9 予想外の告白
フィーネが立ち去った後、シオンはじっとテーブルに残された魔術言語に視線を落としていた。
唇を引き結んでそれが指し示す高度に抽象化された理論を追う。
何かに気づいたように、瞳を小さく見開く。
「あの、シオン様。お姉様は具合が悪いようですし、よかったら私と――」
しかし、フィーネの義妹であるオリビアの言葉はシオンの耳に届いてはいなかった。
弾かれたように顔を上げ、フィーネが立ち去った方角へ急ぐ。
テーブルに書かれた証明の断片が彼の心を激しく揺さぶっていた。
(あれは、《黎明の魔女》が書いた『八次元と二十四次元における魔法式崩壊定数の考察』と同じ古代魔法の論理展開――)
衝動を抑えることができない。
真っ白な頭でフィーネの後を追う。
仮病を使って会場を離脱したフィーネは、私室のソファーに腰掛けてほっと息を吐いていた。
「大丈夫ですか、フィーネ様?」
ミアが心配そうに言う。
「フィーネ様がお腹を痛められるなんて……大奥様が嫌がらせに腐った食べ物を出しても、まったく気づかずに食べて平気な顔をしてたフィーネ様なのに……」
「その話、私知らないんだけど」
「フィーネ様は普通に目を細めておいしいって言ってました」
(あれ? もしかして、私ってとんでもなく貧乏舌なのでは……?)
一瞬そんな疑念が浮かんだが、何でもおいしいと感じるのは良いことだし、深くは考えないことにした。
都合の悪いことからは全力で目をそらしてフィーネは楽しく毎日を生きることにしている。
「あ! お腹治ってきたわ。大丈夫みたい」
「ほんとですか! よかった」
「治ったらお腹空いてきたわね。後片付けを担当する侍女さんに言って、残ったお料理を持ってきてもらえるよう頼んでくれないかしら」
「わかりました! 容器いっぱいに持ち帰ってきますね!」
張り切って部屋を出て行くミア。
一人になったフィーネは、ほっと息を吐いて周囲を見回す。
幽霊さんはいない。
気になるものでも見つけてその辺をふらふらしているのだろう。
(ああ、落ち着く……! 一人最高……!)
人でいっぱいだった騒がしい会食会場を離れ、ソファーに寝転んでごろごろしていると、不意に聞こえたのはノックの音。
(ミア! 早かったわね!)
「ごはん♪ ごはんー♪」と鼻歌を歌いながら扉を開けたフィーネは、そこにいた人物を見上げて固まった。
《氷の魔術師》シオン・クロイツフェルト。
《黎明の魔女》を付け狙う天敵であり、政略結婚の相手である旦那様。
「け、決して腹痛が嘘だったわけではなくてですね。私室に戻ったら落ち着いたと言いますか」
「嘘なのは最初からわかっている」
「えっ!?」
「それより、先ほどの証明のことだ」
驚くフィーネを壁際に追い詰めて言った。
「六行目に書かれた第二補助式を使った論理展開。あれを誰に教わった?」
(あ、これロマンス小説で見たことあるシチュエーション)
壁にドンされる昔ながらのやつ。
(実体のある男性と話したこともほとんどない私が経験する日が来るとは)
他人事みたいに思ってから、問われたことへの返答を考える。
(幽霊さんに教わったっていうのが本当のところなんだけど、そんなこと言っても頭のおかしい子扱いされるだけだろうし……)
いったいどう答えればうまくごまかせるだろう。
思考をめぐらせるフィーネに、シオンは言った。
「《黎明の魔女》に教わった。違うか」
フィーネは呼吸の仕方を忘れた。
「どうして……?」
「《黎明の魔女》が書いた『八次元と二十四次元における魔法式崩壊定数の考察』と同じ論理展開が使われていた。あれを使いこなせる魔法使いが他にいるとは思えない」
彼の言葉が客観的に見て妥当性のある事実に基づいていることを、論文の著者であるフィーネは誰よりも理解していた。
(なんでそんなに細かいところまで……)
フィーネは心の中で頭を抱える。
(そこまで徹底的に調べ上げるほど私に強い恨みを持っているということ……!?)
間違いない。
命の危機だ。
なんとしてでも、正体が特定されるのだけは避けなければならない。
しかし、下手なごまかしが通用しないのは、人付き合いをほとんど経験せずに育ったフィーネでも感覚的にわかった。
(私が《黎明の魔女》本人だと思わなかったのはおそらく、年齢が若すぎるから)
まさか、『八次元と二十四次元における魔法式崩壊定数の考察』の論文を十二才で書いたとは思わなかったのだろう。
(であれば、その誤りを最大限利用して真実味のある嘘を作る……!)
「そうです。《黎明の魔女》に教わりました」
シオンの形の良い瞳が見開かれた。
「どこで彼女に会った?」
「お屋敷の裏手にある山です。お屋敷を抜け出して遊んでいたら偶然お会いして、仲良くなって」
「どのくらいの時期だ?」
「八年前です」
《黎明の魔女》として活動を始める前だ。
これなら、探られても何の手がかりも出てこない。
「やっと手がかりを見つけた……」
小さなつぶやきが零れた。
大きな喜びの感情がそこには混じっているように感じられた。
(あれ? なんだかちょっと人間っぽい)
冷酷無慈悲で感情がないという評判だったはずなのに。
意外な表情に感心しつつ、フィーネはこの状況を最大限利用する策を考える。
(《氷の魔術師》はこれから《黎明の魔女》の正体を追うはず。この感じだと今まで以上に仕掛けてくるかもしれない)
自らの正体を暴こうとする危険な天敵。
安全を確保して公爵家の中を探索するためにも、彼の動向については確実性の高い情報が得られる状況を作っておきたい。
「よかったら、協力させてもらえませんか」
フィーネの提案に、シオンは唇を引き結んだ。
「……協力?」
「私にも《黎明の魔女》を追うお手伝いをさせてもらえないかな、と」
「どうしてそんな提案をする?」
「一応形式上ではパートナーになったわけですし、力になりたいなって」
「君にそこまでする理由はないだろう」
シオンは言う。
「ありますよ。旦那様なので」
「俺は君を冷たく突き放した」
なるほど。
そのことを気にしていたらしい。
「大丈夫です。全然気にしてませんから」
「しかし……」
言いよどむシオン。
フィーネはなんとか口を開かせようとするけれど、堅牢な意志の壁はなかなか崩せない。
「できない。君にそこまでは頼めない。絶対に」
「どうして?」
「形式上とはいえ、君が私の妻だからだ」
(なるほど。たしかに他の女性を探す手伝いを頼むのは、結婚したばかりの奥さんに対してやっていい行いではないかもしれない)
その理由が、たとえ《黎明の魔女》を見つけだしてボコボコにすることだったとしても、結婚相手からするとうれしいことではないはずだ。
(つまり、その不安を払拭すれば事態は改善できるわけね!)
突破口を見つけて、フィーネは言った。
「大丈夫です! 私も旦那様と同じであくまで形だけの政略結婚のつもりですし、男性として全然見ていません! 生きている人間より本と魔法の方が好きなので、何があってもまったく傷つかないと断言できます! なので、安心して私に協力させてください」
シオンはしばしの間、逡巡してから言う。
「本当にいいのか?」
「ええ。問題ありません」
「俺がどういう理由で彼女を追っていたとしても?」
「はい。旦那様にまったく興味ないのでっ」
力強い断言に、シオンはじっとフィーネを見つめて言った。
「わかった。ありがとう。よろしく頼む」
(よし! 協力関係完成! 敵内部の情報は全部私に筒抜けよ!)
勝利を確信し、心の中で悪い笑みを浮かべるフィーネ。
(さあ、情報収集といきましょう。まずは私にいったいどんな復讐をするつもりなのか)
復讐の内容について把握しておけば、前もって対策と準備をすることもできるかもしれない。
「でも、どうして《黎明の魔女》を探しているんですか?」
「それは……」
「大丈夫です。どんなに残虐な理由だろうと私は引いたりしません。安心して、用意しているえげつない報復の方法と一緒に教えていただければ」
「君は俺のことを何だと思ってるんだ?」
「悪めなご家庭ですくすくと育った少しだけやばめな次期当主様です」
「…………」
深く息を吐いてから、シオンは言った。
「君の考えているような理由じゃない。むしろ逆だ」
「逆?」
「俺は彼女に感謝している。そして、多分……」
かき消えそうな声で発せられたその言葉を、フィーネはうまく聞き取ることができなかった。
「すみません。よく聞こえなくて」
「ああ、すまない」
頭をかいて、顔をそむけて言った。
「恋をしている。彼女に」
「………………」
フィーネはしばしの間無表情でシオンを見上げていた。
やがて、言った。
「………………は?」