30 君がいないということ
「フィーネがいなくなった……!?」
「はい。昨夜の内に窓からお屋敷を抜け出されていたようで」
愕然とするシオンに、言葉を選びながら執事は言う。
「部屋の中の何かが盗み出された形跡はありませんでした。持ち去られていたのはフィーネ様のお荷物だけです。念のため、部屋の外のものについてもこれから確認しようと思っておりますが」
「確認の必要は無い。彼女はそういうことはしない」
言いながら、シオンは激しく混乱していた。
なぜこのタイミングで彼女が屋敷から姿を消すのか。
浮かぶのは考えたくない可能性。
(祖父とフィーネが内通していた……?)
十分すぎるほどに説得力のある仮説であるように思えた。
慎重な性格のベルナールが、縁談にあたってフィーネの周辺状況を念入りに調査したことは間違いない。
その中で、あらかじめこうなることを想定して、内通者になるよう手を回していたとしたら――
ありえないことだと思いたい。
しかし、完全に否定できなければ、その可能性は頭の隅にひっかかって彼を苛む。
何より、シオンを動揺させていたのは、彼女がいなくなってしまったという事実だった。
結婚してから、家族のように近くにいた。
忙しい生活の中で時間を作り、共に食事を食べていろいろなことを話した。
最初は彼女が《黎明の魔女》の弟子だったから興味を持った。
だけど、それはあくまできっかけ。
途中からいつの間にか、自分は彼女自身に関心を持つようになっていたのだろう。
腐敗と偽りに満ちた家の中で育ち、誰も信じることができなかった自分が唯一自然体で話すことができた相手。
その存在はシオンが自覚している以上に、彼の中で大きなものになっていた。
彼女がここにいない。
ただそれだけのことで、頭の中が真っ白になってしまうほどに。
もしかしたら、二度と戻ってこないかもしれない。
そんな想像が浮かんで、息ができなくなってしまうくらいに。
(祖父を打倒し、彼女を見つけだす)
父が持っていた情報網を使い、祖父と彼女の情報を探す。
祖父と対立し、その周辺情報を独自に探っていた貴族たちが協力してくれた。
「ベルナールは王国内に三十九の拠点を持っています。裏社会で麻薬王と呼ばれる麻薬カルテルのボスと深いつながりがあり、様々な犯罪行為を裏から手引きしている。行動は慎重で極めて注意深く、一筋縄でどうにかできる相手ではありません。何より、各拠点には最新式の違法兵器で武装した兵士たちがいる。突入するならこちらも相応の被害を覚悟しなければなりません」
「最悪の場合、命を失う者も出る」
「はい。貴方も、私も」
張り詰めた空気。
部屋に飛び込んできたのは、父が放っていた密偵の一人だった。
「大変です! 何者かが、今朝ベルナールの拠点を襲撃! 現場は一方的に跡形もなく破壊されていたとのことで」
ひきちぎられたような沈黙が部屋を包んだ。
「ありえない……あの厳重な警備態勢をいったいどうやって……」
呆然とする貴族たち。
「どこだ? どの拠点だ?」
「ここと、それからこことここ」
「三カ所も?」
「七カ所です」
密偵の男は言った。
「おそらく、我々の理外にいる何かが動いている」
「まさか《黎明の魔女》か?」
「彼女が関わっている可能性が高いかと」
しかし、シオンはそこにもう一人、別の人物が関わっているのを感じていた。
《黎明の魔女》を誰よりも知る一番弟子。
昨日の夜、傷ついた自身の従者を見て、刃物のような目をしていた彼女――
間違いなく、フィーネがそこにいる。