5 顔合わせの日
(ああ、なんておいしいお食事……! こんなに素晴らしいものがこの世にあるなんて……!)
公爵家での新生活二日目。
フィーネは頬に手を当てながら、昨日の残り物と朝食に舌鼓を打っていた。
「フィーネ様! このお肉、やわらかくてすっごくおいしいですよ!」
侍女のミアが声を弾ませる。
主人であるフィーネが許したとは言え、まったく遠慮無く食べるこの侍女の職業倫理はどうなっているのだろう、と幽霊は首をひねったが、おいしいごはんに夢中なフィーネは気にしていないようだった。
食事の後は、心ゆくまでふかふかのベッドの上でごろごろした。
やわらかいシーツに頬をこすりつけて、つかの間の幸せ次期公爵夫人生活を全力で満喫してから、顔合わせの準備をする。
「シオン様は午後にお戻りになるご予定です。お顔合わせの際のお召し物はこちらから選んでいただければと」
衣装部屋に並んだ鮮やかなドレスたち。
幽霊屋敷ではボロボロの服を着て生活していたフィーネなので、色彩の洪水に目がついて行かずくらくらする。
(なんでわざわざこんなに薄い生地にするの……もっと厚手のを使えば良いじゃない!)
うっかり破ってしまいそうで、おっかなびっくりドレスに触れる。
「フィーネ様があんなに綺麗なお召し物を……」
涙ぐむミア。
幽霊さんがいたずらっぽく笑う。
『似合ってるよ』
「うるさい」
なんだか気恥ずかしい。
小声で追い払いながら、フィーネの頭を悩ませていたのは結婚することになった公爵家次期当主のことだった。
(どこかで見たことある気がするんだけど)
記憶の奥深くにある漠然とした断片が、フィーネに何かを伝えようと訴えているような気がした。
しかし、思いだせない。
写真を見つめていたフィーネがはっとしたのはそのときだった。
(もしかして髪型が違う……!? いや、他にも違うところがあるのかも……!)
結婚に際して使う写真は、必然的に普段よりめかし込んだものになる。
(加えて、私が会ったときの彼が通常とはかけ離れた状態だったとしたら――)
「フィーネ様。シオン様がご到着なされました」
侍女の声。
「失礼します」
現れたその男性の姿に、フィーネは言葉を失うことになった。
(この人、あのときの――)
思いだす。
目も当てられないほど傷だらけで、今にも死にそうだった彼のことを。
四年前。
記録的な魔物の暴走が北部地域を襲い、王国史上最悪と言われる壮絶な被害が出た。
被害が拡大したのは、初期対応のミスによるものだったことが、後日行われた検証によって明らかになっている。
『このエリアでの魔物の暴走は過去二百年以上発生していない』
油断は致命的な準備不足と初期対応の遅れを招いた。
誰の目にもわかる人員不足の中、過去に例のない規模の魔物の群れを食い止めたのは、たった一人の魔術師だったと記録されている。
三年後、史上最年少で《五賢人》の一人となり《氷の魔術師》と呼ばれる彼はそのとき十八歳。
絶望的な状況だったにもかかわらず、単独で《スカラホルトの町》を守り抜いたシオン・クロイツフェルトが何を考えて死地に赴いたのかフィーネは知らない。
知っているのは、魔物の死骸が無数に転がるその中に、死者同然の状態で倒れていた彼の姿だけだ。
残っていた魔物を倒し、近づいたフィーネにシオンは言った。
「殺してくれ」
息が続いていることに、彼は落胆しているように見えた。
この人は死にたかったのだ、となんとなくフィーネは感じた。
霧のような細かい雨がそこにあるすべてを濡らしていた。
世界に絶望したみたいな顔が、フィーネの癇にさわった。
「決めたわ。絶対死なせないから」
彼を助けるのは簡単なことではなかったが、フィーネは七種の回復魔法を並行起動して、力業で死に向かう肉体を現世につなぎ止めた。
幽霊屋敷の近くにある使われていない山小屋に彼を運ぶと、一ヶ月治癒魔法をかけ続け、民間の治療施設でも治療できるところまで状態を改善させた。
その一ヶ月の間に、フィーネは彼に様々な話をした。
死にたがっていたのがムカついたから、生きていることの素晴らしさを嫌がらせとして延々と語ってやった。
寒くて眠れない夜はベッドシーツの下の藁にくるまって、香ばしい香りに包まれて眠ること。
雨漏りしているおかげで、雨の音を他の人より長く楽しむことができること。
屋根に上って見る夜空の星が宝石みたいに綺麗なこと。
そのときに飲む《手作りその辺の草スープ》は、世界で一番おいしく感じること。
「良い? 世界はこんなにも素晴らしいものなの。わかったら、死にたいなんて後ろ向きなこと考えないこと。今度死にたいとか言ってご覧なさい。二度と立てなくなるまでボコボコにするから」
思う存分嫌がらせと脅迫をしてから、眠らせた彼を《スカラホルトの町》に送り届け、すっきりとした気持ちで幽霊屋敷に帰った。
しかし、ここで彼を使ってストレス解消をしたことが思わぬ事態を招くことになる。
「《氷の魔術師》が、《黎明の魔女》を探してる?」
「なんでも、話したいことがあるらしい」
「連れてきた者には大金貨十枚だと」
噂は辺境にいるフィーネの耳にも届くくらい、王国中に広がっていた。
(やばい……完全にあのときの仕返しをしようとしてるじゃない……)
ただの相手なら魔法でぶっ飛ばせるから恐れる必要は無い。
問題は、彼が幼少期から神童として王国を騒がせていた有名な魔術師だったこと
人の血が流れていない冷酷無慈悲な《氷の魔術師》。
常に彫像のような無表情で、人間らしい感情の出た姿を誰も見たことがない。
目的のためには手段を選ばない絶対零度の機械人形。
聞こえてくる不穏な噂の数々に、フィーネは頭を抱えた。
(とんでもなくまずい相手の恨みを買っちゃってる!?)
そんな相手に一ヶ月もの間、思い切り嫌がらせをしてしまったのだ。
もしも捕まってしまったら、いったいどんな目に遭わされるかわからない。
幸い、《黎明の魔女》として活動する際に、フィーネは正体がばれることを防止するための変装をしていた。
破れたカーテンを再利用したローブで身体の細さを隠し、背の低さを手作りのシークレットブーツでカバーする。
自分の髪を編んで作ったウィッグで髪型を変え、廃材から作った仮面を被っていた。
(さすがに私だと特定されることはないと思うけど……)
しかし、《氷の魔術師》の動きはフィーネの想像をはるかに超えるものだった。
大々的に《黎明の魔女》についての情報を集め、北部地域の救貧院を買い上げながら貧困層の女性に身分証を与える慈善事業を行ったのだ。
(完全に私を見つけだそうとしてるじゃない……!)
優雅で知的な会話のどこから、《黎明の魔女》が貧困層に属する女性であると当たりをつけたのだろう?
(死にたくない……絶対に見つかるわけにはいかないわ……!)
そんな浅からぬ因縁のある相手。
(他人に興味ない性格が災いした……まさか、クロイツフェルト公爵家の次期当主だったなんて)
彼について調べる中で聞いたことはあったと思うけど、家柄に興味なかったからすっかり忘れていた。
だからこそ、フィーネは現れた結婚相手の姿に呼吸の仕方を忘れる。
(この人、まさか私の正体に気づいた上で結婚を……!)
絶対に逃げられない状況。
人生の墓場という名の牢獄に閉じ込め、冷血の名に恥じないモラハラでいじめ抜こうとしてるのだ、とフィーネは恐怖した。
揺れる銀色の髪とひりつくような魔力圧。
感情のない瞳がフィーネに向けられる。
「先に言っておく」
シオン・クロイツフェルトは言った。
「君を愛することはない」
告げられた言葉に、フィーネは困惑することになった。
(この人はいったい何を言っているの……?)
遂に因縁の相手を捕らえることに成功し、思う存分勝ち誇って気持ちよくなれる絶好の機会だったはずなのに。
「この結婚は当主の交代によって一時的に不安定になっているクロイツフェルト公爵家の地盤を強化するためのもの。了承したのは、人との関わりを嫌い、ずっと屋敷の奥に籠もりきりだと聞いたから。干渉されずに済んで好都合だと判断した」
シオンは無機質な声で言う。
「何もせず、ただ屋敷の中でじっとしていればいい。俺に干渉しないこと。君に求めたいのはそれだけだ」
(これって、まさか……)
フィーネは気づいた。
(この人、私が《黎明の魔女》だって気づいてない!)
胸をいっぱいにする安堵と喜びの感情。
間違いない。
義母と義妹が吹聴してるとおりの、ひきこもり令嬢だと思われている。
(来た……! 思う存分引きこもれるのはインドア派の私には好都合。その上、私を付け狙う《氷の魔術師》の情報は内側からこちらに筒抜け。なんというありがたすぎる状況……!)
フィーネは声を弾ませて、うなずいた。
「わかりました! シオン様に干渉しないよう気をつけますっ」