33 黎明の魔女
(生きてる……! 私、生きてる!)
半信半疑でオリビアは自分の身体を確認する。
狂ったように暴れ回る心臓。
過呼吸を繰り返しながら、周囲の状況を見回す。
水魔法の大砲により、えぐり取られたみたいに半壊した屋敷の破片。
突如現れた仮面の魔女。
肌がひりつくような魔力圧。
尋常な人間とはまったく違う強者の風格。
(まさか、あの人は……)
その人物に、オリビアは心当たりがあった。
北部辺境を襲った《紅の魔竜》を単独討伐した英雄。
王国史上最強の魔法使いと称えられる伝説の存在――
(《黎明の魔女》……)
誰かが作った噂話だと思っていた。
まさか、本当に実在していたなんて。
その凜とした姿を、オリビアは呆然と見つめる。
(信じられない……あんな化物が相手なのに……)
同じ人間だとは思えなかった。
なんて清廉で美しい立ち姿だろう。
間近に迫った死に絶望していたオリビアにとって、仮面の魔女はあまりにも眩しく見えた。
(すごい……かっこいい)
◇ ◇ ◇
半日で十四の隠し拠点を潰して、ようやく突き止めたベルナールの潜伏先。
隠蔽魔法と魔法結界を粉々にぶっ壊して、屋敷の中に突撃したフィーネは、その手応えにかすかな疑念を抱いていた。
「ねえ、もしかしてあの犬畜生、《鏡》を既に使ってる?」
『うん、間違いない。化物じみた人ならざる力を持っているように見える。多分、対価を払って願望機に力を求めたんだろう』
「対価?」
『ベルナールの身辺を漁ったとき、孤児院の経営に熱心だったって話があったでしょ』
「あったわね。魔法の才能を持つ子を探してたって」
『多分その子達の魂を生け贄にしてる。早くなんとかしないと』
「ほんと救いようのない外道ね。テンション上がってきたわ」
肩を回すフィーネ。
対して、ベルナールは悠然と粉塵の中から現れた。
退屈そうに首を鳴らす。
その身体には傷ひとつついていない。
「つまらないものだな。私は強くなりすぎてしまったらしい」
(これはなかなか、一筋縄ではいかなそうね)
フィーネは観察するようにベルナールを見つめつつ、小声で幽霊に言う。
「――――――」
幽霊は小さく目を見開く。
数秒の沈黙。
うなずく。
『できる。できると思う』
「じゃあ、この作戦でいくわよ」
ベルナールは感情のない目で私を見つめていた。
「誰と話している?」
「魔法に世界一詳しい私の師匠だけど」
「虚勢を張るのもほどほどにしておけ。今この場でお前は一人だ」
「そう思ってるならそうなんでしょうね。貴方の中では」
「策を弄しても無駄だと言っている」
ベルナールは言う。
「《鏡》の魔法式を改変し、私から力を奪おうと考えているのであろう」
フィーネは唇を引き結んだ。
「……なかなか勘が良いみたいね」
「今の私を倒すことはこの世界にいる如何なる生物でも不可能だからな。搦め手を検討するのは当然の帰結だ」
ベルナールは退屈そうに首を振る。
「だが、無意味だ。無意味なんだよ、《黎明の魔女》。《ククメリクルスの鏡》で使われているのは失われた古代魔法の技術だ。王国で最も古代魔法に精通したお前ならわかるだろう。とても人間に作れるような代物ではないと」
「でも、古の賢者が作ったなんて話もあるみたいだけど」
「伝説はあくまで伝説だ」
「だとしても、私にできない理由はないでしょ。神でも賢者でもどちらでもいい。だって私の方が上だから」
「過信が過ぎるんじゃないか《黎明の魔女》。自分をなんだと思っている?」
「天上天下唯我独尊最高にキュートでかっこいい私よ」
フィーネの言葉に、ベルナールはクックッと笑った。
「驕りも傲慢もそこまでくるともはや清々しいな」
「驕ってなんてないわ。私は私を肯定してる。それだけ」
「よくそこまで自分を過信できるものだ」
「信じてくれる人って少ないから。私くらいは私を信じてあげないと、私がかわいそうだもの」
フィーネは静かに口角を上げる。
「見てなさい。《鏡》の魔法式を改変して、貴方に報いを受けさせてあげるから」
「教育が必要らしい。身の程を知らない愚か者に現実を教えるのも年長者の務めか」
退屈そうに首を鳴らしてベルナールは言った。
「十秒で心を折ってやる」
瞬間、ベルナールはフィーネの背後に立っている。
振り抜かれた手刀をフィーネは知覚することさえできなかった。
咄嗟に受け身を取ろうとするが間に合わない。
屋敷の壁を三つ貫通して倒れ込む。
髪の隙間から血が川を作って、ひび割れた仮面の下を流れた。
「一秒もかからなかったな」
ベルナールはフィーネの帽子を拾い上げる。
紙細工のように引きちぎってから退屈そうに踏みつけた。
強振する大地。
大穴の下で、帽子だったものが転がっている。
「冗談じゃないわ」
瓦礫の下から、フィーネはよろめきながら立ち上がった。
五本の肋骨と両腕の骨が折れていた。
自身に回復魔法をかけつつ、ベルナールをにらみ付ける。
「私の心は折れてない。十秒経った今もね」
「力の差はわかっただろう。続けたところで何の意味も無い」
ベルナールは冷め切った目で言った。
「敗北を認めて命乞いをすれば、命だけは取らないでやってもいい」
フィーネは少しの間考えてから言った。
「……私が生き残るにはそれしかないみたいね」
ベルナールの目に嗜虐的な光が宿った。
「ああ。私の傍らで跪け。頭を地面にこすりつけて許しを請え。そうすれば命だけは見逃してやる」
フィーネは唇を噛んで黙り込む。
長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……わかったわ」
よろめきながら、ゆっくりとベルナールの元へ歩み寄る。
断頭台に向かう罪人のような姿だった。
畏れと恐怖が彼女の足取りを重たいものにしているように見えた。
俯けた顔。
垂れ下がった前髪がひびわれた仮面を隠している。
「跪け。命乞いをしろ」
ベルナールの言葉に、フィーネの身体はびくりとふるえた。
ためらうような沈黙。
葛藤。
それから、顔を俯けたまま言った。
「するわけないでしょう、バカ貴族」
瞬間、フィーネは拳を振り抜いている。
ベルナールの頬を打ったその拳は、羽虫の体当たりほどの衝撃さえ彼にもたらさなかったが、フィーネの目的はベルナールに触れることだった。
起動する魔法式。
直後、ベルナールの身体は痙攣するように激しくふるえた。
「貴様、今何を……」
次々と展開する魔法式。
植物魔法でベルナールの身体をがんじがらめにしつつ言う。
「言ったでしょ。私には世界一魔法に詳しい師匠がいるって。師匠は幽霊なんだけど、さっきから私が時間を稼いでいる間に《鏡》を解析して新しい魔法式を作ってくれてたの。術式構造を改竄して対価として呑み込んだものを吐き出させる魔法式をね」
「バカな……《ククメリクルスの鏡》は神が作り出した奇跡だぞ。人間の魔法使いが解析なんてできるわけが――」
「そうね。他の魔法使いなら不可能だったと思うわ」
フィーネはにやりと笑みを浮かべて言う。
「でも、残念。私の師匠、古の大賢者様なの」
ベルナールの身体が焼け爛れ始める。
代償を失った《鏡》が、術者の魂を呑み込もうとしているのだ。
「私は死なない……絶対に死なんぞ……ッ!」
しかし、史上最強の生物と化したベルナールは止まらない。
植物魔法の拘束を剥ぎ取り、自身を吸い寄せる《鏡》から逃れようとする。
「しつこいわね。決着はついたんだからあきらめなさいよ」
「まだ終わっていない。お前を対価にして《鏡》を黙らせる」
「ぐっ……!」
ベルナールの思考回路は、わずかな時間で自身が生き長らえる唯一の方法を導き出していた。
それを警戒していたからこそ、フィーネは《多重詠唱》によって植物魔法を無数に展開してベルナールを抑え込もうとしていたのだ。
対象の魔力と生命力を吸い上げる蔦を発生させる植物魔法。
蛇の王を数秒で干からびさせる大魔法は、しかしベルナールを止められない。
ベルナールの手がフィーネのローブを掴む。
苦し紛れに放った水魔法と電撃魔法もベルナールに傷ひとつつけることはできなかった。
「私の勝ちだ」
笑みを浮かべるベルナール。
そのとき、フィーネのローブを切り裂き、ベルナールの身体に殺到したのは氷の刃だった。
「合わせろ、《黎明の魔女》」
シオン・クロイツフェルト。
《氷の魔術師》の異名を持つ史上最年少の五賢人。
彼も姿を消した祖父の隠し拠点を探していたのだろう。
瞬時に連携して魔法を放つフィーネ。
《黎明の魔女》について徹底的に調べ上げていたシオンだからこそできる、初めてとは思えない奇跡のような連携。
その魔法は単純な足し算以上の威力でベルナールに襲いかかる。
濁流のような猛攻の中、懸命に伸ばしたベルナールの腕は、あとほんの少しフィーネには届かなかった。
「アアアアアアア――――ッ!」
ベルナールの身体が《鏡》に吸い寄せられる。
水面に石が落ちるように、ベルナールの身体が鏡面に吸い込まれていく。
辺りを眩く照らす紫色の光。
伸ばした指の先が吸い込まれて、ただ《鏡》だけがそこに残った。