第五話 亡くなった妻と、お茶を一緒に。3
前話から、間が空いてしまいました。
また、お付き合いいただけましたら幸いです。
改めて、目の前に座る妻の顔を見た。
先ほど、桜の樹の上に座っていた時の、この世ならざる雰囲気は薄れている。
慣れ親しんだ部屋の中にいるからだろうか。温かな人間味を感じる。
しかし、やはり亡くなった時の年齢よりずいぶんと若い姿だ。
幼なじみから恋人へと変わった頃くらいの顔立ちだろうか。何となく気恥ずかしい気分になるのは、そのせいなのかもしれない。
(亡くなった時の年齢より、顔や手の肌がきめ細かい、と言ったら怒られるんだろうな)
二人の間に流れる空気が妙に初々しく、落ち着かない。まるで、何十年も時を遡ったような感じだ。
ふいに、くすっと笑う声が聞こえて我に返った。
「そんなに難しい顔しないで。って言っても無理よねぇ……。私は一年前に死んでるんだもの」
その言葉を聞いて、どきっとした。
先ほどまで、散々自分で状況を分析して、ある程度の答えを見いだしてはいたが、やはり彼女の口から改めて「死んでいる」という言葉を聞くのは衝撃的だった。
(やっぱり、死んだはずの春香なんだ)
そして、次に浮かんだのは「じゃあ、なぜここにいるのか?」という、至極当たり前の疑問だった。
本来、俺は幽霊なんて存在は信じない質だ。それでも、こうして彼女と会話をし、彼女が煎れたお茶を飲んでいる。これは事実だ。
まだ、夢や幻なのではないか、という考えは捨てきれていないが……。
ほんの少し迷った末に、思い切って口を開いた。
「なぁ、春香。――本当に、春香、なんだな……? お前は、俺の妻で。一年……前に、死ん、だ……」
そう尋ねる声は思った以上に震え、拙い話し方になった。
気を張らないと涙が出そうで、右手で左の二の腕を強く握り、体の震えを抑えつける。
しかし、そんな必死の問いかけに対して、「そうよ」と春香は拍子抜けするような返事をした。
「さっき庭で、私の名前を呼んでくれたでしょ? その時も、ちゃんと返事をしたのに」
そう言って、彼女は少し拗ねたような顔をした。
(確かに「春香」と彼女の名前を呼んだ。返事もしてくれた……けども!)
俺は片手で、さほど長くもない前髪をかき上げた。
「死人が生きた人間の前に現れるということは、特に珍しいことでもない」とでもいうような、彼女の飄々とした態度に、少しの苛立ちを覚える。
「早く迎えに来て欲しい」と思いながら暮らした、途方もない1年間の苦しさをぶつけてしまいたくなる。
(この一年、俺がどんな思いで、お前の写真を眺めてたと思ってるんだ)
それでも、妻が愛おしい。
俺は自他共に認める愛妻家だった。それは、現在も変わらない。
喧嘩をしても、折れるのはいつも俺のほうだった。これが、惚れた弱みというものなのだろう。
そもそも、口が達者な春香に、口喧嘩で勝とうと思うことが間違っているのだろう。
ふぅっと、長めに息を吐いて、気持ちを整える。
死人と再会することが、珍しかろうが珍しくなかろうが、目の前に起こっている出来事に向き合うしかない。いや、向き合いたいのだ。
神仏からのプレゼントだろうと、化け物にからかわれていようと、何でも良い。
非現実的な現象であろうとも、春香にもう一度会えた。
そして、死別しようとも、五十歳近い年齢になろうとも、いまだに妻に振り回されている。
そんな妻を小憎たらしく愛おしいと思う、この感情は本物なのだから。
慣習で墓参りや初詣などには行くが、実際のところはスピリチュアルやオカルトめいたことを敬遠する者も多いという。
しかし、大事な人を亡くしたことをきっかけに、あの世や幽霊の存在を信じるようになることも珍しくはないようだ。
おそらく、俺もその口なのだろう。
長年の価値観さえ変えてしまうのは、大切な人には「幽霊でも良いから会いたい」と願うからだ。
また、その人がただの骨となり、心や魂は一欠片も残さずに消えてしまった、とは思いたくないからだろう。
そして、その人の魂はまだどこかで生きていて、もしかしたら、自分を見守ってくれているのかもしれないと信じたいのだ。
だからこそ、確かめねばならない。
彼女がこの世に現れた理由、その心の内を。