8 誰も気づかない冴えたやり方
いったいこの人は何を言っているのか。
まったく状況が呑み込めず、困惑するフィーネに男性は続けた。
「君の望みはなんだ。私が用意できるものならどんなものでも用意しよう。どうすれば君を研究室に呼べるのか。それを私に教えて欲しい」
まくし立てるような言葉。
身を乗り出してきた男性にフィーネが後ずさったそのときだった。
「申し訳ありません、先生」
ふわりと香るシトラスの香り。
割り込んできたのは形式上の旦那様――シオン・クロイツフェルトだった。
「妻が思索の邪魔をしてしまいましたか?」
何かフィーネが粗相をしてしまったと思ったのだろう。
当然だ。
あの状況を見ていたものなら、誰でもそう思う。
(《氷の魔術師》が先生と呼ぶ相手……?)
一方で、フィーネは髭をたくわえた男性が何者なのか、思考を巡らせていた。
彼女は王国魔法界のことにあまり詳しくない。
知ることによって悩みが増えそうなのが嫌だったし、そもそも他人のことにあまり興味がない性格なのだ。
人間界のあれこれより、魔法と本の方がフィーネにとって幸せをくれる重要なものなのである。
(多分かなり上の方にいる方だと思うけど。いったい……)
フィーネはじっと白髭の男性を見つめた。
視線の先で男性が言う。
「シオン君、教えてくれ。彼女は何者だ。どうしてあんな証明が書ける」
「証明?」
怪訝そうに言うシオンに、男性はテーブルに書かれた証明を指さす。
「……これを君が?」
シオンの言葉に、フィーネは戸惑いつつもうなずいた。
「そうですけど」
「ここで使われているのは現代魔法理論とはまったく異なるアプローチと思考法だ」
白髭の男性は言う。
「王立魔法大学で名誉教授を務める私でさえ全容を理解することができない高度で複雑な古代魔法の応用」
(名誉教授!? めちゃくちゃすごい人じゃない!?)
想像以上の大物で絶句するフィーネ。
「しかも、即興でだぞ。私のメモを見て一分足らずでこれを書いてしまった」
興奮した声で言う名誉教授。
気がつけば、周囲には人だかりができている。
騒ぎを聞きつけて寄ってきたのだろう。
(な、なんか大変なことになってしまってる……!)
動揺のあまり白目になるフィーネ。
幽霊屋敷でずっと一人で暮らしてきた彼女には、あまりにも荷が重すぎる注目度。
(落ち着くのよ私……このくらいのことに気圧されてなんていられない。私には、街路に咲く蒲公英のように踏まれ続けて育った逆境耐性がある……!)
自分を奮い立たせ、周囲ににっこりと笑みを返して言った。
「今朝たまたま読んだ本に、似た発想の部分があって思いついただけなんです。さすが先生は褒めるのがお上手ですね。では、お腹が痛いので本日はこの辺りで失礼させていただきます」
三十六計逃げるにしかず。
自然に状況を離脱する完璧な作戦。
(さすが私! 病気のふりをするなんて高度な作戦、みんな考えたことないだろうし、絶対にバレるはずがないわ!)
世間知らずで人とのコミュニケーションをほとんど取らずに育ったフィーネは、勝利を確信し自信に満ちた表情でその場を後にした。
(なんだあのあまりにもわかりやすい仮病……)
フィーネの逃走作戦が誰にも止められなかったのは、それがあまりにも見え透いた程度の低すぎるものであったからだった。
人間というのは不思議なもので、露骨に隙のあるものを見せられると、何か裏があるのではないかと勘ぐってしまう性質がある。
まして、フィーネの場合はそれまでの状況が彼女を後押ししていた。
王立魔法大学で名誉教授を務め、《氷の魔術師》の師としても知られるオースティン教授が絶句するほどの才能を見せた伯爵令嬢。
外に出ることもできないひきこもりで、何もできない出来損ない。
そんな社交界での噂は、ほんの数分でまったく違うものに塗り替えられ始めていた。
(無能だなんてとんでもない。クロイツフェルト家が目を付けたのはこれが理由か。いったいどこでそれほどまでの力を……)
息を呑む貴族たち。
(何者なんだ、あの子は……)