36 エピローグ
彼女がいなくなってから、一週間が経った。
シオン・クロイツフェルトは心に空白を抱えている。
それでも、公爵家次期当主としての人生は彼を待ってはくれない。
前当主ベルナールが起こした一連の違法行為。
真相の究明と、主要関係者の捕縛。
クロイツフェルト家を糾弾する声は予想よりも大きくはなかった。
腐敗に満ちた王国貴族社会の中で、他の貴族たちにも後ろ暗い部分が少なくないからだろう。
だからこそ悪しき先代の行いを弾劾し、新しい公爵家を作って行かなければならない。
襲撃されて病院にいる父の分も必死で仕事に励んだ。
最悪の場合、父の死――当主を引き継ぐことも覚悟していたが、幸いなことに彼は生き延びた。
とはいえ、それが本当に良いことなのかはわからない。
シオンは父のことを知らない。
祖父を嫌っていた父はなかなか家に帰って来なかった。
祖父に好かれていたシオンはずっと荒れ果てた家の中で、人間の醜悪さを見せつけられながら育った。
大きすぎる権力は人を変えると言う。
父も祖父のように道にそれた行いを始めるのかもしれない。
あるいは、知らないところに既に誰かを傷つけているのかもしれない。
無邪気に人を信じるには、シオンはあまりにも人間の醜さに触れすぎている。
父には、祖父の血が流れているから。
そして自分にも、同じ血が流れているから。
いつか道を踏み外すかもしれない。
欲望の雨に打たれて狂ってしまうのかもしれない。
でも、だからこそ正しくありたいとシオンは思った。
悪しき伝統を断ち切れるように。
誰に恥じることもない家族と人生を手に入れられるように。
(そこに君がいてくれたらどんなにいいだろう)
しかし、それは叶わない願いかもしれない。
狂った家で育ってきたシオンは、健全な家族がどういうものなのか知らない。
結婚生活はきっと、彼女にとって良いものではなかっただろう。
帰って来ないのも当然だ。
最初に突きつけたあまりにもひどすぎる条件。
加えて、シオンはあまりにも彼女について知らなかった。
それを痛感したのは、事件の後処理でウェストミース伯爵家の真実を知ったときのことだ。
北部辺境。
ボロボロの屋敷での幽閉生活。
人間の生活とは思えないあまりにもひどすぎる住環境。
たしかに、出会った彼女は随分と痩せているように見えたが、まさかそんな状況にあったなんて。
正当な後継者である彼女を冷遇し、彼女に権利がある前当主の所有物を勝手に売り払う。
王国における相続法に反していると同時に、人としても道に外れた行い。
事件の詳細と彼らの行いは、既に高等法院に訴状を提出している。
一般市民からの陳情であればたやすくもみ消せるだけの権力を持つウェストミース伯爵家だが、今回相手にするのはクロイツフェルト公爵家。
そして、王国の司法における最高機関である高等法院だ。
完全にもみ消すことは不可能。
既に複数の新聞社がスクープとして周辺を調査しているという話も聞いている。
あと一月もすれば彼らの行いは白日の下にさらされ、ウェストミース家は力を失い没落していくことだろう。
そして彼女は、前当主の娘として、不当に奪われていた権利と名誉を取り戻す。
おそらく一生働かずに暮らせるだろう。
なおさら、戻ってきてはくれないかもしれない。
《黎明の魔女》の弟子として、魔法使いとしても極めて優れた才能を持つ彼女だ。
彼女が来なくなったことで、王立魔法大学の教授達はそれはもう悲嘆に暮れているという話だし、居場所ならどこにでもあるだろうから。
(それを良いことだと思わないといけないのだろう)
しかし、どこかで彼女が以前のように何も持っていなければよかったのにと思ってしまう自分がいた。
自分に頼るしかない状況だったら、傍にいてくれたかもしれないなんて。
弱く醜い感情が顔を覗かせる。
結局、この空白は彼女がいないと埋められないのだ。
傍にいてくれる幸せを知ってしまった。
それまでは、孤独なんて感じたことがなかったのに。
(考えるな。自分がすべきことに集中しよう)
分刻みのスケジュールで仕事に奔走した。
前当主ベルナールが持つ隠し拠点の捜索。
証拠の押収と整理。
法務官を交えての権利関係についての話し合い。
「シオン様、働き過ぎです。さすがに少しくらいお休みされた方が」
しかし、作業の手を止めることはできなかった。
時間が出来てしまうと、余計なことを考えてしまうのが目に見えていたから。
一日の仕事を父に報告した帰り道。
遂に今日できる仕事がなくなって、シオンは深く息を吐く。
クロイツフェルト家が所有している病院の廊下。
窓から赤く透き通った日差しが射し込んでいる。
(自分がこんなに脆いなんて知らなかった)
誰よりも知っていたはずの自分の中にある、知らない人みたいな一面。
(全部君のせいだ)
苦笑して窓の外に広がる空を見上げる。
夕暮れ時の真っ赤な空。
この空の下に彼女もいる。
君は何をしているだろう。
大好きな魔法の勉強だろうか。
弟子として《黎明の魔女》に教わってるのかもしれない。
もしかしたら、怒られてたりもするのかもしれない。
君のことをもっと知りたかった。
でも、叶えられない願いもあるのが人生だから。
その苦みもしっかり味わって、前に進んでいかないといけないから。
どこかできっと幸せに暮らしている。
それでいい。
今はただ、君の幸せを願おう。
君の未来に、幸福な瞬間が抱えきれないくらいたくさん降り注ぎますように。
ほろ苦くて甘い後味。
長い影を連れて歩きだす。
病室から聞こえるいろいろな人たちの声。
かすかに垣間見える知らない人生の1ページ。
「フィーネ様! どこに行ってたんですか!? 心配したんですよ!」
はっとして足を止めた。
斜め後ろにある病室の扉を振り返る。
息をするのも忘れていた。
扉の前に立って、取っ手に手をかける。
病室。
開けた扉の先。
彼女は、侍女に抱きつかれて困った顔をしていた。
「ミア、落ち着いて。落ち着いてったら」
彼女は侍女をなだめてベッドの上に押し戻す。
それからシオンに気づいて息を呑んだ。
そらされる瞳。
ためらいと迷い。
ここで会うつもりはなかったのだろう。
当然か。
そもそも、彼女は自分と関わらずに生きていこうとしているのかもしれないのだから。
だけど、それでもいいと思った。
手を伸ばそう。
傷ついていい。
失敗してもいい。
この気持ちは、もう止められない。
「傍にいてほしいんだ。俺と一緒に人生を歩んで欲しい」
シオンは言った。
「好きだ」
フィーネは小さく目を見開いた。
猫みたいに視線をさまよわせて、唇を引き結んだ。
うつむいた顔。
形の良い耳が赤く染まっていた。
「私でいいのですか?」
「君が良い」
フィーネはよろめいた。
目に見えてわかるくらい混乱して、あわあわして、くるくるして戸惑って――
それから幼い少女のように、こくりと一度うなずいた。
最後まで読んでくれて、本当にありがとうございます。
皆様の応援に力をもらって、ラストまで走りきることができました。
ブックマークと評価といいね。あたたかい感想と誤字報告。本当にありがたいなって頬をゆるめながら拝見しています。
近くであまり良い関係ではない親子を見ていて切なく、仲の良い親子関係って良いなという願いが入っていたりします。
34話が葉月はすごく好き。
皆様にも楽しんでもらえたらいいなって。
この作品が一人でも多くの人に届きますように。
よかったらぜひ、ブックマーク&評価で応援していただけるとすごくうれしいです。
見つけてくれて、本当にありがとうございました!