魔法ノ書編 4
「……ここ、どこ」
そこは、白い世界だった。どこまでも白が広がる世界だった。床が黒いだけ、亜空間の方がましだと思える、そんな世界だった。私は地平線すらないその場所で、呆然と佇む。
「天界じゃよ」
後ろから声がした。振り向くと、そこにいたのはフェンリル(大)だった。私はとりあえずもふもふの毛を堪能すべく、その巨体に抱きつく。ああ、もふもふだ。こんな感触のベッドが実にほしい。
「……一番最初にやるのがそれかの」
フェンリルから呆れた声が降ってきた。しかし、そうは言われても、この白い世界で何をすれば良いのかなど、皆目見当つかない。なので、とりあえず抱きついてみたまでだ。欲望のままに。
私は十分に毛を堪能した後に抱きつきを止め、フェンリルに問いかけた。
「で、天界ってどういうことさ?」
この真っ白で何もない空間が天界なの? というかそもそも天界って何? あと書の主って今更どういうこと? 所有者とは何が違うの?
そんな疑問たちを、湧き上がるままに次々とフェンリルにぶつけていく。
「それを説明することは、ワシには出来ん」
「何で?」
問いかける私に、フェンリルは短く一言、「乗れ」と言った。私が背に乗りやすいようにか、フェンリルは足を折って地に伏せる。しかし私は、ぽかんと間抜けな表情を浮かべるしかできなかった。
そんな私に、フェンリルはじれったそうに再度「乗れ」と言う。私は仕方なくよじのぼるようにして、その巨体に跨った。
フェンリルは、のっそのっそと歩き出す。思った以上の揺れに、私はぎゅっとしがみついた。
「どこ行くの?」
「神のところじゃよ」
「……神さまぁ?」
思わず変な声が出たのは、何というか不可抗力だと思う。だっていきなり神さまとか、どういうことよ。随分ファンタジーな話じゃないか。……いや、魔法ノ書とかいう時点で、だいぶファンタジーではあるのだが。
「ねえ、神さまってどういうこと?」
問いかけるが、フェンリルは口を開かず、何もない白い世界をただ進んでいく。何一つ応える気がないと知って、私も口を噤んだ。
「着いたぞ」
暇になり、フェンリルの上でうとうととしていた私は、その声ではっと覚醒する。身体を起こして見ると、そこには真っ白なドア「だけ」があった。えーと、何これ?
「フェンリル?」
「神の居る部屋に繋がっとる。チハル、行ってくるといい」
……ど○でもドアみたいなもんだろうか?
フェンリルから降り、私はそのドアの前に立つ。一度後ろにいるフェンリルを振り返ってから、意を決してドアノブを捻った。
そこは、一見して執務室のような部屋だった。壁際には本棚がずらりと並び、部屋の奥には大きな黒い机がある。……ずらりと本棚に並んでいるのが多種多様な漫画だったのは、見て見ぬフリをした。
机の奥には、一人の眼鏡をかけた細身の男が座っていた。その男は短い黒髪で、何というか、どこにでもいそうな男性だと思った。とてもではないけれど、フェンリルの言ったような、神様とか、そんな大それた称号を持つような人だとは思えない。
「あのー……?」
「よく来たね、相模千春さん。えと、こっちに来てくれるかな?」
柔和な声だった。何で私の名前を知ってるんだとか、本当に貴方は神さまなんですかとか、色々と言いたいことはあったのだが、私は言われるままに机の前まで歩み寄る。
「初めまして、千春さん。僕は神様をやっている太郎と言います」
申し訳ないことに、私は思いっきり吹き出した。いやだって、神さまとか言ってる癖に太郎って……! 太郎って……!
口を押さえながら肩を揺らす私に、神さまと名乗った彼――太郎さんは恥ずかしそうに頬を掻く。
「うーん、この名前、やっぱり変かなあ? ここに呼ばれた人は、みんな笑うんだよね。これを言うと」
「あ、ごめんなさい! その、変ではないと思います。……ただ、“神様”には似合わない名前だなあって」
「うーん、やっぱりそうかな?」
彼はそう言って穏やかに笑った。
個人的に、神=自分勝手好き放題とか、神=クトゥルフとか、そんなイメージだったんだけど、こんな神様もいるのか。いやそもそも、神様って本当に居るのかってところからなんだけど。
「まあ、自己紹介はこれくらいにしようか。今回、千春さんを呼んだのは、君が魔法ノ書の主として、認められたからだよ」
「えっと、それってどういうことなんでしょう?」
私はずっと疑問に思っていたそれを、彼にぶつける。彼は微笑んで、ぱちん、と指を鳴らした。その途端、私のすぐ後ろに座り心地の良さそうな、一人がけのソファが現れる。
「そうだね、まずは『魔法ノ書』がどういうものかっていう説明から始めようか」
彼は「話が長くなるから」と、ソファを私に勧めた。私はありがたくその言葉を受け取る。
そして彼が語るそれに、耳を傾けた。
魔法ノ書は、“神様”の素質がある人間を探すためのものなんだ。彼は唐突にそう切り出した。今更ながらに、随分とぶっとんだ話である。神様という存在が出てきた時点で、何となく察してはいたのだが。
魔法ノ書の所有権を得た時点で、その所有者は神様候補として認められるらしい。そもそも魔法ノ書は、ほんの少しでも神様としての素質がないと、絶対に見つけられないようになっているのだとか。
神様候補たちは、魔法ノ書によって、力の使い方や心のあり方などを測られる。上下巻をいつまでも揃えられなかったとか、書の持つ力にあまりにも溺れたり恐れたりするようであれば、神としての素質はないとされて、神様候補からは外される。
そうなると、魔法ノ書が異世界に転移するようなことが起きるらしい。……つまりは、「所有者の死」だ。えげつないなー。
そして、色々な側面から見られ、魔法ノ書の主として認められると、その人間は神様見習いとして天界に召し上げられるという。つまり、それが現在の自分らしかった。
……えー?
一体自分のどの点が神様に相応しいのか、全くもって謎だった。
「元々は、神様用の素体を作り上げて、それで運用していたらしいんだけどね。そういった素体たちは、大抵が人間の強い感情に心をやられて、暴走してしまうんだって。その点、元々人間な僕らは、そういったことも少ない。僕らは、人の心ってやつを身をもって知っているし、そもそも一人一人に深入りしようなんて思わないでしょう?」
太郎さんも元は人間だったらしい。彼も魔法ノ書を得て、そして神様になったのだという。ちなみに地球によく似た世界の出身らしい。そして漫画好き。……最後のは全く要らない情報だと思った。というか見れば判る。
「ちなみに神様って、何をやってるんですか?」
「そんなにやることはないよ。その世界が滅びないように、生命が絶えないように、ずっと見守るだけ。まあ三千世界くらい割当てがあるから、面倒ではあるけど」
本当に三千という数なのか、それとも仏教用語の方なのか判断がつかなかったが、どちらにしろ途方もない数だと思った。滅びないように、って程度なら、毎日見なくてもいいだろうから、一日十ずつくらい見ればいいのかな。
「あ、たまに新しい世界を作ることもするかな。漫画をモチーフにして作っても怒られないから、僕としては楽しい作業だね。千春さんも判るんじゃないかな。世界を作るのは、楽しいって」
「それは、まあ……」
彼の言う通り、私たちの世界を作るのは、すごく楽しかった。
あ、だから神様としての素質有りとして認められたのかも。何となく、そう考える。
「さて、千春さん。ここまで説明したけど、君はどうする? 神様になるかい?」
「……拒否権はあるんですか?」
私が問うと、太郎さんは苦笑した。
「別に強要はしないよ。……ただ、書の主として認められたにも関わらず、地上でずっと燻っていれば、いつか『魔法ノ書が異世界に転移するようなこと』が起きるだろうね」
「うわー……」
つまり、選択肢はないに等しい、と。
うーむと低く唸りながら、頭を抱えた。
「ちなみに、魔法ノ書の所有権を譲渡するか放棄するかすれば、普通の人に戻ることも出来るよ」
「……それはそれで、嫌だなあ」
ようやく、βテストまで漕ぎつけたあの世界を、今更「無」にするのは、嫌だった。折角、みんなが楽しむ世界が出来上がったのに。ファンタジーな世界のおすそ分けが、出来たと思ったのに。
今更、何もかもなかったことにするなんて、嫌だ。
「もし、神様見習いになったとして、私は何をすればいいんですか?」
「そうだなあ。しばらく僕の下について、職務の勉強かな。二、三週間に一度くらい、天界に来てくれればそれでいいよ」
見習いとして生きる限り、私はこの力を手放すこともなく、今のまま生きられるらしい。二、三週間に一度は、天界に来なくてはならないが、その程度の頻度であればそれほど苦にはならないだろう。
いやでも神様とか……何か、微妙だよね。
うんうんと俯いて思い悩む私に、太郎さんが言った。
「いきなり決めろって言われても難しいだろうから、地球時間で一ヶ月後。そのときに、答えを聞こうと思う。どうかな?」
「……はい、わかりました」
気が進まないものの、こくりと頷く。猶予が出来たのは、正直ありがたかった。
優しい口調で、太郎さんが言う。
「千春さん。そんなに悩まなくても、軽い気持ちでいいと思うよ? 判りやすいから神様って言ってるけど、実情は公務員みたいなものだから」
「こっ、公務員っ……」
どうしよう。一気に神様という存在がチープになってしまった。そう言われれば、確かに目の前の太郎さんは、すごく公務員っぽい。町役場とかに居そうだ、こういう人。
そう思うと、少しだけ気が楽になる。神様なんて仰々しいものは気がちっとも進まないけれど、『天界の公務員』なら、やってみてもいいかなって気が、ほんの少しはわいてくる。ほんの少しね。
「少しは、やるって方に傾いてくれたかな? 一ヶ月後の答えを、楽しみにしているよ」
「……はい。じっくり、考えてみます」
私は彼に一礼して、部屋を後にした。