39 それにまつわる個人的な研究
好きな人に振り向いてもらうために何をすれば良いのだろう。
それはシオンの人生の中でもトップクラスに難しい命題であるように思えた。
彼は恋愛的な一切を切り捨てて生きてきたし、育った家の中にそういう類いの素朴なつながりは存在していなかった。
人が人と関係を深めるために何をすればいいのか、と考えると、金貨が入ったお菓子の箱を渡すみたいな汚い大人の世界のやり方ばかり思い浮かんでしまう。
「くっくっく、貴方もなかなか悪ですね、シオン様」
用意した裏金を受け取るフィーネの姿を想像してみた。
うん、これは違うと言うことは人間関係に疎い自分にもわかる。
(だが、いったいどうすれば……)
誰かに相談することも考えたが、人に頼るのはできるだけ避けたいと思うのが自分の性格だ。
王国魔法界における頂点に位置する五賢人の一人であり、公爵家の次期当主である自分の立場を考えると簡単に聞くわけにいかない立場でもある。
屋敷の廊下で侍女が本を落としたのはそんなときだった。
フィーネ付きの侍女であるミアが落とした本を何の気なしに拾って、シオンは言葉を失った。
『カリスマ恋愛マスターの天才恋愛講座』
(カリスマ恋愛マスター……!?)
こんな本がこの世に存在するとは。
息を呑んで表紙を見つめるシオンに、ミアは慌てた声で言う。
「も、申し訳ございません。拾っていただいてありがとうございます」
シオンはじっと本を見つめる。
これは千載一遇のチャンスだ。
五里霧中で暗中模索していた自分に垂れてきた空へと続く蜘蛛の糸。
簡単に手放してはいけない。
「少し読ませてもらってもいいだろうか」
「いいですけど、それはフィーネ様のご本でして――」
(フィーネがこの本を読んでいる……!?)
シオンはよろめいて後ずさる。
本が好きなのは知っていたが、まさか恋愛という分野についても詳しいとは。
優秀な彼女のことだから、恋愛論に関しても一線級の研究者に匹敵する知識量を身につけている可能性が高い。
(恋愛について学ぶ必要がある)
シオンは屋敷の書庫で恋愛に関する本を読みふけった。
忙しい生活の中で、進められる恋愛についての研究。
一週間が過ぎてシオンはひとつの答えにたどり着いた。
(まったくわからない……)
愛情にも優しさにも触れずに育った彼にとって、人間的な感情の機微は最も理解が難しい分野だった。
素朴で健全な人との交流というものを彼は幼少期に学習できずに大人になっていたし、他人の心を理解したいと感じること自体無かった。
異性と交流する機会はあっても、恋愛的な魅力を感じることは無かった。
唯一の例外である《黎明の魔女》との関わりも、追いかけていただけで結局ほとんど持つことができないままだったから、好感を持っている異性と関わるのはこれが初めての経験。
(失敗して嫌われるのは……困る)
シオンは慎重に研究を重ねた。必要な準備が終わってからも、念のために何度も確認を続け、それから本に書いてある恋愛術をフィーネに試してみた。
「君はいつも200パーセントかわいいが、今日は300パーセントかわいい」
フィーネは「そうですか」とそっぽを向いてどこかに行ってしまった。
シオンは傷ついた。
好物の目玉焼き載せハンバーグもまるで味がしなかった。
(いったいどこで間違えた……?)
わからない。
必要な手順を事前の準備通り実行したはずだ。
反省と検証が行われた。
結果、シオンはひとつの結論に行き着いた。
(そもそも、自分一人で行おうとしたのが間違いだったのかもしれない)
人と交流した経験は乏しい上に、決して器用な方ではない自分だ。
誰かの助けを借りる必要がある。
(彼女を知る相手に相談してみよう)
シオンは、フィーネと仲の良いメイドのミアを呼んで、相談することにした。
「フィーネ様に好きになってもらう方法ですか」
「ああ。何か参考になりそうなことがあれば、教えてくれると助かるのだが」
シオンの言葉に、ミアは口元に手をあてて小声で何やらつぶやく。
「……え、なにそれ。かわいい」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもありません。人の心を持った人形みたいでかわいいとか、うまく誘導すればまたラブコメみたいなうれし恥ずかし楽しい光景が見えるかも、なんて全然考えてませんので」
よくわからないが、考えてないとのことなので深くは気にしないことにする。
「それで、何か参考になりそうなことはあるだろうか」
「もちろんありますよ。この世界に私ほどフィーネ様のことを知っている人はいません。マスタークラスと言ってもらっても差し支えのないレベルです」
「そんなに詳しいのか」
「ええ。すごく詳しいです」
「ありがたい。助かる」
仲が良いとは思っていたが、そこまで彼女のことをよく知っているとは。
「フィーネ様ってパーソナルスペースが広いんですよね。あまり人と関わらずに生きてきたからか、触れられるのが苦手な猫みたいなところがあるんです。でも、照れ屋なだけで本当はそういう類いのスキンシップを求めてると思うんですよ。フィーネ様を振り向かせるにはそこを突くのが一番効果的です」
「触れあう類いのスキンシップ……」
「ただ、触れ方には細心の注意を払わなければなりません。昔、私がフィーネ様をハグしたとき、びっくりしたフィーネ様は私を投げ飛ばして関節技を極めました」
「関節技を極めた……?」
戸惑うシオンに、ミアはうなずく。
「ええ。力強く見事な体術でした。野良猫に接するみたいに少しずつ段階を踏んで警戒を解いていったので、今はハグしても受け入れてもらえるんですけどね」
「つまり、軽めのスキンシップの方が良いと」
「いえ、フィーネ様が本当に求めているのはがっつり系のスキンシップ。野良猫ハートなフィーネ様も本当は、優しいご主人にぎゅっとしてもらいたいに決まっているのです」
「しかし、びっくりして関節技を極めてしまうのでは」
「では、びっくりさせないよう工夫しましょう」
ミアは真剣な表情で言う。
「ハグをするということをあらかじめお伝えしておくのです。そうだ、クロイツフェルト家に昔からあった由緒正しい儀式と嘘をついて、ハグの儀式を作ってしまいましょう」
「ハグの儀式?」
「週に一度、日曜日の夕食前にハグをするのがクロイツフェルト家に伝わる歴史と伝統ある儀式なのです」
「しかし、彼女を騙すというのは」
「これはフィーネ様の野良猫ハートを溶かすためのこと。優しい嘘なので問題ありません。それに、フィーネ様もよく言っておられます。バレなければ何の問題も無いと」
「バレなくても問題は問題だと思うが」
「幸い、今日は日曜日です。善は急げ。早速ハグの儀式を敢行しましょう。使用人さんたちには私から話しておきます」
ミアは言った。
「もっとらぶらぶ作戦開始です」