49 知らなかったこと
王宮の図書館はフィーネが想像していたよりずっときらびやかで美しい建物だった。
元々この国の王族は、知識と本に強い関心があったらしく、五百年以上前から古典と聖書の写本が熱心に行われていたという。
印刷技術の発明後も熱心に写本は続けられ、飾り文字などの工夫も施されるようになった。
八十年前に先々代の国王によって建てられたこの図書館は、ロストン・ナーベック様式の傑作と言われる大広間が名高く知られている。
複雑な曲線が織りなす荘厳な装飾。特徴的な化粧漆喰が重ねられたその中心には古の宗教会議を題材にした天井画が飾られている。
入り口には「魂の病院」と飾り文字で書かれている。
先々代の国王は、知識と教養に心を癒やす効果があると信じていたからだ。
二千冊を超える写本と一万冊を超える蔵書。
フィーネがすることになった最初の仕事は、展示されている写本を一ページずつ丁寧にめくる仕事だった。
「そのままにしておくと変形してしまうからね。古い写本はこの作業を行うことで当時と変わらない状態で保たれている。この仕事は必ず二人一組で行わないといけない。まだ印刷技術が無く、すべて羊皮紙に描かれているからね。当時の技術では羊一頭から四枚の羊皮紙しか取れなかったから、この一冊に二百九十頭の羊が使われていることになる。重量が二十四キロあるから取り扱いには細心の注意を払うように」
フィーネに仕事を教えてくれるのは三十歳くらいの男性だった。
眼鏡をかけた彼は几帳面かつ生真面目で、いつも深刻な顔で何やら考えている様子だった。
「……ちなみに、もし破ってしまったらどうなりますか?」
「君はこの国の人々が綿々と積み重ねた時間と努力を無に帰すと言うのかい? そんなことがあっていいと思っているのかな? 正気かな?」
「…………」
怖かった。
魔の山で戦っていた魔物よりもずっと怖かった。
(この世で一番怖いのは人間なのかもしれない)
おっかなびっくり写本をめくっていく。
強い恐怖を感じずにはいられない仕事ではあったけれど、それは他では経験できない貴重なものに触れられる時間でもあった。
ざらざらとした羊皮紙の表面をそっとなぞる。
硬いその一枚を慎重にめくる。
竜の返り血を浴びたことで怪物になった剣士について書かれた叙事詩。
五線譜ができる原型になった五つの線とメロディを示す記号。
悲しみが悲しみを呼ぶ戦乱の記憶。
これが数百年前に書かれたものだと思うと、不思議な気持ちになった。
たくさんの名も無き人たちが、この本を後の時代に届けるために今のフィーネと同じ仕事を続けてきたのだ。
しなければいけない仕事は他にもたくさんあった。
破れたページを糊で接着して丁寧に補修した。
棚の埃を拭き取り、できたばかりの蜘蛛の巣をこそぎとった。
花瓶の水を替え、古くなった魔導灯を交換した。
それらの仕事はフィーネにとって新鮮で楽しいものだった。
フィーネは何度か失敗しながらも、それらの仕事に順応していったし、ある日の午後には館内に入り込んだ毒を持つ蜂を捕まえて追い出し、同僚たちに感謝されたりもした。
しかし、その一方でシオンとはすれ違い続きだった。
同じところで働いているのだから、お話しする機会もあるだろうと思っていたのだけど、シオンは仕事に忙殺されていたし、王宮は街のように広いから顔を合わせる機会さえない。
「シオン様はただいま外出中でして」
何度目かわからない言葉に、唇をとがらせつつ王宮の廊下を歩く。
邪魔でならない胸の高鳴りを考えると、距離を置くこと自体はフィーネの望みでもある。
しかし、ここまで会えないでいると、少し寂しいと感じてしまうのだから人間の心は不思議だ。
恋愛は神経症の一種だし、この状況はフィーネにとっては都合が良いはずなのに。
それでも、不満を感じずにはいられなくて。
遠ざかりたいけど近づきたくて、近づきたいけど遠ざかりたい。
一人でもまったく不満なく生きていけるタイプだと思っていたのに、知らなかった自分がそこにいる。
「ばーか。シオン様のばーか」
階段を降りながら小声でつぶやいたそのときだった。
「どしたん? 話聞こか?」
頭上からかけられた声に、慌てて斜め上を見上げた。
階段の上から手すりに身体を預ける形で、軽い印象の男性がフィーネを見ている。
《風の魔術師》――ウェズレイ・フリューゲル。
「げっ」
「そんな顔せんでもええやん。傷つくわぁ」
けらけらと笑いながら言うウェズレイ。
「当然の反応だと思います」
「えー、親切で一途で仲間思いなボクなのに」
「嫌味で性悪で人の血が通っていないの間違いでは?」
「ひどー。フィーネちゃんひどー」
冗談めかして言ってからウェズレイは続ける。
「その感じやとシオンくんとはやっぱりうまくいってないみたいやね」
「そんなことないです。すごくうまくいってます」
「で、今日は彼と会えそう?」
「……会えそうにはないですけど」
「それは残念やね。でも、百パーセント悪いこととも言い切れんと思うよ。会えてた方がよりつらい思いをすることもあるかもしれん。不運に見えることが実はもっと大きな不幸から自分を守ってくれてることもある」
「何が言いたいんですか?」
「彼、ずっと無理してるやろ。ベルナール卿を追いやったときから。いや、その計画を本格的に準備し始めた頃からほとんど休んでない。元々自傷行為みたいな働き方してた子やから、そういうのが癖になってるんやろね。でも、そんな生き方をしてたら必ずいつか破綻の日が来る」
ウェズレイは静かに目を細めて言った。
「多分今日辺り、シオンくん倒れるで」
◆ ◆ ◆
身体が重い。
泥の中を泳いでいるみたいに。
息がうまくできない。
がんばらないと。
もっとがんばらないといけないのに。
そうじゃないと誰も自分を愛してくれないから。
もがけばもがくほど沈んでいく。
「シオンさん! 大丈夫ですか、シオンさん!」
部下の声が聞こえる。
大丈夫だ、と答えようとする。
だけど声は出ない。
視界は黒に染まり、熱を持った身体はその機能を停止している。
思いだされたのは昔のことだった。
記憶の中のシオンは高熱にうなされている。
身体は小さく、世界は大きく見える。
彼はまだ子供で、助けてくれる両親を求めている。
だけど両親はいない。
「ごめんね。シオン、ごめんね」
それが最後の言葉だと記憶している。
祖父の家での生活は地獄そのものだった。
信用できる人は一人もいなくて。
だから、ずっと窓の外から屋敷の門を見ていた。
あの日見送った、両親が乗っている馬車。
いつか迎えに来てくれると信じたかった。
しかし、そんな日は来なかった。
自分は一人で生きていかないといけないのだ。
誰も助けてはくれない。
優しくしてはくれない。
高熱にうなされていたあの日もそうだった。
家庭教師の授業中に倒れたシオンに祖父は言った。
「今日の授業のためにどれだけの金をかけたと思ってる。愚か者め」
怒りと侮蔑に満ちた言葉だった。
「罰を与える必要がある。鎮痛剤は打つな。苦しみを学習させろ」
痛くて。
苦しくて。
そんな時間が永遠のように長く続いて。
「お母さん」「お父さん」と必死で呼んだ。
見つけてほしくて。
助けてほしくて。
でも、結局最後まで自分は一人だった。
知っている。
誰も助けてはくれないのだ。
だけど、こんなに苦しいなら。
生きていくことに何の意味があるのだろうか。
終わりにしたいとどこかで思っていた。
くだらない自分の身勝手な自殺願望。
自傷するみたいに危険な最前線に向かった。
痛みが増えると安心できた。
自分が損なわれるのが心地良かった。
沈んでいく。
深いところへ落ちていく。
最後には壊れた人形みたいに、動くこともできなくなって。
血溜まりの中から、細い糸のように降りしきる雨を見ていた。
(これが終わりか)
灰色の景色。
身体から何かが漏れている。
(最期まで一人だったな)
視界がにじんだのはきっと雨のせいだったと思う。
それから、どうなったんだっけ。
そうだ。
なのに、彼女は言ったのだ。
『決めたわ。絶対に死なせないから』
その人は必死で自分を救おうとしてくれた。
そんなこと初めてだったんだ。
身体にあたたかいものが満ちていく。
これは記憶なのだろうか。
いや、違う――
目を開ける。
ぼやけた視界に、誰かの姿が映る。
黄緑色の魔法式――回復魔法。
「ほんと無理ばっかりして」
あきれた声がいつかのあの人に重なる。
《黎明の魔女》がそこにいると思う。
だけど、それは錯覚だ。
よく似てるけど違う人。
――好きな人。
(フィーネがどうして)
驚く。
迷惑をかけてはいけないなんて思って、しかし身体は動いてくれない。
彼女の髪は少し乱れていて、慌てて来てくれたのがなんとなくわかった。
誰も助けに来てはくれないと思っていた。
一人で生きていかないといけないと。
母も父も助けに来てはくれなかったから。
だけど、彼女はそこにいて自分を救おうとしてくれている。
(こんなことが自分にもあるのか)
心の中が暖かいもので満ちていく。
救われた、と思った。
生きていけるかもしれない。
悲しみと苦しみに満ちた世界でも、もしかしたらなんとかやっていけるかもしれないって。
(この子のためなら、自分はすべてを失っても構わない)
彼女が自分を見ていなかったとしても。
この子を見ているだけで自分は幸せだから。
すべてを捨ててでも、君が幸せに笑える未来を作る。
シオンは決意している。
自分の安息は、そこには含まれていなくて。
でも、それでいいと思っている。