19 星月夜だけが知っている
その日の夕食も、旦那様はやっぱり余所余所しかった。
私がうっかり行った蛮行――
「ふはははは! 強引なキスでお前を汚してやったぞ!」
「そんな、ひどい……ひどいわ……」
悪逆非道な鬼畜王子のような所業で、旦那様のハートはぐちゃぐちゃ。
もはや平常心を取り戻すのも難しい状態なのだろう。
(あれ? やっぱりなんか性別が逆のような……)
ひっかかるところはあったが、深くは考えないことにした。
会話が弾まないなら沈黙を楽しめば良い。
何より、料理人が作ってくれたごはんのおいしさはまったく変わらないのだ。
幸せな生活を送るために、それ以上何が必要だろう。
頬が落ちそうな夕食を堪能してから、私室へ。
「今日は疲れたから早く寝ようと思うわ。ぐっすり眠りたいから絶対に起こさないで。なるべく誰も部屋に近づけさせないように」
「わかりました! 任せてください!」
張り切って返事をするミア。
ちなみに、フィーネが心ならずも鬼畜王子になってしまったのは、元を正すと彼女がドジをしたせいなのだが、ミアがそれについて責任を感じている様子は微塵もなかった。
そんなことには気がついてさえいないという感じで、「フィーネ様! お庭にダンゴムシさんがいましたよ! 元気そうでした!」と幼児みたいなことを言う始末。
初めて会ったときには、この子はお馬鹿そうだし悩みとかまったくないんだろうな、と思ったけれど、関係が深まった今では、この子はお馬鹿そうだし悩みとかまったくないんだろうな、と思う。
良いことだ。
考えすぎないのが幸せに生きる秘訣である。
そんなことを思いながら、ベッドの中にクッションを入れて眠っている偽装をする。
灯りを落として部屋の奥に隠してあるそれを取り出した。
鞄の奥に作った隠しポケット。
空間を圧縮する魔法を使って隠し入れていたのは、ローブと帽子とシークレットブーツ。
そして――仮面。
窓を開ける。
吹き抜ける風がレースのカーテンを揺らす。
月の灯りに目を細めてフィーネは言った。
「それでは、魔女の時間を始めましょう」
《変身魔法》は、フィーネが最も得意とする魔法のひとつだ。
元々、バレずに幽霊屋敷の外に出るために勉強した魔法だけど、結果として《黎明の魔女》として活動する際に最も役に立っているのがこの魔法である。
夜の闇の中、カラスに変身したフィーネは心地良い風の中を飛んでいた。
目指すは王都の第十五区画にある前当主ベルナールの別邸。
本邸と同じくらいの頻度で使用されていたというこのお屋敷には、侵入防止用の魔法結界が張り巡らされていた。
(目視できる八種の結界は囮。本命はその奥に隠した十一の結界)
黒猫に姿を変えたフィーネは、慎重に時間をかけて結界の構造を分析する。
『かなり複雑な結界だけど大丈夫?』
「うん。任せて」
幽霊にうなずきを返しつつ、結界の網に小さな穴を作る。
人間には狭すぎる穴だけど、今のフィーネは黒猫なので身をかがめれば通り抜けることができた。
別邸の庭を歩く。
夜露に濡れた芝生が月の光を反射している。
『どこから屋敷の中に入る?』
「三階の天窓から入りましょ。一階に比べて警戒網も薄いし、誰かに気づかれるリスクも低い」
長い尻尾でバランスを取りつつ、軽やかな足取りで三階の屋根に上ると、水魔法で作った糸で天窓を円形に切り取る。
「よし、完璧」
旧ベルナール邸に潜入する。
フィーネたちの秘密に、夜空の星だけが気づいている。
うまく話せなかった夕食。
後悔の後味に顔をしかめつつ、シオンが向かったのはフィーネの私室だった。
余所余所しい態度になってしまっている非礼を詫びたい。
しかし、部屋の前で立ち塞がったのは彼女が信頼している侍女だった。
「フィーネ様は大学のお手伝いでお疲れのようでして。今日は誰とも話さずぐっすり眠りたいと仰っておられます!」
タイミングが悪かったらしい。
(しばらく帰れない可能性があるから、先に話しておきたかったんだが)
思うようにいかないものだと嘆息する。
自身の執務室で待っていたのは、年上の部下であるハンスだった。
「本当にやるのですか、シオン様」
「ああ。父の動きには不可解な部分が多い。おそらく、あの別邸に祖父は何かを隠している」
シオンは言う。
「潜入し、祖父が隠しているものを突き止めるぞ」