2 幽霊屋敷
小さい頃から、フィーネは本が大好きだった。
五歳で両親を亡くしてから、茫漠とした世界にひとりぼっちみたいに感じていた自分を救ってくれた本。
幸い、フィーネが幽閉されていた幽霊屋敷には持ち主を失ったたくさんの本が残されていた。
傷んだ古書の埃を丁寧に払い、前のめりになって本の世界に没頭する。
中でも、フィーネが好きだったのは奥の棚に並んだ不思議な本だった。
かすかに発光するその本が、侍女たちには見えないみたいなのだ。
何度も実験して確認したから間違いない。
その本が見えるのはフィーネだけだったし、だからこそフィーネは発光する本を夢中で読んだ。
(きっと特別なすごい本に違いないわ!)
本はフィーネが知らない言語で書かれていたけれど、不思議とフィーネはそこに書かれた言葉を理解することができた。
『すごいね、君。その本が読めるんだ』
そう声をかけてきたのは、ふわふわとした長髪の男性だった。
美しい顔立ちはどこか幻想的な現実感のなさを伴っていた。
まるで高名な魔法使いみたいなローブを着たその人は、興味深そうに私を見つめている。
「おじさん、だれ?」
『おじさんじゃない。お兄さん』
にっこり目を細める男性の声は、鼓膜を通さず直接頭の中に響いているみたいだった。
『しかも僕が見えるなんて。これはすごい。逸材だね』
身体は半透明で、じっと見ると奥の窓がうっすらと覗いている。
「なんだ、幽霊か」
『あの、普通もっと驚くところじゃない?』
「今、続き読むので忙しいから後にして」
『え、ええ……』
フィーネはそれから幽霊を半日放置して本を読みふけった。
「ふう、面白かった」
『めちゃくちゃマイペースだね、君』
「だって幽霊さん。この本すごく面白いんだもの」
『そう言ってくれるのは著者冥利に尽きることではあるんだけど』
「これ貴方が書いたの!?」
フィーネは前のめりになって幽霊にたくさん質問をした。
その昔、《黎明の賢者》と呼ばれていたと言う幽霊さんは物知りで何でも知っていて。
自然とフィーネは幽霊さんを、師匠と呼んで慕うようになった。
「ねえ、師匠。かくれんぼしましょ。師匠がずっと鬼ね」
『なにそのいじめみたいなルール』
「ねえ、師匠。庭のキノコ食べたらなんかピリピリするんだけど」
『吐きなさいっ!』
「ねえ、師匠。眠れないから付き合って」
『いいよ。なに話す?』
照れくさいから言いたくなかったけれど、幽霊さんと過ごす日々はフィーネにとってとても心地良いものだった。
先生として、友達として、親代わりとして。
会話を聞いた侍女が、「イマジナリーフレンド……! フィーネ様、おかわいそう……!」と涙を拭うから、あまり大きな声では話せなかったけど。
師匠にいろいろなことを教わりながら、フィーネは着実に一人前の魔法使いになっていった。
「ねえ、師匠。魔術論文のコンテストがあるんだって。出していい?」
『でも、要項に十八歳以上って書いてるけど』
「大丈夫よ。義理のお母さんにバレたら面倒だから、偽名で出すし。多分一次審査を通るのがやっとだろうしね」
『そうだね。君は才能あると思うけど、さすがに十二歳で大人向けの論文コンテストで通用するものを書くのは厳しいだろうし。いいんじゃないかな、ひとつの経験として』
こうして、《黎明の魔女》という名前で出した『八次元と二十四次元における魔法式崩壊定数の考察』は衝撃を持って王国魔法界に迎えられることになった。
正体不明の魔法使いは、王国史上類を見ない才能の持ち主としてその名を知られる存在になった。
「師匠! 通用しないって話だったじゃない! なんで!?」
『だって、まさかあそこまで出来の良いものを書くとは思ってなかったから……一生懸命な姿を見てると、出すのをやめろとは言えないし……』
これ以上騒ぎになっても面倒だから、とフィーネは論文を書くのをやめた。
代わりに、仮面で正体を隠して裏山の魔物をぶっ飛ばして回るようになった。
(これなら、魔法の練習もできるし、ストレス解消にもなる! 田舎だから人の目につくこともない。正に天才的解決策ね!)
しかし、フィーネが倒していた裏山の魔物は、大陸有数の危険地帯である《魔の山》に棲息する災害級に分類される魔物たちだった。
魔物の脅威から人々を守る正義の魔法使いとしてフィーネの評価は高騰。
「王国史上最高の天才」「清く気高き救世の魔女」「北で一番やばい女」と様々な異名で呼ばれるようになった。
こうして《黎明の魔女》として活躍しながら、表向きは幽閉された貴族令嬢として過ごしていたフィーネが悪徳貴族との結婚を望むようになったのは、ある日の会話がきっかけだった。
「師匠は何かしたいことってあるの?」
『したいこと?』
「うん。暇だしあるなら手伝ってあげてもいいかな、と思って」
『フィーネは優しいね』
「うるさい。いいから話せ」
ぶっきらぼうに言ったフィーネに、幽霊さんは笑って言った。
『やってた研究を完成させたいかな。あともう少しのところだったから』
「いいじゃない。手伝うわよ」
『ありがとう。でも、ここでは工程上必要な実証実験ができないんだ。ロストン王室の中で《三種の神器》と呼ばれている伝説の魔道具のひとつ――《ククメリクルスの鏡》が必要でね』
「その鏡はどこにあるの?」
『クロイツフェルト公爵家が保有してる。調べてみたんだけど今は門外不出で、当主以外はどこに置いてあるのかも知らないみたい。あの鏡の持つ力を考えると、隠したくなる気持ちもわかるけどね』
フィーネはクロイツフェルト公爵家当主について調べた。
ベルナール・クロイツフェルト。
クロイツフェルト公爵家における絶対的権力者。
想像を絶する規模の贈収賄。聖王教会との癒着。麻薬カルテルとの裏取引。繰り返される側近の不審死。違法薬物の密売、違法兵器の製造など様々な黒い噂のある悪徳貴族。
彼は若い娘を好み、目も当てられない鬼畜の所業を繰り返していた。
(ということは、家族に疎まれていて周囲と関わりが無い令嬢はむしろ興味を持ちやすいはず)
辺境の屋敷で外に出ることもできずにいる貴族令嬢の噂を流し、縁談の話を作るのは難しいことではなかった。
『なんでそんなことを……危険だし、どんなリスクがあるか……』
「いいの。私がしたかっただけだから。ついでに悪徳公爵をぶっ飛ばして、正義の鉄槌を下してやるのも楽しそうだしね」
『……絶対に君のことを守るから』
「ありがと。二人で、邪知暴虐な悪徳貴族を粉微塵にしてやりましょ」
書庫の本を積めるだけ馬車に積めて、フィーネは公爵家に出発した。
「なんておかわいそうなフィーネ様……! 私、どんなことがあってもフィーネ様の味方ですからね!」
侍女のミアも強引についてきた。
いろいろと勘違いしているみたいだけど、味方が多いのは良いことだし、とフィーネは考えるのをやめた。
(さあ! 邪知暴虐な悪徳貴族は目前! 助走を付けてぶっ飛ばしてやるわ!)
肩を回して、ウォーミングアップしていたそのときだった。
「大変です! ベルナール様の息子であるシャルル様が挙兵! 武力によって、ベルナール様は拘束され、シャルル様が新しい御当主になるとのことで――」
「………………へ?」