40 ハグの儀式
その日曜日、シオンは夕食の二時間前に屋敷に戻っていた。
自室で魔法実験に勤しんでいるフィーネは、外の気配からシオンが帰ってきたことに気づいていた。
しかし、にもかかわらずフィーネは自室から出ようとしなかった。
まるで関係ないみたいに、黙々と霊体を実体化させるための研究に励んでいる。
『折角帰ってきてるのに、会いに行かないの?』
「夕食時にお話しできるから。何より、最近シオン様ちょっと変なのよね」
『変?』
「傍にいると心臓に悪いというか。この前なんて、いきなり『今日の君は300パーセントかわいい』とか言われて。そんなこと言う人じゃないと思ってたからびっくりしたというか」
『顔を真っ赤にして部屋に戻ってきたよね』
「言わないで」
『枕に顔を埋めてばたばたしてた』
「殺す」
フィーネは幽霊を殴った。
拳が霊体を透過した。
「とにかく、夕食の時にお話しできるから今は良いの」
『君がそうしたいならそれでいいけど』
フィーネは意識して魔法実験に没入した。
色恋なんて神経毒の類いに振り回されることなく、自分のすべきことをするのがフィーネの理想とするかっこいい人のあり方だった。
(好調とは言えないけど、合格点ね)
納得できる及第点の仕事ができてほっと息を吐いたところで、扉をノックする音が響く。
「フィーネ様、ご夕食のお時間です」
「今行くわ」
ミアと一緒にお屋敷の廊下を歩く。
なぜかミアはいつもより少しそわそわしているように見えた。
「あの、フィーネ様。詳細はシオン様がお伝えくださると思うのですが、実はクロイツフェルト家に伝わる歴史と伝統ある儀式がありまして」
「儀式?」
「はい。日曜日の夕食前に行われるものなんです。ベルナール様がご当主になってから行われなくなっていたようなのですが」
「それは再開してみてもいいかもしれないわね」
ベルナール卿のことだから、価値ある歴史と伝統も自分の意のままにねじ曲げたりしていたのだろう。
「で、どういう儀式なの?」
「ハグの儀式です」
「…………今、なんて?」
「ハグの儀式です」
ベルナール卿の判断は正しかったかもしれない、とフィーネは思った。
『もっとらぶらぶ作戦』という言葉の意味が、シオンにはまったくわからなかった。
しかし、ミアはフィーネのことに詳しいようだし、色恋の類いに関してもそれを遠ざけて生きてきた自分よりずっと知識があると考えて良いはずだ。
シオンはミアの指示を忠実に守ることを決める。
ハグの儀式についてフィーネに話す。
「なんだその儀式」
フィーネは感情のない声で言う。
「婚姻関係にある二人が十秒間ハグをするという儀式だ」
真面目な顔で言うシオン様にくらくらするフィーネ。
「何の意味があるのですか、その儀式」
「より良い関係を維持する上で効果的だとされている。ハグをすることによって愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンが分泌され、安心感を得られると共に幸福度の増大も期待できる」
「そう言われれば意味があるような気もしないでもないですけど」
しかし、フィーネは両親が死んだ五歳の頃からハグというものをほとんど経験せずに生きてきた。
幽霊さんにぎゅっとしてもらったことはあるけれど、それも実体がないから肉体的接触を伴うそれとは違う。
あまりに経験が無いから、ミアに初めてハグをされたときにはびっくりして関節技を極めてしまったのだ。
しかも、同性であるミアと異性であり神経毒が回り始めているシオンでは同じ行為でも衝撃の度合いが違うはず。
顔が熱くなり、身体が汗ばむのを感じる。
(勢いあまって腕を折ってしまったらどうしよう)
力が強すぎる化け物みたいな不安を覚えるフィーネ。
「しよう」
シオンが手を広げる。
「い、いや、それは」
顔を赤くしてあわあわするフィーネ。
「私も心の準備が必要というか」
「なら、待つが」
「二ヶ月くらい必要なんですが」
「長いな」
「あらかじめ文面で提出して検討して事前準備をしてから行いたい案件です」
「事務手続きが必要なのか」
「事務手続きが必要なんです」
よくわからない結論に至ってしまった。
なぜ事務手続きが必要ということになっているのか、フィーネ自身もまったくわからない。
シオンは混乱するフィーネを見つめる。
少しの間言葉に迷う。
それから、言う。
「……嫌、だろうか」
そう言ったシオンの言葉に、見過ごしてはならない何かがあるのをフィーネは感じる。
感情があまり表に出てこないシオン様の奥にあるもの。
脆く繊細な何かがそこにあるのをフィーネは感じていた。
この人は幼い頃に両親から引き離されている。
その気持ちは近い境遇の自分にも少しだけわかる。
だけど、わからないことの方が多いとも思う。
自分には幽霊さんがいたから。
似ているようで全然違う。
この人には誰もいなかった。
きっと寂しい思いをしていたはずだ。
心の傷みたいなものも抱えているのかもしれない。
だったら、人として自分はここで逃げてはいけないと思う。
恥ずかしいとか、変なことをして恥をかくかもしれないとか、そんな理由で逃げてはいけない。
「大丈夫です。覚悟、できました」
「無理はしなくても」
「いえ、させてください」
フィーネは戦場に向かう兵士のような顔で言った。
「いきます」
「わかった」
踏み出すフィーネ。
二人の距離が縮まる。
重なる。
そっと肩に触れるフィーネ。
気遣いつつ、不慣れな所作で手を回して背中に触れるシオン。
それは思春期の男女が初めてするそれみたいに、不器用で変に距離のあるものだったが、それでもフィーネには刺激が強すぎた。
『ばんっ!』と赤く染まる顔。
真っ白になる思考。
処理しきれない感覚に激しく動揺したフィーネは、流れるような美しい動きでシオンの肩関節を極めた。
「完全にやってしまったわ……」
夕食後、頭を抱えてベッドをころころするフィーネに、幽霊はくすくすと笑う。
『あー、面白かった。見事な関節技だったよ』
「笑い事じゃ無いわよ。ハグされて関節極める貴族令嬢っていったい何なのよ……」
『まあ、君はいろいろ特殊だし。でも、前々から思ってたけどあんな関節技どこで習ったの?』
「魔物と戦ってる間に自然と、こんな感じでやったらいいのかな、と」
『天才だ。天才がいる』
息を呑む幽霊さんをスルーして、フィーネは頭を抱える。
「絶対に変な子だと思われた……終わった」
『元々変な子だと思われてると思うよ』
「シオン様も今頃ため息をついているに違いないわ。まさか自分の妻があんな天才柔術師だったなんて、って」
『天才ってところめちゃくちゃスムーズに受け入れたね』
「私は私を褒めてくれる評価に関しては最優先で受け入れて記憶していくことにしているの」
『そんな覚悟が決まったような顔で言うことでは無いと思う』
その夜フィーネは、寝静まるまで関節技をかけてしまった瞬間を思いだして、頭を抱えて心の中で「うわぁぁああああ」となっていた。
黒歴史を作ってしまったと思っているフィーネは知らない。
誰かに抱きしめられた記憶がなく、人との触れあいをほとんど経験せずに育ったシオンにとって、その関節技が決して悪いものではなかったことを。
やわらかい身体と背中に触れた胸の感触を自分の中でうまく処理することができずに、首筋に手を当てて顔を俯けていたことを。
そして、シオンも知らなかった。
関節技をかけられた夕食後、執事にかけられた言葉。
「大丈夫ですか、シオン様」
「……いや、悪くなかった」
ぽつりと漏らした本音を聞いた執事が、
(シオン様は奥様に関節技をかけられるのがうれしい類いの人なのだろうか)
アブノーマルな趣味があるのかもしれない、と真剣に考察していたことを。
互いに思いも寄らないことを思い合いながら、世界は今日も回っている。