異世界編 9
「……よし」
とある考え事をしていた私は、結論をまとめ、そう呟く。
立ち上がり、そして一言。
「クオくん、ちょっとトイレ行ってくるねー」
彼の返事を待たず、私はトイレに駆け込んだ。
ここからは(ある意味で)スピード勝負だ。
魔法ノ書を元の形に戻し、水属性、風属性、もしくは特殊属性の中から使えそうな魔法を探す。少しでも琴線に引っ掛かった魔法は、呪文を指でなぞって声に出す。
「……ええと、……清廉なる身を力に変え……」
何とか呪文を頭に叩き込まんと、私は繰り返し復唱した。
……え、何をしているかって?
新しい呪文を覚えているのだ。トイレで。
一人きりでゆっくり安心して過ごせる場所。そう考えた時、一番最初に浮かんだのが、情けないことにトイレだった。
これじゃあ、水魔法使いならぬ、水洗魔法使いだよ……などと考えたら無性に哀しくなったので、思考を停止させたが。
幸い、呪文は簡単なものが多いし、基本属性ならその呪文に規則性もある。一つ覚えるのに時間はそれほどかからなかった。
短時間で4つほど頭に叩き込み、魔法ノ書をブレスレットに戻す。そして何食わぬ顔でトイレから戻った。
「ただいまー」
そして、審判の時を待つ。
「お帰りなさい。あ、そろそろ夕食に行きませんか?」
……どうやらセーフのようだ。
「うん、そうだねー」
笑いながら、内心ホッとする。
これで、「遅かったですね? 大ですか?」とか「お腹壊したんですか?」とか言われた日には、乙女心が傷ついて立ち直れない自信があった。これからも時間に気をつけることを誓いながら、クオくんと共に宿の食堂へ向かった。
ギルドで新しい依頼を受け、私たちはまた街の外に繰り出す。
クリアさん――青い髪のお姉さんの名前だ。ずっと聞くのを忘れていたのだが、ようやく教えてもらった――に、随分ハイペースで依頼をお受けになるんですね、なんて感謝(?)された。
通常は、そうそう毎日、魔物退治には繰り出さないらしい。
毎日は疲労が溜まるし、戦闘職である以上、その疲労で出来た少しの隙が命取りになるからだ。
だが、クオくんはともかく、私は殆ど疲れを感じていない。
魔物を倒すのに、突っ立ってただ口を動かし、魔法を連発しているだけだからだ。
動くのは、魔物を探す時のみだ。
クオくんには、疲れていたら街で休んでいていいんだよ、と言ったものの、ついて来ると言って譲らなかった。
私がいるので怪我は殆どしないだろうが、一日くらいは小休止の日を設けた方がいいよな、と思う。
ちなみに、今日受けた依頼は3つだ。
依頼の内容を再確認した私たちは、街道から少し逸れたところを散策することにする。
そしてその時、悲劇は起こった。
「……あれ?」
「……あ」
不意に何かが無くなるような、そんな妙な感覚に声を上げれば、クオくんもほぼ同時に声を上げる。
「もしかして……」
「チハルさん……ごめんなさい」
「……あー、やっぱり?」
強張った顔のクオくんに、この感覚の正体を悟る。
彼の結界魔法が、切れたのだ。
魔法をかけなおそう。
そう思った瞬間に、がさりと茂みが動く。
そして間を置かず、何体もの魔物が飛び出してきた。
「ああもうっ! クオくん、とりあえず倒しちゃおう!」
「はい!」
私たちは即座に臨戦態勢を取る。
結果的に言うと、それは大きな間違いだった。
「こ、れで……終わりッ!」
そして、それから約20分。
次から次へと、どこからこんなに湧いて来たんだお前ら、という魔物の群れを倒し続けていた私たち。
ようやく訪れた平穏に、へとへとになって地面に座る。
辺りはすでに、魔物の死骸で地面が見えないほどだ。倒した数は200を恐らく越えるだろう。
クオくんに結界を張ろうと思っても、その前に魔物が次から次へとやってきて、集中できなかった。結界魔法……というより特殊属性の魔法は、基本属性よりも遥かに高い集中力を必要とするためだ。
なので、どうすることも出来ずに、今に至る。
「はぁ、……チハ、ル……さん、ご、め……なさ……はぁ、はぁ……」
「……いや、……しょうが、ない……気に、しない、で……」
二人して酷く息を切らしながら、そう言葉を交わす。
クオくんには自分の身を守ることだけを考えてもらっていたし、私はただ口を動かし呪文を言っていただけだ。
でも、数が数なので、喉の疲労が半端ない。ああ、本当に疲れた。
「……とりあえず、結界、かけるね? ……『魔を隔てし結界よ、彼の者に次元の加護を』」
ようやく使うことの出来た結界魔法に、私は安堵の息をつき、そのままその場に横になる。辺りは魔物の死骸で汚れていたが、もうそんなことどうでも良かった。今は体力回復を優先しなくては。
しばらくぐったりと横になっていれば、息も落ち着いてくる。
「……でも、指定の魔物も全部いたし、今日はもうこれで依頼も終わり……だね」
「そう、ですね……早く帰りましょう……」
よいしょ、と起き上がった私は、クオくんも手伝ってもらいながら、その辺りに散らばった死骸から部位を回収する。
依頼を受けていない魔物の死骸も当然あったので、一緒に回収しておく。
換金出来るかどうかはわからないが、放置は勿体無い気がしたのだ。
「……帰ろっか」
「……はい」
今日はもう昼食食べて、宿に帰って、ゆっくりしよう。
ギルドへの報告は明日だ、明日。
肩を落としながら、私たちは街へ戻った。
街に戻り、昼食に選んだ店で、私は驚愕の真実を知った。
「……え、これ、魔物……?」
ちょっと変わった味がするな、と思ったその肉が、なんと魔物の肉だったのだ。
「……あのさ、もしかして、宿でも魔物の肉って、出てた?」
「えっと……知らなかったんですか?」
クオくんに平然と言われ、泣きたくなった。
よくよく聞いてみたら、家畜の肉は非常に高価で、殆ど庶民の口には入らないらしい。
魔物は、この世界では常食されているのだという。それは、当然のことだろう。
が、そうとわかっていても、正直抵抗感は拭えない。
だって、襲ってきた熊を撃退して、そのまま熊鍋にするようなもんだよ?
しかも、まだ熊なら見た目がわかっているからいいけど、エスカルーナみたいな見てて気持ち悪い魔物の肉だったりしたら……。
ぶる、と生理的なもので、身体が震える。
結局その後、その料理をそれ以上食べる気にはなれず、残してしまった。
「……夕食のときは、何の肉とか、何の野菜とか、絶対気にしないようにしよう」
私はそう決意する。
所詮、慣れだとは思うけど。
きっとすぐ、気にしないようにはなると思うけど。
しがない一般高校生の私には、刺激が強すぎでした。
「……ぅげっ」
クオくんがトイレに行っている間に、ごちゃごちゃになった亜空間の中の荷物を整理していた私は、突然鳴り響いた甲高い機械音に、眉を顰める。
ああ、とうとう携帯電話のバッテリーがお逝きになってしまった。
そもそもこちらに来た時点で電池の残りが二個しかなかったので、触っていなかったとしても限度がある。
それはわかっていたが、携帯は弄っているだけで元の世界を思い出せる唯一の物だったので、寂しさが胸を占めた。
が、しんみりしていたとしても、どうにかなるわけではない。
雷属性が使えれば何とかなるかもしれないが、使えないのだから話にならない。
……ああ、今日は厄日だ。
溜息を吐いて、ただの金属の塊となったそれを、他の物たちと一緒にカバンに放り込む。
クオくんが戻ってくるまでの少しの時間、私は不貞寝することにした。
次の日。
今日は何事もなく、数々の依頼を短時間で終えることが出来た私たちは、今日は一日、休息日にすることにした。
この街には図書館があるとのことだったので、後でそこも行きたいな、と考えつつ、まずはアルバートさんのところに行くことにした。
“数々の依頼”というのは、昨日倒した依頼外の魔物の部位を、そのまま流用したためだ。
依頼を受け、外に出て証拠部位を取り出してから、すぐにギルドに戻る、という裏技? 荒業? で200体を越える魔物の殆どを換金してもらうことが出来た。
それをした時、少し、クリアさんの表情が引き攣っていた気がする。が、ただの気のせいだろう、気のせい。
「アルバートさーん!」
門に居たアルバートさんがフリーになったのを見計らい、私は彼をテンション高めに呼ぶ。こちらに気付いた彼は、小さな微笑で迎えてくれた。
「おお、チハルじゃないか。久しぶりだな。……ん、そっちの子はどうしたんだ?」
「クオくんはえっと……私の友達です!」
「そうか」
私の言葉に、アルバートさんがほんの少し目尻を下げる。
きっと、私に友達が出来たことを、喜んでくれているのだろう。
だって私は、森の奥で暮らしていたということになっているのだから。
……その内、アルバートさんに、嘘をついたことをちゃんと謝りたいな。いつになるかは、わからないけど。
「クオ、というのか。……これからもチハルをよろしくな」
まるで私の父親みたいなことを言う彼に、私の胸がほっこりする。
きっと、心から私を心配しているが故の台詞なのだろう。
「いえ、僕の方こそチハルさんには良くしていただいて……!」
「そうか」
それを聞いたアルバートさんが、優しくクオくんの頭を撫でる。
クオくんは一瞬驚いたように肩を揺らしたが、彼の手に身を委ねるように力を抜いた。そして嬉しそうに緩む頬。
うんうん、わかる。彼の手って魔性の手だよね!(とても語弊のある言い方)
「そういえば、今日はどうしたんだ?」
「あ、そうでした。これ、返しに来たんです」
カバンから二枚の金貨を取り出すと、彼は驚いたように口を開く。
「……無理に返そうとしている、わけじゃないみたいだな」
「はい。依頼を沢山受けて、魔物を倒しまくりましたから! ね、クオくん?」
「でも、殆どチハルさんが倒してましたけどね?」
「クオくんも頑張ってたよ!」
それはお世辞ではなく事実である。
誰にも手解きを受けていないというのに、一対一ならば、この辺りに出る大抵の魔物を相手出来るようになったのだから。
私からすれば、凄いの一言に尽きる。きっと彼には、剣の才能があるのだろう。
「でも……」
「どちらも頑張った、でいいだろう?」
アルバートさんの言葉に、クオくんが少し戸惑って、やがて頷く。
彼は照れたように笑っていた。
そこに、以前もアルバートさんと一緒に門番をしていた、赤い髪の人がやってくる。
そしてまたしても一言。
「隊長……そろそろナンパから戻ってきてください」
「……だから何を言っているんだ、お前は」
肩を竦めるアルバートさんに、赤髪の人がほんの僅かに表情を変える。
そのなんとも言いがたい微妙な変化に、何かが私の勘に引っ掛かった。
一体何だろう?
が、その正体を掴む前に、アルバートさんが口を開く。引っ掛かりはすぐに霧散してしまった。
「チハル、クオ。私は職務に戻る。では、またな」
「はい、また!」
「えっと、さようなら!」
二人でその背を見送る。
「……あれが「くうでれけーないすみどる」なんですね!」
「……いや、え、うん」
ああ、クオくんに変な単語を植えつけてしまった。
私はごめんと、心の中で合掌した。