47 深い森
その日は日曜日で、ハグの儀式が行われる日だった。
うっかり関節技をかけてしまって大失敗したあの日から、フィーネは隠れてこの日のために練習に励んでいた。
「こっちの方が痛くないかしら」
真剣な顔で身体を動かすフィーネに、幽霊さんが言う。
『何してるの?』
「痛くない関節技の練習。シオン様に痛い思いはさせたくないから」
『関節技を出さない練習をすれば良いのでは?』
「……それでうまくいけばどんなによかったか」
フィーネは少しの間押し黙ってから言う。
「したわよ。してみたわよ。その結果があの二回目のハグの儀式。幽霊さんも覚えているでしょう。目も当てられないあの惨劇を」
『うん。感動するくらい綺麗な関節技だった』
「自分が抑えられないの。シオン様の身体硬くてゴツゴツしてるし、ふんわり石けんの匂いがしたりするとくらくらして気づいたらやっちゃってるっていうか」
『それで関節技が出る理由がわからないんだけど』
「そんなの私にだってわからないわよ。ただ、頭が真っ白になって、なんとかして自分を護らなきゃって感じになるというか」
『なるほど。つまるところ照れ隠しだ』
「スーパーフィーネキック!」
フィーネは素早く跳び蹴りを放った。
しかし、幽霊さんは実体がないのでキックは空を切り、フィーネは絨毯を転がった。
『なにやってるの?』
「なんか反射的に出ちゃって」
『それだけ気恥ずかしさが抑えられなかったわけだ』
「実体に戻ったら覚悟しておきなさい」
絶対に実体に戻してやる、と思いつつ唇を噛む。
こうして迎えたハグの日だったが、夕食の場にシオンの姿は無かった。
「外せないお仕事が入ってしまったそうで」
執事さんの言葉にほっとしたような、少しだけがっかりしたような複雑な気持ちになる。
(ってなんでがっかりしてるの、私)
嫌だ嫌だと言いながら、どこかでうれしく思っている自分がいるのだろうか。
なんだか顔が熱い。
気づかれませんように、と願いつつスープを口に運ぶ。
「緊急の案件だ。ベルナール卿の残したものを使ってその後釜に座ろうとしている者がいる」
宰相コルネリウスの言葉に、シオンは身体の奥で何かが脈打つのを感じた。
絶対に許してはいけない。
徹底的に破壊し、跡形もなく消し去らないといけない。
その日は日曜日だった。
好きな人と一緒に食べる夕食とハグの儀式。
楽しみにしていた。
その時間のためにがんばっていたと言っていいかもしれない程度には。
しかし、だからこそ行かないといけないと思った。
自分の血に混じる汚れたもの。
祖父の残した負の遺産。
最悪の場合、クロイツフェルト家全体が被害を被る可能性がある。
自分一人なら、それでも構わないと言えただろう。
しかし、フィーネがいる今は看過することができない。
没落すれば、その過程で彼女を傷つけてしまう。
醜聞と根も葉もない噂が飛び交う社交界。
貴族の陰湿さと残酷さをシオンは知っている。
「詳細を聞かせて下さい」
コルネリウスはシオンにわかっている事実を伝える。
王妃殿下が主催する貴族女性の社交場――《薔薇の会》の関係者がこの一件に深く関わっていることが伝えられる。
「わかりました。周辺を徹底的に探ります」
「ただ、大丈夫か? 君は既に相当量の仕事を任されているだろう」
コルネリウスの言うとおりだった。
祖父ベルナールが残した悪行の後始末と、入院中の父に代わって行っている公爵家内での仕事。
加えて、自傷するように仕事をこなしていた名残もあって五賢人の中で最も多くの仕事をこなしているシオンは、常人からすると正気ではいられない量の仕事を抱えている。
ただでさえ、家に持ち帰った仕事を深夜遅くまで続けるのが日常だったのだ。
さすがに、もう夕食を彼女と食べる時間を作ることもできなくなるだろう。
それは、シオンにとって唯一と言っていい癒やしの時間だった。
やらないといけないことを山のように抱えている彼の、たった一つだけ心から望んでいること。
しかし、それも手放さないといけないときが来ているのだろう。
自分には汚れた血が流れている。
仕方の無いことだ。
(そもそも、彼女と過ごしたいと思っているのは俺だけだろうし)
元々口下手な上、近くにいると意識してしまってうまく話せなくなってしまうことも多い自分だ。
あそこでああ言っておけば、なんて反省するけれどなかなか改善の兆しは見えずにいる。
それでも、幸せにしたい。
傍にいたい。
(この仕事は、俺が絶対にやらないといけないことだ)
◆ ◆ ◆
それから、シオン様は夕食時に家に帰ってこなくなった。
◇ ◇ ◇
王宮から採用が決まったという旨が届いたのは、面接から三日後のことだった。
幽霊さんを実体に戻すために必要な王家が所有する魔道具。
近づくためにひとまず、王宮内への潜入に成功したことになる。
文面には仕事の詳細を伝えたいから王宮に来て欲しいと書かれている。
承諾の返信をして、指定された日時に王宮へと向かった。
豪奢な待合室に通される。
「詳細はコルネリウス様がお伝えになられます。しばしの間、こちらでお待ちください」
執事さんは聡明な猫のように一礼して部屋を出て行く。
テーブルの紅茶を飲みながら、思いだしていたのは《花の魔術師》アイリスの言葉だった。
『コルネリウス様はおそらく、貴方にある仕事を任せるのではないかと思われます』
ここまでは彼女の言うとおりだった。
面接の時とは違い、宰相様は自らの言葉でフィーネに仕事の内容を伝えようとしている。
そこには何らかの重大な意味が含まれているように感じられる。
「ありがとう。よく来てくれたね」
十分後、通された執務室で向かい合った宰相様は、物腰がやわらかく気さくで話しやすい人であるように感じられた。
「君の噂は兼々聞いているよ。ずっと話してみたかったんだ。シオンは照れがあるみたいで君のことを全然話してくれないからね。彼とは最近どう?」
「すごく良くしていただいています。ただ、お忙しいみたいで最近はあまりお話しできていないのですけど」
「そうだろうね。今、彼は少し特別な案件を抱えているから」
「特別な案件?」
「極秘事項なんだけどね。でも、君になら話してもいいか」
コルネリウスは静かに微笑んで言った。
子供に内緒でお菓子を渡しているみたいな笑みだった。
「王妃殿下が主催するサロン――《薔薇の会》。この会にいる誰かが、裏社会とつながりを深め、王国への背信行為に手を染めていることがわかったんだ。ベルナール卿の後釜に就こうとしてるみたいでね」
なるほど、と納得する。
シオン様はベルナールがしていたことに対して強い怒りを抱いている。
近くにいた存在であり身内だったからこそ、許せないという感覚があるのだろう。
そういう理由なら、一緒に食べる夕食やハグの儀式より優先するのも仕方ないのかもしれない。
私、うまく話せないし、うっかり関節技かけちゃうし。
(名誉挽回のためにも、これからシオン様のパートナーとして良いところを見せていかないと)
密かにそんなことを思うフィーネに、コルネリウスは続ける。
「しかし、敵は極めて注意深く行動しているようでね。その情報を我々は何一つ掴めずにいる。また、このサロンは家柄の良い貴族女性しか中に入ることが許されなくてね。間者を送ることも考えたんだけど、誰が裏切り者かわからない以上それもなかなか難しい」
フィーネは少しの間考えてから言う。
「それで、私に潜入して欲しいと。そういうわけですか?」
「いったい何を言っているのかわからないけれど」
「ごまかさないでください。それ以外に今の話を私にする理由が無い。私は本音の貴方と話がしたいです」
フィーネは真っ直ぐにコルネリウスを見つめる。
コルネリウスはしばしの間押し黙ってから、首を振った。
「さすがだね。君の言うとおり」
「同時に、やりとりの中で私を試し、任せていいか判断しようとしてたっていうところですかね」
「話が早くて助かるよ」
意図を見抜かれているにもかかわらず、彼の表情に動揺の色は無かった。
ここまで計算し想定していたのかもしれない。
あるいは、フィーネがどう答えても対応できる別の手段を用意しているのかもしれない。
(油断ならない人ね)
さすがこの国の宰相を務めるだけのことはあるのだろう。
しかし、フィーネは彼の提案に乗ることにした。
パートナーとしてシオン様の手伝いができれば、というのがひとつ。
そしてもうひとつは、幽霊さんを実体に戻すために必要な魔道具――《星月夜の杖》が王室所有のものとされているからだった。
王妃殿下に近づくことができるなら、幽霊さんを実体化させる魔道具にも近づくことができる。
「わかりました。その仕事、お受けいたします」
「ありがとう。助かるよ。頼もしい」
コルネリウスはにっこり目を細めて言った。
「危険な仕事では無いからさ。安心して」
その反応を観察して意識的に記憶しながら、フィーネが思いだしていたのは《花の魔術師》アイリスから聞かされた言葉だった。
『危険を伴う仕事です。しかし、あの方はその危険性について貴方に話さないでしょう』
結果から言えば、コルネリウスの言葉は彼女が予測した通りのものだった。
(この人は何かを隠している)
しかし、だからと言って《花の魔術師》の言葉が正しいとも限らないように感じられた。
フィーネがコルネリウスに疑問を持つように、誘導されているという可能性もあるように思う。
『私がお伝えしたいのはひとつだけです。見かけの良い言葉に流されないように。その裏側にあるものを探る注意深さを大切にして下さい。深い森の中で迷子にならないように』
そんな言葉が頭の中で響く。