35 伝えてほしいこと
なんだか照れくさくて、だけどあたたかい時間の後、気がつくとフィーネは元の世界に戻っていた。
ベルナールの隠し拠点である屋敷はボロボロで今にも崩れ落ちそうだったし、義理の家族は遠くでへたり込んでいた。
《鏡》は姿を消していて、その周りでは《鏡》に呑み込まれていた子供たちが眠っていた。
「大丈夫か?」
知っている声。
シオンが思っていたより近くにいてフィーネはどきっとする。
不意打ちはやめてほしい。
ただでさえ最近、シオン様といると心臓の調子が少しおかしいのだから。
(って私、今《黎明の魔女》じゃない!)
仮面越しの世界。
声を出すと、正体がばれてしまう可能性がある。
突如いなくなったりしたわけで、もう公爵家次期当主夫人の生活には戻れないだろうけれど、それでも正体を特定されると後々取り返しのつかない状況になるかもしれない。
(答えず、無言で立ち去りましょう。《黎明の魔女》はクールに去るのよ)
歩きだしたフィーネをシオンが呼び止めた。
「待て。君に伝えてほしいことがある」
伝えて欲しいこと?
いったい何の話だろう?
彼と《黎明の魔女》の間に、共通の知り合いなんていなかったはず――
いや、違う。
一人だけいる。
「君の弟子である私の妻、フィーネに」
(私だ……)
絶対ろくな内容じゃない。
最初は意外なくらいに仲良くなれた私たちだけど、途中から何かがおかしくなった。
私がうっかり頬にキスなんかしちゃったせいだ。
人間不信で女性不信というシオン様がそれで私を避けるようになったのは当然のこと。
よく思われてないのは間違いない。
その上、ご当主様が襲撃された大事なときに、無断でお屋敷を抜け出して来てしまった。
次期公爵夫人の行動としては間違いなく最低点。
あの幸せだった日々にはもう戻れない。
私は結構好きだったんだけどな、シオン様との時間。
外の人とあんな風に仲良くなるのは初めてだったから。
でも、それはあくまで私の都合。
彼にとっての私は間違いなく悪妻だった。
(それでも、たとえ罵倒されるとしても、聞いてあげるのが妻としての最後の務めか。良い時間を過ごさせてもらったしね)
無言でシオン様に向き直る。
「彼女との出会いは政略結婚だった」
静かに口が開かれる。
「人を信じられない私は、彼女に結婚するに当たっての条件を伝えた。本当にひどい行いだった。だが、彼女はまったく気にすることなく傍にいてくれた」
シオン様は言う。
「彼女との時間は本当に心地良いものだった。初めてだった。打算も悪意もない誰かと仲良くなるのは。私の中で彼女の存在は間違いなく大きなものになっていた。傍にいて欲しい。そんなわがままなことを思ってしまうほどに」
物憂げに息を吐いて、
「戻ってきてほしい。私はそれだけを望んでる。願ってる。彼女にこう伝えて欲しい」
それから、シオン様は言った。
「俺はフィーネが好きだ」
言葉を返すことはできなかった。
フィーネは少しの間硬直してから、普段の《黎明の魔女》を取り繕いつつ彼に背を向ける。
地面を蹴る。
駆ける速度はどんどんと速くなる。
逃げ込んだのは人気が無い森の中。
誰にも見られない、深い森の奥で、木の幹にもたれて荒い息を吐く。
経験したことのない気恥ずかしさと胸のあたたかさ。
そして、混乱。
(シオン様が私のことを好き? どういうこと? そもそも私ではなくて《黎明の魔女》が好きだったはずじゃ――いや、それも私と言えば私なんだけど)
なぜ私は二度も他人の体で好意を伝えられているのか。
そして、変装した私と中の人の私を両方好きになるとか、シオン様私のこと好きすぎでは……!?
『顔が真っ赤だよ、フィーネ』
「うるさい」
からかってくる幽霊さんの死角に隠れて膝を抱える。
初めて体験する知らない感情。
身体がふわふわする心地良い感覚の中で、フィーネは呆然としていた。