13 不思議な感情
「どこに隠してるのよ! あの前当主、いくらなんでも注意深すぎるわ!」
一ヶ月が過ぎて、フィーネは未だに《ククメリクルスの鏡》を見つけられずにいた。
かすかな情報を頼りに、夜こっそり代々当主が暮らす邸宅に忍び込んでは、怪しいところをさぐっていたのだけど、出てくるのは関係ないものばかり。
悪逆貴族と言われていた前当主はよほど注意深く、《鏡》を隠していたらしい。
『おそらく、誰かに寝首をかかれることも想定していたのだろうね。自らの行いで多くの人の恨みを買っているのを自覚しているからこそ、人間を信じられない一面があった』
「こっちからすると良い迷惑よ。少しでも早く、こんな生活終わりにしたいのに」
『あれ? でも、結構幸せそうに見えるけど、今の生活』
「……そうね。その点については否定しないわ」
『他の点で何か問題があるの?』
「快適すぎるのよ」
フィーネは拳をふるわせて言った。
「ごはんは三食出るし、夜はいつもテーブルいっぱいのフルコース。ベッドはふかふかで、頬をずっとこすりつけていたくなる心地よさ。魔導式のシャワーはあたたかいお湯が出るし、お風呂は足を伸ばせるくらい大きい。シェフが作ってくれる焼き菓子とケーキが常備されてるから、毎日食べてたら私の体重は八キロ増えた」
『元がびっくりするくらい痩せてたからむしろ健康的で良いと思うけど』
「いくらなんでも心地良すぎるのよ、ここでの生活! なんでお腹いっぱい食べられるの!? 風で壁が軋まないのも、シャワーがあたたかいのも意味がわからない。こんな生活慣れちゃったら、普通の生活ができなくなるじゃない! ごはんは一日一食、冬は身体を震わせながら藁にくるまって寝るのが普通なのに!」
『普通じゃないよ、それ』
新生活の心地よさに、フィーネは激しく混乱していた。
彼女が幽閉されていた幽霊屋敷での日々とはまったく違う快適な生活。
その結果生じる、生活水準上昇への慣れがフィーネを恐れさせていた。
「こんな生活してたら、普通に戻れなくなる……その辺の草をおいしくいただけないと普通の暮らしなんてできないのに」
『普通の人はその辺の草食べないからね』
「それでも、ここは悪い噂の多い悪徳貴族家。結婚相手は冷酷無慈悲の《氷の魔術師》様。私は虐げられ、その結果生じるストレスによって、心の平穏を取り戻せるはずだった。今まで通り、苦しい中でも前向きに、小さな幸せを大事に生きていくのが人生なんだわって」
『結果はどうだったの?』
「なんか、普通に仲良くなっちゃってるのよ、最近……」
フィーネは頭を抱える。
「一ヶ月毎日、朝食と夕食の二回話してたら、なんとなく親しみを感じるようになっちゃってるというか。《氷の魔術師》も私の話を興味深そうに聞いてくれるし、私も話してて楽しいし」
『普通に仲いい友達って感じだよね、最近の君たち』
恐ろしいことに、フィーネとシオンは相性が良かった。
幼い頃から魔法に強く惹かれ、人生のほとんどをそこに注いできた二人だからだろうか。
意外なくらいに気が合うし、価値観にも共通することが多い。
何より、フィーネは今までずっとひとりだった。
幽霊さんとミアはいたけれど、幽霊屋敷の外にいる誰かと仲良くなるのはこれが初めて。
生まれて初めてできた外の世界の友達。
その存在は、彼女が抱えていた寂しさと乾きをちょうどよく潤してくれているみたいだった。
(これが友達というものなのかしら……)
瞳を揺らすフィーネに、幽霊さんはにっこり目を細める。
『君が幸せそうで僕はうれしいよ』
「うるさい」
照れ隠しでしたパンチ。
心の中にあたたかいものが残っていた。
ロストン王国、王都の中心部にある大王宮。
王国における政治の中枢であるこの場所で、シオン・クロイツフェルトは最も優秀な若手魔術師として知られていた。
「最近調子良さそうだな」
声をかけたのは、宰相を務めるコルネリウスだった。
幼少期からシオンを知る彼は、この国において実務上の最高責任者を務めている。
シオンが最年少で五賢人の一人に選ばれるまで出世を重ねることができたのも、彼に気に入られ重用されたことが大きい。
その意味で二人の間には、通常の上司と部下以上の深いつながりがあることで知られていた。
「……そうですか?」
「ああ。遠征帰りの連中が驚いてたぞ。『シオンの目が死んでない! 口角が二ミリ上がってる!』と」
「気のせいでは?」
「いや、君の隠れファンであり一挙手一投足の観察をライフワークにしているレオスが言ってたから間違いない」
「なんですかその寒気がする存在」
「君の表情は以前より確実に人間味のあるものになってる。危険な最前線ばかり志願し、生還しても鬱屈とした顔をしていたあの頃からするとえらい違いだ」
「そこまで大きな違いはないと思いますが」
「少しの違いに大きなものが含まれてるんだよ。見かけに騙されてはいけない。重要なのはその奥にあるものだ」
コルネリウスはじっとシオンを見つめてから目を細めた。
「新婚生活は順調みたいだね」
「プライベートのことは詮索しないでいただけますか」
冷やかかな口調で言うシオンに、「ごめんごめん」とコルネリウスは手を振る。
「昔から知ってる私からすると、君の変化がうれしくてさ。だって、あのシオンだよ。対人関係の一切を無駄だと切り捨て、歯に衣着せぬ物言いから人の血が通っていないと恐れられた《絶対零度の冷血》。それが、奥さんと話したいから早く帰りたいだなんて」
明るい声でコルネリウスは言う。
「素敵な人なんだ」
「この仕事、断って他の人に流します」
「待って。その案件は君じゃないと困る」
「なら、無駄話せず仕事してください」
冷めた目で言って、シオンは背を向ける。
「最後にひとつだけ聞かせて」
背後からの声が聞こえたのは、扉に手をかけたそのときだった。
「もう死にたくはなくなった?」
その言葉は、今までの軽口とはどこか違う響き方をしているように感じられた。
おそらく、それこそが彼が最も聞きたかったことなのだろう。
「わからないです」
部屋の外に出て扉を閉める。
その答えは、彼の正直な気持ちだった。
幼い頃から抱え込んでいた複雑な感情。
愛のない家族。
残虐非道な祖父と冷たい世間の視線。
両親が出て行ってからは狂った家の中でずっとひとりだった。
祖父は周囲の人間を痛めつけることを何よりの生きがいとしていた。
響き続ける悲鳴。
無力で何もできずに聞いている子供の自分。
司教に身体を触られたことを訴えても、祖父は面白がるだけだった。
息をしているだけで自分が汚れていくように感じられた。
周囲にあるのは金と欲に塗れた関係だけ。
健全であたたかい愛情やつながりなんて見たことがなかったし、作り方も知らない。
自分はこのままずっと一人で生きていくのだろう。
そう思っていたのに、今は少しだけ生きているのが楽しい。
あの日、救われた《黎明の魔女》。
四年間追い続けたその手がかりをつかんだから。
そして、彼女に似た不思議な女性と話す時間を、シオンは心地良く思っているから。
(どうして彼女の言葉は、胸の中にすっと入ってくるのだろう)
考えれば考えるほど不思議だった。
幼少期の経験から人間不信になっている自分がなぜか自然体で話せる相手。
最近では《黎明の魔女》と関係ない、彼女自身の話を聞くのも心地良く感じている自分がいた。
女性が苦手で、結婚させようとする周囲の圧力を避けるために、関わらないで済む相手を選んだはずだったのに。
(誰かと話したいと思っているなんて)
ずっと一人で生きてきた彼にとって、それは人生で初めての感覚だった。
普通の夫婦関係とは違うかもしれない。
でも、その時間がとても心地良い。
(なんなんだろう、この感覚は)
心の奥に、かすかに灯った不思議な感情。
時間が過ぎるのがどうしようもなくうれしかった。
(仕事が終われば、彼女と話せる)
かすかに口角を上げて、シオンは目の前の書類にペンをはしらせる。