16 玉突き事故
(ふう、なんとか開けることができたわ)
《エメラルデラの箱》を開け、無事に実技試験を突破できた、と安堵していたフィーネだけど、待っていたのはまったく予想していない事態だった。
「て、天才だ……」
「十代であそこまでの魔法技術……とても信じられない……」
瞳をふるわせる先生たち。
見ていた学生達も口をぽかんと開けて呆然としている。
(もしかして、やりすぎてしまったのでは……)
頭をよぎる嫌な予感。
一度集中すると周りが見えなくなる性格が災いした。
「い、いや、たまたま運が良かっただけでそんな大した魔術師では……」
なんとかごまかして逃げようとするフィーネ。
(そうだ! 必殺、お腹痛い作戦よ!)
圧倒的頭脳を持つ天才であるフィーネが編み出した、病気のふりをする高等技能。
「お、お腹の調子が……」
しかし、か細い声は興奮した教授達の耳には届かなかった。
「どうかうちの研究室に!」
「私にも協力してくれないだろうか」
「君の力が必要だ!」
殺到する教授達。
逸材を絶対に手放したくない教授たちの熱量は凄まじいものがあった。
彼らは皆、魔法のためなら生活のすべてを捧げられる特異な人格の持ち主だった。
つまるところ、完全に周りが見えなくなっている。
(ひっ、人がいっぱい……!)
人生の多くの時間を一人で過ごしてきたフィーネにとっては、とてもついていけない人口密度。
(くらくらする……!)
なんとか断ろうとするけれど、パン屑に殺到する鳩のような状態の教授たちを説得するのは、対人経験に乏しいフィーネには難易度が高すぎた。
「や、やります! やりますから許して!」
完全敗北したフィーネは、週に三日臨時研究員として教授たちの研究に協力することになって肩を落とした。
「な、なんでこんなことに……」
頭を抱えるフィーネに、幽霊さんはにっこりと目を細める。
『いいじゃない。君がたくさんの人に必要とされて僕はうれしいよ』
「他人事だと思って」
『他人事じゃないよ。弟子がみんなに高く評価されてるのは、師匠としても悪い気はしないしね。あと、何より面白い』
「面白がるな」
放ったパンチは空を切る。
くすくすと笑う幽霊さんと、不服そうなフィーネ。
(ったく。仕方ないわね)
こうして、始まった王立魔法大学のお手伝い。
うんと伸びをしつつ、研究室へ助っ人に向かうフィーネの背中を見ながら、幽霊はつぶやく。
『よかったと心から思うよ。ずっとひとりぼっちだったからこそ、君にはもっとたくさんの人に囲まれて、愛されて生きていってほしい』
それから、彼女の背中を見つめた。
『僕は多分、ずっと一緒にはいられないから』
ロストン王国大王宮。
宰相コルネリウスの執務室。
「おい、聞いたか。お前の奥方すごいらしいぞ」
身を乗り出して言うコルネリウスに、シオンは面倒そうな顔で言う。
「今は仕事の話がしたいのですが」
「まあ、聞け。彼女が先日、王立魔法大学にお手伝いに行ったっていうのはもちろん知ってるよな」
うなずくシオンに、コルネリウスは続ける。
「みんな、奥方の実力を疑ってたんだと。辺境の屋敷に籠もり、ずっと独学で勉強していた十代の女性に、名誉教授が熱弁するほどの力があるわけないと。ところが、蓋を開けてびっくり。みんな、あまりの才能に飛び上がってしまったらしい」
「彼女の実力なら自然なことかと思いますが」
「へえ。君も認めてるのか」
興味深そうに言うコルネリウス。
「どうやら、本物の実力者らしい。あの感じだと、魔術師として歴史に名を残すような可能性も十分にある。そんな逸材を活用せず放っておくのは、この国にとっても損失だと思わないかね」
「何が言いたいのか、わかりかねますが」
「彼女に、我々の仕事を手伝ってもらおうと言ってるんだよ。王国を支える優秀な魔術師夫妻。話題性も十分だし、女性を重用することで先進的な国家であることを対外的にアピールすることもできる。彼女の将来を考えても、キャリアアップに繋がる良い機会だ。名案だと思わないかい」
コルネリウスはにやりと口角を上げて言った。
「もちろん、彼女の意志が最優先だけどね。提案しておいてよ。これは命令」
(正直、気が進まないな)
コルネリウスの命令を反芻して、シオンは深く息を吐いた。
結婚してまだ二ヶ月も経っていない。
ずっと人と関わらず辺境の屋敷で過ごしていたという彼女だ。
外の世界に適応するのに時間がかかるのは当然のこと。
加えて、《黎明の魔女》の捜索も手伝ってもらっている。
彼女が教えてくれた北部辺境の山中からは、たしかに《黎明の魔女》がいたと見られる痕跡がいくつも見つかっていた。
(負担をかけるのは本意ではない。断っていいということも伝えつつ話してみるか)
夕食時にコルネリウスの提案について伝えると、
「さ、宰相様までなんで……!?」
彼女は頭を抱えてうずくまった。
変な顔をしているあたり、かなり混乱しているらしい。
断ってもいいと伝えると、
「いいのですか?」
と意外そうに顔を上げた。
「ああ。構わない」
「でも、とても偉い方ですよね。シオン様にとっても上司にあたるのでは」
「俺の都合で君に無理をさせるのは違う。既に君には《黎明の魔女》の捜索にも協力してもらっている」
フィーネはじっとシオンを見つめた。
「シオン様って結構優しいですよね」
予想外の言葉に、シオンは喉が詰まりそうになる。
「なんだ、いきなり」
「氷のように冷たくて人の血が通ってないって聞いてたのに、すごく気遣ってくださってるのを感じてるので」
(本人の目の前でよく人の血が通ってないとか言えるな)
人間関係においては、時々かなりずれているところもある彼女だ。
しかし、そういう変わった部分もシオンは好ましく感じていた。
誰もが偽りの自分を演じる窮屈な貴族社会の中で育った身としては、その率直さがむしろ心地良い。
「気のせいだ」
答えながら、シオン自身も普段と違う自分を自覚していた。
味方と言えるような相手は周りにいなくて。
誰も信じることができなくて。
寝首をかかれないよう常に気を張って生きてきた。
クロイツフェルト家には敵が多かったし、隙を見せれば下劣なやり方で触れてくる醜い大人たちもいた。
気を抜いてはいけない。
心を許してはいけない。
ずっとそうやって生きてきたのに。
彼女の前では不思議なくらい安心していられる自分がいる。
(多分、彼女が自分から距離を詰めようとしてこないからだ)
悪意と下心を持って近づいてくる者たちばかりの中で、彼女は自分にあまり興味が無いように見えた。
近づきすぎず、適切な距離を保とうとする。
最初に、あまり関わるなと伝えたのを意識しているのもあるのだろうか。
(随分ひどいことを言ってしまった)
思いだすとめまいがしてくる初めて会った日のこと。
それでも、彼女はまったく気にすることなく関わってくれて。
(本当にありがたい)
生まれて初めてできた心を許せる存在。
彼女の存在は、シオンの中で着実に大きなものになっていた。
夕食の時間が終わる。
名残惜しかったが、引き留めて彼女の時間を奪うのも申し訳ない。
「それでは、失礼しますシオン様」
侍女と共に退室する彼女を見送る。
もっと話したい。
そんな気持ちを飲み込んでいたそのときだった。
「わわっ」
声の主は、彼女が信頼している侍女のミアだった。
つま先が、絨毯の間にあるわずかな段差にひっかかったらしい。
よろめいたミアは、フィーネに体当たりする。
玉突き事故。
バランスを崩すフィーネの先にいたのは、シオンだった。
(――――え?)
激しく揺れる視界。
壁に押しつけられる。
頬に触れる湿った何か。
やわらかい肌の感触。
鼻先をくすぐる艶やかな髪。
爽やかな青林檎の香りがした。
「ご、ごめんなさい!」
あわてて飛び退いた彼女は、顔を真っ赤にして唇をおさえていた。
そのまま、あわあわとしばしその場で足踏みしてから、小走りで部屋を出て行く。
遠ざかる足音。
フィーネが部屋を出て行ってからも、シオンはしばらくその場から動くことができなかった。
経験したことのない情報の洪水がシオンを激しく混乱させていた。
「シオン様。そろそろご夕食の片付けがしたいのですが」
「…………」
執事の声もまったく聞こえていない。
立ち尽くしたまま、先ほどの出来事を反芻する。
確認しないといけない何かがそこにある気がした。
丁寧に、慎重に記憶を辿る。
あたたかくやわらかい人肌の感触。
頬に触れた湿った何か。
そして、飛び退くように離れた彼女の、唇をおさえて顔を真っ赤にした表情。
(なんだ、これ……)
知らない感情の嵐の中で、シオンは呆然と立ち尽くしていた。
「死にたい……死にたいわ……」
逃げるように部屋に戻ったフィーネは、枕に顔を押しつけ、ベッドの上でバタバタしていた。
(突き飛ばされたとはいえ、壁に押し倒して頬にキスしちゃうとか……! ロマンス小説の中でしかやっちゃいけないやつじゃない!)
ああいうのは、あくまで本の中だからこそ良いものだというのがフィーネの持論だった。
現実でやっちゃうのは、正直ちょっと痛い。
(しかも、性別逆だし……! 私が男の人を押し倒しちゃってたし!)
考えれば考えるほど、死にたくなる恐ろしい蛮行。
折角初めてできた外の友人として、良い感じの関係を築けていたのに。
(終わったわ……もう死ぬしかないやつだわ……)
その夜、フィーネはその出来事を思いだすたびに、頭を抱えて地の底から響くような声でうめいていた。