34 家族
ベルナールが《鏡》に吸い込まれた直後、フィーネは真っ白な世界に立っていた。
周囲を見回しても何も存在しない。
ただ茫漠とした白だけが広がっている。
試しに魔法式を描いてみた。
小さな花を咲かせる魔法。
しかし何もない白が広がるだけだった。
(おそらく、現実とは違う理で動いてる特殊な世界)
「その通りだよ。さすが、君は優秀だね」
立っていたのは幽霊さんだった。
何もなかったはずの空間に彼は立っていた。
いつもと変わらない穏やかな笑み。
しかし、その姿にフィーネは思わず息を呑んだ。
彼は半透明ではなかったし、声はたしかに鼓膜を揺らした。
幽霊としてではなく、実体のある姿で彼は立っていた。
「ここは僕が魔法で作り出した特殊な空間だ。精神世界のようなものだと思ってもらえれば認識的には相違ない。君と話がしたかったんだ。これが最後の機会だから」
幽霊は言った。
「少し昔の話をしようか」
「昔々、大戦争が起きて旧文明が滅ぶそのさらに昔。あるところに一人の男の子がいた。彼は魔法が大好きだった。そして、人間も好きだった。自分が魔法や魔道具を発明すれば、みんなすごく喜んでくれる。彼はうれしくて腕を磨いた。この上なく幸せな季節だった」
幽霊は愛しそうに目を細めた。
それから、続けた。
「でも、そんな季節にもやがて終わりが来る。周囲の人々は彼の魔法と魔道具を求めて醜い争いを繰り広げるようになった。彼は騙され、裏切られ、人間の醜さを思い知らされることになった。何より彼を傷つけたのは、自分の魔法と魔道具が悪用されて数え切れない数の人が亡くなったことだ。彼は自分を嫌いだと思うようになった。そして、人間も嫌いだと思うようになった。彼は周囲の人と関わるのを止め、辺境の屋敷に引きこもるようになった」
幽霊は言う。
「しかし、人々は彼を放っておいてはくれなかった。どんなに隠れても血眼になって探し、もっとすごいものを作ってくれと言った。もっと多くの富を生み出す魔道具を。もっと多くの力を手にできる魔法を。敵対者を殺し、敵国を屈従させる力をくれ、と。彼は心底人間が嫌になった。そして、自分の存在を他者から認識できなくする魔法を開発して自らにかけた。平穏な生活を手にし、静かに余生を送れるはずだった」
幽霊は苦笑してから続けた。
「魔法は失敗だった。彼は誰よりもたくさん失敗して来たけれど、その失敗は本当に致命的なものだった。彼はこの世界の理から外れた存在になり、死ぬこともできず永遠に生き続けることになった。誰に認識もされないまま」
彼はため息をつく。
「空虚な時間だったよ。生きているのか死んでいるのかもわからなかった。ただ、時間の流れだけがどんどん早くなっていった。大きな戦争が起きて、世界が終わりを迎えた。そこから、わずかな生き残りが少しずつまた世界を作り始めた。どうでもいいことだった。自分はこのままずっと一人で死んだように生きていくのだろう。そう思っていた」
少しの間、押し黙ってから言った。
「そんなときに、君が僕を見つけた」
フィーネのよく知る、やさしげな表情。
やわらかい前髪が揺れた。
「本当にびっくりしたんだ。まさか僕のことが見える相手がいるなんて夢にも思っていなかったから。君は師匠と僕を呼んでくれた。一緒にいろんなことをしたね。これは内緒の話なのだけれど、僕は君のことを娘みたいに思っていたんだ。父親になるような資格がない人間なのはわかってるんだけどね」
幽霊は言う。
「それでも、そう思わずにはいられないくらい、君は僕にとって大切な存在だった。君を幸せにするためなら、どんなことでもしようと思うくらいに。ずっと考えてたんだ。君のために何ができるだろう。僕は何をするべきなんだろうって。だから、僕はずっと準備をしてきた。この日のために。そして、君に嘘をついた。研究を完成させたい気持ちはあるけれど、そんなことは正直どうだっていいんだ。僕の目的は昔作った万能の願望機、《ククメリクルスの鏡》を手に入れることだった」
幽霊の傍らに大きな鏡が現れる。
鏡面の中に戸惑ったフィーネが映っている。
何を言っているのかわからなかった。
幽霊さんは《ククメリクルスの鏡》を手に入れたかった?
どうして?
「僕はこの《鏡》で僕の願いを叶える」
幽霊は言った。
「過去を改変し、君のご両親を蘇生させて伯爵家当主の娘として幸せに暮らせる世界に変える。君は本当のご両親に愛されて生きていくべきなんだ。あんなボロボロの屋敷で義理の家族に疎まれながら人生を送らないといけないなんて間違ってる。普通の伯爵令嬢として外の世界の人と交わって、良いことも悪いことも体験できる人生。それが僕が君に送ることのできる一番のプレゼントだと思ったから」
フィーネはしばらくの間押し黙っていた。
やがて、言った。
「でも、《ククメリクルスの鏡》には対価がいるんでしょ。過去を改変するなんてどれだけの代償が必要か」
「重要なのは魂が持つ魔力の総量だ。そして、それを満たすことができるだけの魔力を持つ人物を僕は知っている」
幽霊はフィーネを見つめる。
「僕の魂を対価として、《ククメリクルスの鏡》を起動させる。幸せになるんだ。新しい世界で、愛してくれる本当のご両親と」
鏡の前で名残惜しそうに首を振って。
それから、言った。
「さよなら」
《鏡》に幽霊の身体が吸い込まれる。
「待って――」
フィーネは駆け出す。
幽霊をこの世界につなぎ止めようと手を伸ばす。
しかし、間に合わない。
伸ばした手は届かず、白い世界にフィーネだけが残される。
《鏡》が蒼の光を放つ。
白い世界が急速に色づき始める。
過去が改変され、別の世界が作り出されようとしているのだ。
フィーネは顔を俯けた。
気を抜くと耐えられなくなりそうで。
泣いてしまいそうで。
でも、泣いてる暇なんてない。
――代償を吐き出させ、《鏡》の起動を無かったことにしないといけないから。
世界から音が消える。
加速する思考の海に沈む。
指先が複雑な幾何学模様を幾重にも描く。
作り上げたのは巨大なひとつの魔法式。
《鏡》が眩く光を放つ。
世界が光に包まれる。
「信じられない。いったいどうやって……」
真っ白な世界。
呆然と立ち尽くす幽霊に、フィーネは言った。
「私は貴方の一番弟子よ。見せてくれた技を真似して身につけるのが弟子の仕事」
幽霊を見上げ、威圧するように顔を近づけて続ける。
「私の幸せを勝手に決めないで。幽霊屋敷で生活した日々も私を作ってる大事な時間なの。そりゃどうしようもなくひどい環境だったけど、おかげで得られることもたくさんあった。硬い藁の上でも三秒で寝られるようになったし、一日一食しか食べられない分、食べ物の大切さを感じられるようになった。ちょっとのことじゃへこたれないくらい我慢強くなったし、よくないことでも前向きに捉えられるようになった。何より、そこには貴方がいた」
フィーネは言う。
「内緒にしていたけれど、私は貴方を父親みたいに思ってたの。何をしても嫌わずに傍にいてくれることに救われてたし、うまくいかないときにかけてくれるやさしさに勇気をもらっていた。どんなときでも味方でいてくれるから全然不安にならなかったし、間違いを犯したときは本気で叱ってくれた。私のことを本気で思ってくれてるのが伝わってくるから、怒られてるのに私はうれしかったの。私にとって貴方がどれだけ大きな存在だったか」
「でも、それは他に誰もいなかったから」
「違うわ。貴方でよかったって私は心から思ってる」
「触れられないし他の人からは見えない。血もつながってない」
「それがどうしたのよ。そんなことどうでもいいくらいに、私は貴方からたくさんのものをもらったの。何度人生をやり直すことになっても、私は貴方の娘になりたい」
フィーネは目を細める。
「だから、まだまだ傍にいてもらうわよ。お父さん」
幽霊の瞳から、涙が一筋流れた。
頬に美しい線を引き、雫になって足下に落ちる。
目元を手のひらで覆う幽霊に、フィーネは笑った。
「泣きすぎ」
だけど、フィーネは知らないのだ。
ずっと誰と関わることもできずに一人で生きてきた彼にとって、それがどれだけ救われる言葉だったのかを。
そして、幽霊も知らない。
両親を失い、新しい家族に疎まれてひとりぼっちだったフィーネにとって、彼がどれほどありがたい存在だったのか。
完璧にわかりあうことなんてできなくて。
血のつながりもない。
片方は生きているか死んでいるかさえわからない。
それでも、そこには間違いなく目に見えない絆があった。
どこにでもある、ひとつの家族があった。