29 魔女は夜に消える
クロイツフェルト家のお屋敷に戻ったフィーネたちを待っていたのは、凄惨な光景だった。
半壊したお屋敷と負傷した従者さんたち。
その中に自分を好いてくれたその子の姿を見つけて、フィーネは絶句する。
「ミア……! ミア、どうして……!」
「襲われていた私たちを助けようとしてくれたんです」
ふるえる声で言ったのは右手に包帯を巻いた侍女さんだった。
「フィーネ様ならきっとそうするからって。最後は私たちを庇って……」
全身に包帯を巻かれて、ミアは人形みたいに眠っていた。
駆けつけた魔法医師に処置を受けたのだろう。
命に別状はないものの、完治するまでには少なくない時間がかかってしまうはずだ。
湧き上がる怒りが抑えられなかった。
元々ぶっ飛ばしたいと思っていた悪徳貴族。
だけど、今胸を焼いている怒りは、前のような軽いものとは違う。
(ベルナール卿。貴方はやってはならないことをした)
ベルナール卿は幽閉されていた地下室を脱出し、協力者と共に行動している可能性が高いと言う。
自室に戻って鞄に荷物を詰める。
心の中は既に決まっていた。
(二度と誰も傷つけることができないところまで徹底的に叩き潰す。たとえどんな手を使っても)
『いいのかい? 彼に説明しておかないと、もう二度とこの家に戻って来られないかもしれない』
「いいのよ。元々悪徳貴族をぶっ飛ばして姿を消す予定だった。予定より少し長くなっただけ。次期公爵夫人なんて恵まれた立場と生活、一時的に体験できただけでも幸せすぎるくらいだもの」
おいしいごはん。
やわらかいベッド。
料理長のお菓子とケーキ。
意外なくらい優しかった旦那様。
料理長のお菓子とケーキ。
びっくりするくらい良くしてくれた大学の人たち。
料理長のお菓子とケーキ。
幽霊屋敷に幽閉されていたフィーネにとってはすべてが、手放したくないと思ってしまうくらい素敵な体験で。
だけど、それさえも捨ててしまえるくらいに、今の自分は血管がぶち切れている。
月の見えない夜。
大きな鞄を手に、フィーネは窓からシオンの邸宅を抜け出す。
裏口の塀を跳び越えて、ローブの下から仮面を取り出した。
(さよなら、公爵家での生活)
仮面を付けた私――《黎明の魔女》は夜に消える。
◆ ◆ ◆
「なんなの、あの子……! 聞いてないわよ! あんなすごい魔法が使えるなんてありえない!」
第二王子殿下の誕生日パーティーからの帰り道だった。
伯爵家所有の馬車の中で、怒りに震えるオリビアの頬を打ったのは、母であるイザベラだった。
「なんてことをしてくれたの……! 貴方のせいで会場はあの子の話題で持ちきり。あの子に王宮の要職を任せてみてはどうかなんて声まで聞こえてくる始末。何より、もし今回あの子をステージに引っ張り出したのが貴方だって知られたらどうなるか。いよいよ、あの子は私たちを潰そうとするかもしれない」
馬車の壁を叩いてイザベラは言う。
「そうなるとどうなる!? 私たちは終わりよ。全部貴方のせい」
「でも、元はと言えばパパとママがベルナール様の縁談を受けたからじゃ――」
「黙りなさい」
「厄介者を処分してさらにお金と公爵家との結びつきも得られるって」
「黙りなさいッ!」
平手打ちの音が響く。
月のない静かな夜だった。
堪えられず泣き始めたオリビアの嗚咽は馬車の外まで聞こえた。
「過去を変えることはできない。変えられる未来のことを考えよう」
言ったのは、ウェストミース伯だった。
フィーネの叔父であるウェストミース伯は、落ち着いた口調で続ける。
「家族と一族の名誉を守るために何をするべきか。それが重要だ」
「もう手遅れよ! 何ができると言うの!」
「口を封じる手段はいくらでもある」
ウェストミース伯は言う。
「あの子を家に呼びだせ。あとは私に任せてくれれば良い」
息苦しく冷たい沈黙が馬車の中を包んだ。
誰かが息を潜めて聞き耳を立てているような気がした。
誰も何も言わない。
揺れる馬車の軋みと、車輪が小石を散らす音だけが聞こえている。
人気の無い道を進んでいた馬車が不意に動きを止めたのはそのときだった。
「なぜこんなところで止まる?」
「そ、それが……」
怯えた声で言う御者。
そこにいたのは、武装した兵士たちとそれらを率いる一人の老人だった。
その顔を見たウェストミース伯は息を呑む。
「ベルナール様……捕まっていたはずでは……」
「私が出ることを望んでいなかっただけのことだ。シャルルも随分と知恵を付けたようだが、まだまだ青い。私の力ならあの程度、いつでも抜け出すことができる」
ベルナールは柔和に微笑んで言った。
「主らに協力を頼みたい。私を軽んじた愚か者どもに罰を下すために力が必要でな」