46 心の底にあるもの
その夜、王宮の執務室で《風の魔術師》――ウェズレイは《黎明の魔女》の資料を読んでいる。
不意にノックの音が響く。
レッドオークの扉を叩くその音は重たく、どこか怒りの気配のようなものを含んでいる。
ウェズレイは少しだけ口角を上げてから言う。
「どうぞ」
部屋に入ってきたのは、《氷の魔術師》――シオン・クロイツフェルトだった。
「珍しいね、シオンくんが訪ねてくるなんて」
軽い口調でウェズレイは言う。
「何々? 先輩に相談とか?」
シオンは眉根ひとつ動かさなかった。
氷像のような無表情で言った。
「フィーネと話したそうですね」
「あれ、嫉妬? かわいいとこあるやん、シオンくん。そんな気はないから安心して。ただ、ちょっとお話を聞きたかっただけやから」
「尋問していたと聞きました。幻影魔術まで使ったと」
「使ったかも知れんね。それが何?」
シオンは、ウェズレイの首元を掴んだ。
そのまま彼の背後の壁に叩きつける。
壁に掛かった絵画が、ウェズレイの背中に当たって軋んだ音を立てた。
「怖い怖い。どしたん、シオンくん。良いことでもあった?」
「なぜ怒っているのか。貴方はわかっているでしょう」
「そやね。シオンくんは仲間に優しいから。奥さんのことも大切に思ってるもんね。親や親族とはうまくいってなくて、その代償行為かなと推測してるんやけど合ってる?」
「わかったようなことを言わないで下さい」
「わかるよ。何せ育ての親があのベルナール卿やもん。その上、お父さんもお母さんも助けに来てくれなかった。本当はずっと恨んでるんやろ。そして、それ以上に不安に思ってる。両親は自分を愛していなかったんじゃないか。自分は誰にも愛されないんじゃないか、と」
シオンは腕に力を込める。
壁が軋み、額縁が割れる。
ウェズレイは浅く呼吸をしながら続ける。
「大丈夫。君はみんなに好かれてるよ。でも、君はそれを信じることができない。また失うんじゃないかとどこかで思っている。君の心には穴が開いている。割れたガラスのコップみたいに、どんなに水を注いでも埋まらない不安があるんやね。だから、君はずっと一人で誰ともわかりあうことはできない。怖くて、本当の自分をさらけ出すことができないから」
壁が軋んだ音を立てる。
ウェズレイの呼吸に隙間風のような音が混じる。
「失うのが怖いから近づくことを避ける。安心して。君のその癖は一生治らんよ。だから君はずっと一人やし、誰とも心からわかりあうことはできない」
「貴方に何が分かるんですか」
「わかるよ。シオンくんとボクは同じ穴の狢やもん」
ウェズレイは口角を上げて続けた。
「友達がいない者同士仲良くしようや。ボクらはずっと一人でこの地獄のような世界を生きていかないといけないんやからさ」
「フィーネを傷つけたら、俺は貴方を絶対に許さない」
「怖い怖い。わかった、気をつけるわ」
シオンは冷たい目でウェズレイを見てから、背を向ける。
扉が閉まる。
残された部屋の中で、ウェズレイは呼吸を整える。
つかまれ、赤く染まった喉元に手を添える。
指先に冷たいものが触れる。
襟首が凍り付いていることに気づく。
(魔法の制御できなくなってるやん、あのシオンくんが)
それはウェズレイにとって純粋な驚きだった。
フリューゲル侯爵家に生まれ、幼い頃からシオンを知っているウェズレイからすると、到底信じられることではない。
機械のような無表情で、淡々と魔法式を起動し続ける。
感情と魔法の制御はシオンの最も得意とする分野だったはずなのに。
(よっぽどあの子のことが好きなんやね)
ウェズレイは静かに笑みを浮かべた。
(なかなか面白くなってきたやん)
王宮内にある自らの執務室でシオンは深く息を吐く。
ウェズレイの言葉は、シオンの心に少なくない動揺を与えていた。
その中にいくらかの真実が含まれているように感じられたから。
自分自身も気づいていなかった――気づかないようにしていたものがそこにはあったように感じられた。
『失うのが怖いから近づくことを避ける。安心して。君のその癖は一生治らんよ。だから君はずっと一人やし、誰とも心からわかりあうことはできない』
そうかもしれない、と思う。
近づきたいという思いが自分の中にはあって。
だけど、それを押さえつけるのが習慣になっていた。
その願いは叶わない、とシオンは感覚的に学習してしまっている。
祖父の家が嫌で、どこにも居場所がなくて。
迎えに来て助けだして欲しいと膝を抱えていた幼い頃の自分。
助けが来ることは無くて。
期待が自分を苦しめることを知った。
だから、人に期待することを止めた。
人生はいくらか生きやすくなって、人との関係で思い悩むこともなくなって。
それはたしかにこの世界を生き抜くための一つの技術として有用で。
だけど同時に、誰かに心の体重をかけるのが怖いと思ってしまっている。
叶わないんじゃないか。
傷つくんじゃないか。
不安と恐怖が心の底にこびりついている。
その感覚は、思い人が助けられた《黎明の魔女》からフィーネになったことでずっと強さを増していた。
どこかで現実感が無かったからこそ、《黎明の魔女》には安心して心の体重をかけられたのだろう。
叶わないんじゃないかとどこかで感じていた。
遠かったからこそ安心できた。
だけど、フィーネは違う。
会うことができるし話すことができる。
自分の行動によって傷つけてしまうかもしれない。
遠くに行ってしまうかもしれない。
失ってしまうかもしれない。
だからこそ、――怖い。
どうしようもなく一人だと感じている。
自分はきっとこの先ずっとそうなのだと思う。
『安心して。君のその癖は一生治らんよ。だから君はずっと一人やし、誰とも心からわかりあうことはできない』
聞こえる誰かの声に、強く右手を握る。
爪が肌に赤い跡を作る。