31 怒り
その日、王都の第十九区画にあるベルナール前公爵の隠し拠点は混乱の中にあった。
周辺拠点への何者かの襲撃。
集まってくる情報はどれも真偽の疑わしいものばかりだった。
『犯人は侵出してきた他国の麻薬カルテル』
『裏で王国上層部が糸を引いている』
『実は内部に手引きしている裏切り者が』
周辺地域において麻薬の密売を取り仕切る拠点の責任者、ウーゴは情報を精査していた。
彼の両手には赤黒い何かがついていた。
その傍らで、末端の売人が血に塗れて痙攣している。
「騒ぐな。ここは他とは違う。誰が来ようとやられることはない」
潤沢な装備と違法兵器。
彼の取り仕切る拠点は、王国内拠点の中で最も多くの戦力を保有していることで知られていた。
王立騎士団の精鋭でも、内部情報がなければまず突破できない万全の警備態勢。
各拠点が襲撃されたことで、その警戒度はさらに引き上げられている。
(問題は、敵がいったいどういった類いの組織なのか、だ)
ウーゴは書き出したメモを睨む。
沈黙が部屋に降りた。
深い海の底に沈んでいるかのような静けさだった。
照明の灯りに、漂う埃が反射している。
最初の異変は、建物を揺らす小さな振動だった。
立っていれば気づかないくらいの振動。
しかし、たしかにテーブルに置かれたコップの水面は揺れている。
その振動に、ウーゴはわずかな違和感を感じ取っていた。
普通ではない何かがそこに含まれているような気がした。
外の見張りに持たせた魔導式通信機から通信が入ったのはそのときだった。
『襲撃です! 何かが……! 何かがいます!』
通信はそこで途切れた。
「何がいた。答えろ」
問いかけへの反応はない。
擦れるようなノイズだけが聞こえている。
遠くから響く地鳴りの音。
不穏な何かを孕んだ振動は少しずつ近づいてくる。
『まずいです! 止められません!』
『ひっ――――』
切迫した声とノイズ。
途切れた通信が再び繋がることはなかった。
(なんだ……何が起きている……?)
戸惑い。
次の瞬間、彼を襲ったのは背筋に液体窒素を流し込まれたような悪寒だった。
真っ白になる思考。
からからに乾いた喉の奥。
(何だ、この異常な魔力圧は……!?)
立っていることができなかった。
同じ部屋にいた幹部の二人は魔力圧にあてられて、崩れ落ちよだれを拭うこともできずにふるえている。
(何が……いったい何がいるんだ……)
生涯で初めて経験する恐怖の感覚。
彼が知る尋常な世界の理を超えた何かがそこにいる。
やがて、静かに扉が開いた。
「ごきげんよう。すごいですね。失神せずに耐えるなんて」
現れたのはローブに身を包んだ仮面の女性だった。
彼女は朝の散歩のような落ち着いた所作で、ウーゴに歩み寄って言う。
「死にたくなければ答えなさい。私の大切な人を傷つけた犬畜生はどこにいますか?」