少しどころじゃない気がしますけど……」


灯依が苦笑すると、真人も少しだけ声を漏らして笑った。だが、その笑顔の奥にふと見えた影が気になり、灯依はつい問いかけてしまう。


「真人さんって……、こんなに生徒会で忙しくて、さらに会社の役員もされてると聞きました。疲れたりしないんですか?」


真人はしばらく黙っていた。ペンを置き、窓の外に視線を移す。


「……疲れる、かな。いや、疲れてるのかも」


その言葉は、どこか独り言のようだった。


「僕はいつも何かを求められてる。完璧であることを、優れていることを、周りは当たり前のように期待するんだ」


真人は視線を窓の外に向けたまま続けた。


「だから時々、分からなくなるんだよ。僕が本当にやりたいことって、なんなんだろうって」


灯依は、何も言えなかった。目の前にいるのは、あの完璧に見える二条真人ではなく、どこか不安定で疲れ切ったひとりの青年だった。


思わず口を開いた。


「頑張りすぎないでください。真人さんは、真人さんのままでいいんじゃないですか?」


真人は一瞬驚いたように目を見開いた。次の瞬間、彼の表情は少しだけ和らぐ。


「そう言われたの、初めてかもしれない」


微笑む真人の瞳には、どこか不安定な揺らぎが見えた。それが、灯依の心を強く締めつける。


(この人を放っておけない……)


灯依は、自分の胸に芽生えた感情に戸惑いながらも、それを否定することができなかった。


   ◇   ◇   ◇


灯依は由莉と昼食を食べながらお喋りをしていた。


「へえ、やっぱり生徒会って忙しいんだね!」


由莉はパンを頬張りながら話している。灯依はその軽やかな様子に微笑みを浮かべた。


「うん。でも、結構楽しいかも」


「ふーん、灯依が楽しんでるなら良いんじゃない?」


からかうように言った由莉が、ふと真剣な顔になり、灯依をじっと見つめる。


「でもさ、真人様の婚約者のくせに、化粧が下手で見てられないよね。釣り合ってないっていうか」


急に辛辣な物言いをぶつけられて、灯依は由莉が自分に向けて言ったと認識しなかった。


いったい誰のことだろうと由莉に聞き返そうと目を向けると、自分から発したセリフに酷く動揺した様子の由莉が、脂汗を流しながら、呆然とした表情で呟いた。


「今の、なに?なんで、私、そんな事を……」


「由莉?」


灯依が声をかけると、身体を揺らして驚いた由莉は、すぐに頭を下げた。


「ごめん!灯依!あたしひどい事言った!」


「ううん、びっくりしたけど、大丈夫。私もそう思ってたし」


「ちがうし!あたし、そんな事、一度も思ったことないの!ほんとだよ、信じて!」


必死に懇願する由莉に、灯依はいったいなにがあったのか理解できずに、どう声をかけたら良いのかもわからなかった。


「マジごめん。許して欲しい」


少し落ち着いて来た由莉の様子を見て、ほっとして、少し冗談のように灯依は言った。


「うん、出来ればお化粧教えて欲しいかな。私、よくわかんないから」


「お!任せてよ!」


由莉が元気よく笑いながら答える。その明るい笑顔を見て、灯依の心にも少しだけ光が差した気がした。


しかし、それからも由莉とのおしゃべりの中で、急に由莉が人が変わったみたいに辛辣な事を言う事があった。灯依は気にしていないのだが、その度に由莉は酷く落ち込んで、もう二度無いようにすると言うのだが、その頻度が増して来ていた。


そして、ついに破綻する時が来た。


   ◇   ◇   ◇


月曜日の朝、灯依は教室に入ると、いつもと様子が違う由莉に気づいた。


彼女は席に座ったまま顔を伏せ、灯依の視線を避けるようにしている。


「由莉、どうしたの?何かあったの?」


灯依が声をかけると、由莉は短く「ううん」と答えたが、その笑顔はぎこちなく、どこか苦しげだった。


「ごめんね、灯依。……もう私、灯依と仲良くできない」


「えっ……どうして?」


灯依が問いかけると、由莉は目を潤ませながら言葉を続けた。


「灯依のこと、嫌いになったわけじゃない。ただ……灯依と一緒にいると、自分がどんどん醜くなっていく気がするの」


「醜くなるって……何のこと?」


由莉は震える声で答えた。


「私の心の中で、妬みや自己嫌悪みたいなものが膨らんで、止まらなくなるの。悪夢みたい……」


その言葉に灯依は息を呑む。似たようなことは過去にも何度かあった。仲良くなった友人が、突然距離を置くようになり「君といるとおかしくなる」と言われた記憶がよみがえる。


「……普通のクラスメイトでいよう。ごめんね」


そう言い残し、由莉はそっと教室を出て行った。


灯依は教室の片隅で一人、頭を抱え込む。


(まただ……どうして私って……)


孤独感が胸を覆い尽くし、何も考えられなくなった。


放課後、いつもなら由莉と少しおしゃべりしてから帰るのだが、由莉が逃げるように教室を出たので、その後を追うように教室を出た。


だが、追いかけて何を話すと言うのか。由莉もとても辛そうだった。きっと灯依にはどうする事も出来ないんだろうとわかってた。


意気消沈して校舎を歩いていた灯依は、真人と出会った。


「灯依?どうしたんだい?」


真人の優しい声に、灯依は驚いて顔を上げたが、答えを濁した。


「……なんでもないんです。心配しないでください」


「君がそんな顔をしているのに、何でもないなんて信じられないよ」


真人はさらに言葉を続けようとしたが、灯依は「本当に大丈夫ですから」と繰り返し、足早にその場を去った。彼に相談する気にはなれなかった。


   ◇   ◇   ◇


家に帰った灯依は、ベッドの上で一人考え込んでいた。どうして由莉があんな言葉を残していったのか。


その時、机の上のスマートフォンが振動した。画面を見ると「由莉」の名前が表示されている。


「……由莉?」


灯依が電話に出ると、由莉の震えた声が聞こえた。


「灯依、少し話せる?」


「うん。どうしたの?」


灯依は不安を抱えながらも、由莉の言葉を待った。


「……今日はひどいことを言ってごめんね。灯依からしたら、迷惑だと思うけど、でも、どうしても話しておきたいことがあるの」


灯依は息を詰める。しばらく沈黙が続いた後、由莉は覚悟を決めたように口を開いた。


「私、実は二条家の命令で灯依に近づいたの」


「二条家、真人さんの命令……?」


灯依は驚きのあまり言葉を失う。


「ううん、違うの。私は二条家の後継者候補、ーー真人様とは別のねーー、その関係者なの。灯依が真人様から婚約者に指名された瞬間、すぐに二条家は動いたわ。そして偶然にも私が同じクラスだとわかり、すぐに灯依ちゃんに親しくなって、妨害しろって指示されてた。でも……それができなかった」


「妨害……なぜ?」


由莉の言葉に困惑する灯依。彼女は話を続けた。


「真人様は完璧なお方よ。でもね、つけ入る隙も無いから、真人様が当主になられると困る人たちもいるって事」


「そんなの私に何の関係があるの?いえ、そもそもどうして真人さんは私を婚約者に……」


「関係あるの。それは二条家の秘密が関わってるわ」


「秘密ってなに?」


「今の二条家当主様は真人様の大叔父様に当たる方。今もうご高齢で表には出ていらっしゃらないけど、その方が示した後継者の条件があるの」


「その条件に婚約者が関係するのね?」


「うん。当主様の示した条件は複数あって多岐に渡るわ。そしてどれも厳しくてね、条件を全て満たす人物が長らく現れなかったの。でも、ついに真人様は一つの条件を残して全ての条件を満たした。これは本当にすごいことよ?」


真人がすごいすごいと言う話は由莉からも何度に聞いた話だがとても実感がこもって話すなぁと思っていたら、関係者だったからなのか。妙に納得した。由莉は続ける。


「だからこそ真人様は次期当主に最も近いと言われていたのよ。そしてここからが灯依に関係する話よ」


「うん、お願い、聞かせて」


灯依はベットの上に正座してしっかり聞く体制になった。


「真人様が当主となる最後に残された条件は「天外人のチカラを宿す者と結婚すること」よ」


「てんがいじん?」


「二条家は、代々『天外人の血』を受け継いでいる一族。天外人っていうのは、遠い昔に宇宙から来たとされる存在で、その血を宿す人には特別な力が宿ることがあるの」


灯依は思わず声を上げた。


「……それ、何かの漫画の話?」


「信じられないのも無理ない。私も自分の目で二条家の特別なチカラを見てなきゃ、灯依と同じ反応したと思う」


由莉はさらに続ける。


「二条家以外にも天外人の血筋を受け継ぐ一族はあるけど、すべて真人様以外の候補者が手を回した。もちろん真人様が当主となるのを妨害するために。だから真人様は完璧でありながら当主にはなれなかった、あなたに出会うまでは」


「……え、待って。その話からして、まさか私が、その漫画みたいな話のヒロインみたいに聞こえるんだけど……?」


「いい表現ね。まさに灯依はヒロインなのよ」


灯依は言葉を失い、電話越しの由莉を睨みつけるつもりで、スマートフォンを見つめてしまった。


でも、由莉は構わずに続ける。


「灯依を妨害しろって言われたのは、その条件を真人様が満たさないようにするためだった。でも……灯依の前に立つと、私、自分を保てなくなるの。自分がどんどん醜いものに変わっていく気がして……」


「由莉……」


由莉の言葉には、後悔と苦しみが滲んでいた。


「本当にごめんね。灯依に酷いことを言ったけど、私、ただ怖かったの……、今こうして電話で話していてさえも、私の頭の中を虫が這いずり回ってるみたいに、強い不快感がある。私はまだ少しだけ天外人の血が混じってて、どうにか自分を保ってるけど……」


由莉の声は、最後には涙声になっていた。その切なくなる声を聞いて、灯依も自然と涙があふれてくる。そしてずっと思ってる疑問を灯依が口にする。


「どうして……どうして私なんだろう?」


「……灯依。こんな出会い方じゃなかったら、灯依と親友になりたかった!きっと仲良くなれたよ!だって灯依はすごく良い子なんだもん!でも、ごめん!灯依はなにも悪くない!それだけは信じて!ごめんね!」


何度も泣きながら由莉は謝ってた。灯依も一緒になって謝ってた。きっと由莉も灯依も悪く無い。ただ何かの大きな力が働いて、二人を引き裂いた。


由莉が謝りながら電話を切った。


その夜、灯依は何かを恨んだ。それが何かわからないまま。


   ◇   ◇   ◇


秋の風が柔らかく吹き抜ける中、学園全体が文化祭の熱気に包まれていた。生徒たちはクラスごとの出し物や模擬店の準備に追われ、あちこちから笑い声が聞こえてくる。


灯依が偽りの婚約者になって、いつの間にか半年の月日が流れていた。真人との関係は変わらずに偽りの婚約者のままで、真人の誘いで食事に行ったり、遊びに行ったりはするのだけど、お互いにどこか「偽りの」という言葉が胸に刺さっていて、関係性を深める事が出来ない。


由莉との関係は、自然と大勢のクラスメイトの一人になった。由莉は灯依のことを「千歳さん」と呼ぶし、用がなければ話す事もない。でも、ふとした瞬間に見せる由莉の表情が強い罪悪感を感じてようで、見ると辛くなるので、灯依は由莉を見ないようにしている。


灯依はクラスメイトたちと一緒に準備を進めていたが、その胸中は晴れなかった。


(いつまでこんな宙にぶら下がった関係のままでいなきゃいけないんだろう)


偽りの婚約者として過ごす日々は、楽しいことも確かにあった。しかし、彼の言葉や行動に対する疑問が完全に晴れることはなく、心のどこかで距離を感じ続けている自分がいた。


講堂では生徒会主催のイベントの準備が進んでいた。真人は率先してこのイベントの準備をしていたようだ。灯依が手伝おうかと提案したが、どこか嬉しそうに微笑んで「サプライズがあるから」と断られた。「文化祭を盛り上げるため」と語る彼の言葉に、周囲は疑いを抱くことなく協力していた。


文化祭当日、学園は一般客も迎え入れ、一層の賑わいを見せていた。灯依のクラスは喫茶店を出店しており、彼女もウェイトレス姿で接客に奔走していた。


「千歳さん、似合ってるよ!」


軽口を叩く男子生徒に照れながら笑顔を返す。だが、心の奥では何かが引っかかっていた。


(本当に、私がこんなふうに楽しんでいていいのだろうか……)


その時、クラスメイトが駆け込んできて声を上げた。


「千歳さん、生徒会長が呼んでるよ!すぐ講堂に来てほしいって!」


「えっ……?」


突然の呼び出しに戸惑いながらも、灯依は言われた通り講堂へ向かった。


講堂のステージでは、模擬挙式が進行していた。煌びやかな装飾と、観客席からの熱い視線。灯依が到着した時、司会が声高に告げた。


「さて、本日のスペシャルゲスト、千歳灯依さんが間に合ったようです!」


「えっ!?」


突然名前を呼ばれ、スポットライトが灯依に当たる。驚きで動けなくなっている彼女を、真人が迎えに来て手を差し伸べた。


「来てくれてよかった。さあ、行こう」


「えっ、ちょっと待って、これは……?」


困惑する灯依を真人は軽く引き寄せ、ステージへと連れていく。その瞬間、観客から歓声が湧き上がる。


「模擬挙式に選ばれたカップルは、なんとこのお二人!二条会長と婚約者の千歳さんです!」


ステージ上、灯依は真っ白なウェディングドレスを手渡され、真人はタキシード姿に身を包んでいた。


「真人さん、これは……?」


「文化祭の企画の一環だよ。驚かせてごめん。でも、どうしても君とこのステージに立ちたかったんだ」


真人の穏やかな声に、灯依は息を詰める。


(また、私の気持ちなんか関係なく……)


ドレスに着替えさせられ、真人の隣に立たされた灯依。眩しいライトが二人を照らし、観客たちの視線が注がれる。


「それでは、新郎新婦、手を取り合ってください!」


司会の声に従い、真人が灯依の手を取る。彼の手は温かく、どこか安心感を与えるもので……灯依の胸が一瞬だけ甘く震えた。


「こんなふうに、僕と結ばれてほしい」


観客には聞こえないよう、真人が囁く。その低い声に、灯依の心臓が跳ねた。


(結ばれる……?本気で言ってるの?)


彼の真剣な瞳を見つめると、その中には嘘の色は見えない。だが、灯依の胸には疑念もまた渦巻いていた。


(私がこの人に答えたら……また、傷つくことになるのかな)


迷いながらも、灯依は真人の手を握り返した。その瞬間、観客席から大きな拍手が沸き起こった。


だが、その空気を切り裂く声が響いた。


「二条会長!その人と婚約するのはやめるべきです!」


一人の女子生徒がステージに上がり、灯依を指差した。その目は憎悪に燃えている。


「彼女は呪われている!関わった人たちが不幸になるのよ!彼女の両親がどうなったか知ってますか?小学校のクラスだって……!」


女子生徒の言葉に、観客席がざわつき始めた。灯依は立ち尽くし、全身が震える。


(……どうして、今なの?)


灯依の後を追いかけてくる過去は、最も望まない時に追いつき、灯依を捕らえて離さず、古い傷を抉った。それは隠していたわけではない、調べたらわかることだから、他人からそれを指摘されても、平気だと思ってた。


でも、今は無理だ。今は何の身構えもなかった。真人に心を開こうとした瞬間だったから、何も身を守るものはなかった。


周囲のざわめきが頭の中でぐるぐると響き、真人の声も、観客の声も遠ざかっていく。


だが次の瞬間、真人が灯依の肩をそっと抱き寄せ、静かに言った。


「大丈夫。知っているから」


その優しい声が逆に鋭い刃となって、灯依の中に張り詰めた糸を切った。


「嫌だ……!」


思わず声を上げ、真人を突き飛ばした。


「知ってて近づいたの!?」


灯依は涙をこぼしながらステージを駆け下りた。人々の視線が彼女に集中する中、出口を探し求める。


「灯依!」


真人の声が後ろから響いたが、灯依は振り返らなかった。ただ涙をぬぐい、走り続ける。


(もう、嫌だ……どうして私ばかりこんな目に……)


胸の中で叫ぶような声が響き渡る。


灯依の心は、完全に壊れていた。


   ◇   ◇   ◇


文化祭から二日が過ぎた。


灯依は学校を休んでいた。胸の奥に重く沈む絶望と羞恥心が、足を前に進めさせない。


ベッドに横たわりながら、あの舞台での出来事が何度も脳裏をよぎる。真人の「知っている」という言葉。そして観客たちの視線――好奇心と噂話に塗れた冷たい眼差し。


「もうどんなに逃げても無駄なのに、逃げたいよ……」


そう呟いた時、玄関のチャイムが鳴った。


(誰……?)


灯依は重い体を起こし、そっと玄関のドアを開ける。そこに立っていたのは真人だった。


「灯依、少しだけ話をさせてほしい」


いつもと変わらない穏やかな声だが、その瞳はどこか悲しげに揺れていた。


「……話なんてありません」


灯依は言葉を短く切り捨て、ドアを閉めようとした。しかし真人が静かに手を伸ばし、ドアを押さえる。


「お願いだ。これが最後でもいい。僕の話を聞いてほしい」


その切実な声に、灯依は息を呑む。彼の真剣さが伝わってきて、拒絶する気力を奪われた。


「……少しだけです」


そう言ってドアを開けると、真人は小さく頷き、玄関先に立ったまま話し始めた。


「文化祭のこと、本当に申し訳ない。僕が君をあの場に連れて行ったせいで、あんな目に遭わせてしまった」


真人の声は真摯で、深い後悔が滲んでいた。


「……でも、あの女子が言ったこと。全部本当なんですよ」


灯依は自嘲気味に笑い、続けた。


「私と仲良くした人はみんな離れていく。壊れていく。私のせいで、みんなが傷ついてしまうから……だからもう私を構わないでください」


その言葉を聞いた瞬間、真人は静かに首を振った。


「違う。君のせいなんかじゃない」


「でも、真人さんだって知っていたんでしょう?私の過去も、……天外人の血筋だってことも」


真人の表情が強張り、目を見開いた。そしてわずかに視線を逸らした。その仕草を見た灯依は確信する。


「やっぱり……知っていたんですね」


その瞬間、心の中に溜まっていた感情が一気に溢れ出した。


「真人さん、嘘をついたんですね。最初から私のことを調べて、当主になるために私を利用した!ただ一つ条件を満たすために!」


涙を滲ませながら叫ぶ灯依に、真人は一歩近づいた。


「条件のこともーー、違うんだ、灯依!確かに僕は君のことを知った。でも、それは君を見つけた後のことでーー」


弁解する真人の言葉を遮って、灯依が叫ぶ。


「もういいです!」


灯依は大きく首を振り、耳を両手で覆いながら、真人を拒絶していると示した。


「偽りの婚約者を続けるのも、真人さんのそばにいるのも、もう耐えられません。あなたが何を言おうと、信じられませんから」


彼女の瞳から涙が零れ落ちる。それを見つめる真人の顔は、苦悩に歪んでいた。


「……分かった。僕はもっと早く君に話をすべきだった。なのに、君を守るつもりで黙っていた事が仇になった。僕には弁解のしようがない」


真人は静かに息を吐き、言葉を続けた。


「でも、最後に一つだけ伝えさせてほしい」


灯依は黙ったまま真人を見つめる。


「君と一緒にいる時間が、僕にとってどれほど大切だったか。本当のことだよ」


それだけを伝えると、真人は少しだけ微笑み、振り返って歩き出した。


その背中を見送る灯依の胸には、痛みとも安堵ともつかない感情が渦巻いていた。


真人が去った後、灯依はその場に崩れ落ちた。


「……これでよかったんだよね」


だが、自分で言ったその言葉が虚しく響く。彼を突き放したのに、心はますます孤独に苛まれるばかりだった。


(もう二度と、誰とも深く関わらない方がいい。私は一人でいるべきなんだ……)


そう自分に言い聞かせながら、灯依の瞳から涙が止まらなかった。


   ◇   ◇   ◇


それから二週間。


灯依は真人と顔を合わせることなく過ごしていた。学校に通ってはいるものの、彼の存在を避けるように廊下をすり抜け、授業が終わるとすぐに帰宅する毎日。


そんな様子を見て由莉がとても心配そうにしてて、声をかけるのを必死に我慢してる様子が窺えたが、灯依はあえて気づかない振りをした。いま由莉の優しさに甘えてしまったら、きっと由莉を傷付けて、もっと孤独になってしまう。


そんな日々を送る中、灯依の孤独感は深まるばかりだった。


(……どうして、こんなにも寂しいんだろう)


真人を拒絶したのは自分だ。それなのに彼を思い出さない日はなく、無意識に彼の姿を探してしまう自分がいた。


耳にした噂では、真人はしばらく学園に来ていないらしい。また生徒会の会長を辞任して今は副会長が代理しているとも聞いた。


もしかしたら他に条件に合う婚約者を見つけて、当主になったので、学園にはもう来ないのかもしれない。


ある日の夕暮れ、校舎の外でぼんやりと空を見上げてそんな事ばかり考えていたら、背後から静かな声が聞こえた。


「灯依さん」


振り向くと、そこには真人が立っていた。制服ではなく、スーツ姿。その佇まいはどこかいつもより大人びていて、少しだけ寂しそうな微笑みを浮かべている。


「真人さん……」


声をかけられるとは思っていなかった灯依は、言葉を失った。


「少し話がしたいんだ。これで最後になるかもしれないけれど」


灯依は迷いながらも頷き、二人は近くの校庭の片隅へ移動した。


夕陽が差し込むベンチに並んで座ると、真人は静かに口を開いた。


「灯依さん、僕は二条家の当主の座を辞退した。そして家も出た、今は二条家から分籍の手続きをしている。二条家には反対する者はいなかったよ。両親もね」


「……えっ?」


あまりに突然の報告に、灯依は目を見開いた。


「後継者の条件を満たすために、君を婚約者にした――そう思わせてしまったなら、それは僕の責任だ。君にこんな思いをさせたまま当主になるなんて許されない」


真人は静かに続ける。


「僕にとって、二条家の跡継ぎなんて肩書きよりも、君との時間の方がずっと大切だったんだ」


その言葉に、灯依の胸が大きく揺れた。


「……でも、私には“天外人”なんて力があるかどうかもわからない。それに、私と一緒にいると真人さんだって――」


言いかけた灯依を、真人が真っ直ぐな瞳で遮った。


「灯依さん、僕には“人の情報”が見える力があるんだ」


「……人の情報?」


驚く灯依に、真人はゆっくりと説明を始めた。


「ゲームで言うところのステータスみたいなものさ。僕は他人が情報の塊のように見えて、その人の容姿なんてわからないんだ。美醜なんかも数値では認識できても、その美しさに見惚れるなんて事は一度もなかった」


そのチカラこそ真人を完璧な後継者に押し上げた秘密なのだろう。由莉も言っていた二条家の血筋に現れる天外人のチカラ。


「だから真人さんは孤独だったんですね」


真人は心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃を覚えた。この力のことを打ち明けて、怯えられたり、羨まれたりはしたが、同情されたのは初めての経験だった。


「そう。だから、君を初めて見た時の衝撃は今の鮮明に覚えてる。灯依だけは、数字やデータじゃなく、ただ一人の“美しい女性”として見えた。それがどんなに特別なことだったか、君に知って欲しい」


真人の声には、深い想いが滲んでいた。


「一目見た瞬間に恋に落ちた。“この人と一緒にいたい”って心が叫んでいたんだ。君だけが特別だった。君が天外人の血筋だからなんて事は後で推測したにすぎないし、瑣末な事だった」


その言葉に、灯依の瞳から涙がこぼれる。


「でも……私、怖かった。誰かを信じて、またその人がいなくなったらどうしようって……」


震える声でそう告げると、真人はそっと灯依の手を取った。その手は温かく、強かった。


「決して灯依さんを利用するようなことはしないと誓うよ。お互いが求めるのは、ただ純粋な愛情だけ。利害や打算ではなく、心から愛し合える関係を築きたいんだ。僕は灯依さんが好きだ。他の全てを失ったとしても、君だけは失いたくない」


その瞳に宿る真剣さが、灯依の心の壁を少しずつ溶かしていく。


「……真人さん」


灯依は涙を拭い、震える声で続けた。


「私も、本当はあなたが必要だった。でも……離れていくのが怖くて、信じるのが怖かったの」


真人は微笑み、灯依の両手を優しく包み込んだ。


「僕は君を離さない。これから先、どんなことがあっても君を守るよ」


その言葉に、灯依は初めて安心感を覚えた。そして、自分の中に芽生えた感情に正直になれた瞬間だった。


「……私も、真人さんが好きです」


その告白に、真人は嬉しそうに微笑み、そっと灯依を抱きしめた。


「ありがとう。君の気持ちを聞けて、本当に嬉しい」


二人は静かに抱き合い、暖かな夕陽がその姿を包み込んだ。


「これから先、君だけは“かけがえのない人”だから」


真人の言葉が灯依の胸に深く刻まれる。これまでの偽りを超えた二人の絆が、本当の愛情へと変わった瞬間だった。


   ◇   ◇   ◇


二人は答え合わせをしました。


「真人さん、当主候補を辞退されて、家も出て、これからどうされるんですか?」

「灯依さん、心配いらないよ。私自身の財産はあるから、たちまち路頭に迷うなんてことはない。そして自分の事業を始めることにしたんだ。二条家は関係のない分野でね。今の与えられた役職も引き継ぎが終わったら退社予定だ」

「真人さんなら何をしても成功しそうですね」

「いやいや。僕にチカラがあったとしても、順風とは言えないんだ。慎重に準備しているよ」

「驕らないところも素敵だと思います」


「真人さんは、私のチカラはなんだと思いますか?」

「灯依さんは自覚がないんだね?」

「私は天外人なんて知らなかったですし、今まで私は誰とも親しくなれなかったのは、私自身は自覚なく相手を傷付けていたのかと……」

「安心して。決して灯依さんが誰かを傷付けているということではないから」

「じゃあ、いったい……」

「僕も灯依さんのチカラを全て把握出来ているとは思えないけど……」

「教えてください」

「真心に収束する、だと思う」

「え?」

「わかりやすく言えば、嘘はつけなくなるんだ」

「……由莉は頭の中に虫が這い回るような不快感って言ってました。ただ嘘はつけなくなるだけじゃない気がします」

「……そうか、やはり僕では君のチカラの全容は把握出来ないようだ。きっと僕のチカラが及ばないのも、灯依さんの方がより上位のチカラだから」

「まったく嬉しくないんです……」

「ごめん。でも天外人由来のチカラなら自覚すれば制御出来るようになるはずだ。僕も幼い頃は人の姿が見えないほどに情報に溢れていたけど、今はギリギリ人の形には保っている」

「そうなんですね。じゃあ、自覚して、うまく制御できたら、また由莉とも仲良くなれますか?」

「うん、きっとそうなる。僕もサポートするから」

「ありがとうございます」


「二人の結婚式なんだがーー」

「え、待ってください、私まだ16歳ですよ?」

「君が16歳、僕が18歳。法的には結婚できるだろう?」

「法的にはそうですけど!?」

「……あはは、冗談だよ。すぐに結婚しようって話じゃないんだ」

「もう!びっくりしました。真人さんならやりかねないと思っちゃいましたよ」

「もちろん、君が望むなら、すぐにでもーー」

「いえ、さすがに学生の間はちょっと……」

「では、3年後かな?」

「本当に私と結婚するんですか?もっとお互いのことを知ってから、決めないんですか?」

「うん、自分でも君の気持ちを無視して強引に推し進めてるという自覚があるよ。でもね、僕はもう君以外は考えられない。そうなると君の気持ちが変わらないうちに既成事実を作っていかなくては、という焦りがあってね」

「そんな心配しなくても、私だってあなた以外には無理ですよ。チカラがある限り、制御できたとしても、きっと破綻します」

「どうだろうね。僕は君ほど楽観視はしないかな。この広い世界で僕以上に君を理解して受け入れる人物はいるかもしれない。でも決して譲らない。言った通り、君以外を失ったりしてもね」

「真人さん……」

「まあ、今からでもどんな結婚式にしたいか考えておいてくれ。君が望むまま素晴らしい結婚式にしてみせるよ」

「はい。でもあんまり派手じゃない、静かで暖かな結婚式に憧れますね」

「君らしいね。二人で時間をかけて考えよう。二人の幸せについて、ね」

「はい」


二人はこれまでの孤独で傷付いた心をお互いに優しく手で撫でるように、癒していくのでしょう。

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