第十一話 夢のような夢 1
新章に入り、サブタイトルが変わりました。
揃いの寝具に喜んではいたが、ふと、布団は一組でも良かったかもしれない、と思った。
寝間着に着替えた妻の姿が、香り立つようで、少し触れてみたくなった。
肌ツヤが良く軟らかそう頬や首筋
V字の寝間着から覗く鎖骨。
「良い歳して恥ずかしい」「いつまで新婚気分なんだ」と昔、娘に言われたことを思い出した。
せめて、これくらいなら、と。
手を繋ぐことにした。
彼女の布団に右腕をを入れて、手探りで彼女の左手を掴んだ。
春香は驚いたように、首だけでこちらを向いた。しばらく目が丸くなっていたが、すぐに柔らかく微笑んでくれた。
「秀志さん、四十九歳になったね」
「そうだよ。一人だけ歳とったよ」
「遅くなっちゃたけど、お誕生日おめでとう」
「あまり、めでたいとは思ってないけど、ありがとう……」
俺は先月、四十九歳になった。もうすでに空気は冷たく、紅葉シーズンも盛の頃だ。
温泉旅館や景色の良い観光スポットで、仲睦まじくインタビューに応える同年代の夫妻を見ると、無意識にリモコンに手が伸び、チャンネルを変えている。
数年前までは春香や娘たちが、誕生日を盛大に祝ってくれていた。春香の性格から、誰の誕生日でも、わりと派手に祝う家庭だった。
四十過ぎのおっさんに、そんな可愛らしい飾り付けやケーキは不似合いだろう、と気恥ずかしくなりながらも、実は嬉しかったのだ。
晩年の妻の体では、パーティーを催すのは難しかったが「おめでとう」と微笑んでくれることが、やはり嬉しかった。
だから、自分の誕生日を祝う言葉をもう一度聞けるなんて、思いもしなかった。
もし、聞けるとするならば、もっとずっと先のことだろう……と。
今年の誕生日当日は、娘と娘婿が「一緒にごはんを食べよう!」とやって来た。
テーブルに並んだのは、いつもと変わらない家庭料理の中に、少しだけ特別感のある料理がいくつか。
そして、祝い事をあまり感じさせない、御持たせのケーキ。
しかし、それは大きな駅前にある有名店で三十分は並ばないと買えない。
しかも、駅前まで行くのに、車で二十分はかかる。
俺も春香も好きだった店のケーキを、わざわざ用意してくれたのだろうということは、一目で分かるが、あえて何も言わない。
「お誕生日おめでとう!」と言わない娘たちの心配りが無駄になるからだ。
一緒に食事をする理由が「誕生日の祝」だと言われていれば、おそらく俺は断わっただろう。
春香の喪が明けていないという言い訳はできるが、結局のところ、自分の誕生日に春香が隣にいないことを直視できないだけだ。
それを娘たちには見透かされているようだった。
「久しぶりに食べたかったんだよねー」
娘がケーキを切り分けながら、歌うようにそう言った。
家族3人、味の好みは似ていたから、確かに娘が食べたかったのかもしれない。
しかし、今は悪阻で食べられないのでは? 無理をさせてしまったか? と心苦しくなったが思いのほか、娘の皿が一番に空になった。
しかも、もう一切れを取ろうとしている。
「体、大丈夫なのか?」
娘に思わず尋ねた。
何のことだろう? というように首を傾げた娘が、あぁ! と、合点がいったと声を上げた。
「悪阻のこと? 大丈夫、大丈夫。食べられる物と食べられない物の違いがまだよく分からないけど、ケーキは大丈夫みたい。駄目な時は吐き通しだけどねー」
「おい」
食事の席だ、と娘が婿に窘められている。
娘の同級生だった婿のことは、生まれた時から知っているが、ずいぶん立派に育ったものだ、と我が子のように感慨深かった。
(うちの娘を扱うのは、なかなか根気が要るだろうに)
うちの娘は端的に言うと、じゃじゃ馬タイプだ。
気立ては悪くないが、何事も白黒ハッキリさせたがり、物事をさっさと一人で決めがちなところがある。
その選択がいつも正解であれば良いが、人生そうとはいかないものだ。
だから、しっかりと手綱を握ってくれる伴侶が必要だと常々思っていた。
(良い男のところに、早いこと嫁いでくれて助かった)
そんなことは、口が裂けても言えないが。
どんな応酬をされるか分かったものじゃない。
このあたりでも、春香の娘だと思い知らされる。
しかし嫁ぎ先では、この性格が気に入られ、義理の両親にも可愛がられているようで安心している。
婿の両親とも、お互いに子どもが生まれる前から付き合いがあるため気心が知れている。
春香が亡くなってからは特に気にしてくれており、たびたび夕食に誘われた。
せっかくの好意だからと始めのうちは寄せてもらっていたが、次第に足が遠くなった。
あちらの夫妻も仲が良い。
夫は無口だが、空気を読むのが上手い妻が会話を回し、気まずい空気になることはない。
とても居心地の良い空間だ。
しかし、なぜ、ここに春香がいないのだ。
あちらの夫妻は、こんなにも幸せそうなのに。
そう一度でも思ってしまうと、もう駄目だった。
何だかんだと当たり障りのない理由を付けては断っていると、あちらが空気を読み、誘われることも無くなった。
その代わりというように、娘が頻繁にやって来るようになった。
生存確認の一環でもあるのだろう。
娘はいつまでも俺と春香の娘には違いないが、もうすでに新しい家庭を築いている。
来年には家族も増えるのだ。
そんな娘夫妻にさえ、嫉妬している自分が情けなくなる。
「春香? 眠ったのか?」
返事はない。
すぅっと静かで規則正しい呼吸音とともに、布団がわずかに上下している。
繋いだ手に意識を移すと、握った指も柔らかく弛緩していた。
(大丈夫……。温かい)
春香の手の温もりに安心し、自分も全身から力を抜いた。
橙色の豆電球だけを点けた部屋が、いつもより少し明るい。
障子に目を向けると、室内よりも外のほうが明るい気がする。積もった雪が、月の光を反射しているのだろう。
次の満月はいつだったか……。
隣から妻の穏やかな寝息が、先ほどと変わらず聞こえてくる。
呼吸とは命の灯火のようだと思った。
この火が消える時が、人を含めた動物の最期だ。
寝室に自分以外の寝息が灯るのは、いつぶりか。
春香を見送る際に撫でた頬は冷たく、いつもとは違う化粧が粉っぽく感じた。
覗き込んだ顔は眠っているだけのようなのに、寝息は聞こえなかった。
(でも、もう大丈夫。これからはずっと……)
思考を最後まで胸の底に落とし込む前に、ゆっくりと眠りの世界に入っていった。
お読みくださり、ありがとうございます。
あと、1〜2話で完結予定です。
最後までお付き合いいただけますと幸いです。




