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第十話 亡くなった妻と、お茶を一緒に。8

主人公、ようやく少し落ち着いてきました。


 誰かと会話をしたり、感情を共有する機会が減り、俺が心の内だけで物思いにふけるようになったのは、自分が死んだせいだと落ち込む春香の指先を、なだめるようにそっと擦る。


 うっすらと浮かんでは、こぼれ落ちそうな涙を彼女は指先で拭う。

そして、俺の目を見て、くしゃっと笑った。


 化粧が取れないように気をつける女性独特の涙の拭い方や、濡れた指先を見て、幽霊にも体液があるのか、と妻の仕草をぼんやりと眺める。


(お茶も飲めるくらいだしな)


 そんなことを考えながら、今度こそ、春香から目を離さずに俺も笑った。


「あぁ、えぇっと……。まずは、そうだな。こんな状態になってるけど、成仏はできてるのか?」


 改めて、積極的に話そうと思うと緊張する。


「それは大丈夫みたい。死ぬ前みたいに、痛いとか苦しいとか、そういうのは全く無いの」

「それは……良かった」


 心の底から、そう言えた。

自分のそばに留まって欲しいけれども、妻に苦しい思いをさせたいわけではない。


「あぁ、そうだ。初孫ができるんだ。少しつわりがきついみたいで、心配だけど」

「そうね。元気に生まれてほしいわ。つわりは……うん、大丈夫よ。もう少ししたら落ち着くわ」


 遠くを見つめるような表情で、春香は迷いなく答えた。


「分かるのか? 経験上?」

「ちょっと違うけど、分かるの」


 そう言って、春香は宙を仰いで微笑んだ。


「そうか……。それなら安心だ。俺もできるだけ自立しないと……とは思ってる」


(初産の娘の負担には、なりたくないからな。できるかどうかは別だが。まぁ、何とかなるだろ)


 きっと生活を立て直す良い機会なのだと、自分に言い聞かせる。

それに、春香がそばにいてくれるなら大丈夫だと、淡い期待も抱いている。


 ふっ、と春香が優しく目を細めた。


「あなたも、おじいちゃんになるのね」

「お前だって、おばあちゃんになるだろ」


 死んだ自分には関係がない、とでもいうような春香の口調が寂しかった。


「そうね。私もおばあちゃんね」


 そう言って、くすくすと笑う姿を見て安心する。


「そういえば……どうしてそんなに若い姿なんだ?」


「女性はいつだって、若く美しくありたいものなの。大切な人の前なら尚更に」


「俺だけ、ひどく歳をとったみたいな気分になる」

「ごめんなさいね」


 やはり、春香は楽しそうに笑う。


 そんなふうに笑ってくれるなら、自分だけ目尻のシワや白髪が増え始めた姿でも、まぁ良いか、というような気もする。


 それから、骨壷はまだ持っていても良いのか、きちんと供養はできているのか、なども聞いてみたかった。

 オカルトは信じていなかった。それでも、春香が何か苦しんでいないか、という漠然とした不安はあったのだ。


 今は十二月。昨年の十二月に春香が亡くなり、四十九日もとうに過ぎ、今年の夏は初盆だった。

そして、もうすぐ一周忌だと、一段と気落ちしている俺の前に彼女はやってきた。


 納骨はいつにするのか、と法要の際には昔なじみの住職から話が出るかもしれない、という想像にも鬱々としていた。


 葬儀の際に「いつか俺が死んだ時に、春香の骨壷も一緒に納めてほしい。それまでは手元に置いておきたい」と娘に頼んだ。


 現在、俺は五十歳手前。平均寿命通りなら、あと三十年くらいは生きるだろう。

心身ともに弱っていることから、もう少し早まるかもしれないが……。

しかし、それは願ったり叶ったりだ。


 それでも、そんなに先まで納骨しないことについて娘は困った表情を浮かべたが、否定はされなかった。

おそらく、父親には縋るものが必要だと考えたのだろう。

 実際、写真だけではなく、春香の身体の一部がそばにあるから、何となくでも自分は生きているような気がする。


 そんな経緯を知っているかのように、春香が優しい口調で話し出した。


「いつも丁寧にお世話してくれてありがとう。供養は十分過ぎるくらいよ。納骨は……そうね。秀志さんが一番良いと思う時期に……」


 それを聞いて、ホッとした。


 しかし、「ここに来た理由が分からない」と、ぼんやり話していた春香がまるで幻だったかのように、スルスルと質問に答えてくれる様子を見ながら、別の不安や恐怖心が募っていく。


 本当にいつもありがとう、と重ねてお礼の言葉を告げた春香は柔らかく微笑んだ。


「あぁ……。段々、頭の中がスッキリしてきたわ」


 その言葉と同時に、彼女の瞳に強い意志を感じた。


(駄目だ)


「あとね、私から伝えておきたいのは……」


(それは駄目だ)


 その前置きの言葉を聞いて、思わず腰を浮かせた。そして、膝立ちで前のめりになって、対面に座っている春香の両肩を力いっぱいに押さえる。


「今日はもう遅い。春香も疲れただろ? もう休まないか?」

「そう、ね」

 

 困ったような表情をした春香を見ないふりをして、勢いよく立ち上がる。


「布団の用意をしてくる」


 生前の健康な時は、家事のほとんどを春香がしてくれていた。当然、布団や寝間着の用意も。

しかし、今日は自分で率先して用意を始めた。春香を帰さないために。


 春香の寝具は、この一年の間も日干しをして、風に当てている。

入退院を繰り返していた頃も、妻がいつ帰ってきても良いようにと手入れをしていた。

その時の名残りが今も続いていたのだ。


 春香が使っていたものは、何ひとつとして捨てていない。

布団や衣類、特に着物などはカビが生えないように管理するのは骨が折れた。


 初めは娘がしてくれていたが、さすがに身重の娘に負担を増やすことは(はばか)られ、方法を聞きながら自分でするようになった。


 そもそも、春香の遺品を手放したくないという自分のわがままなのだから当然だ。

自分の生活は疎かになったが、妻のことになると、自然と体が動いていた。


 しかし、今夜はそんなわがままが役に立った。客用布団ではなく、自分と色違いの布団を用意することができたからだ。


 以前から、どうも自分には女性のようなところがあるように感じていた。

「お揃い」「色違い」など、妻と絆が結ばれているような持ち物を好んだからだ。

周囲の男友達に、同じような奴はあまり居なかった。

そのため、自分は特殊なのだろうかと思っていたのだ。

 しかし、今になって考えてみると、妻が自分だけのものだと証明する物が欲しかったように思う。


 ヨーロッパでは、特別な相手には自分の髪や瞳と同じ色のアクセサリーやドレスを贈る習慣があったのだと聞く。

 良いように考えれば、自分の独占欲が滲む感情や行動も、それに近いのかもしれない。

他の者が入り込めないように、誰から見ても二人はパートナーだと分かるような「お揃い」に喜びを感じていたのだろうか。


 今となっては春香が生きていた、彼女が確実に存在していたのだという証の品々として執着し、それらを手放せなくなっている。


 先ほど、春香が口にしようとしていたのは、おそらく最期に聞けなかった言葉の続きだ。


 本当は、ものすごく聞きたい。

単なる不完全燃焼だから続きを知りたいという気持ちもあるが、春香に関することなら、何だって知りたいという感情のほうが大きい。


 しかし、今は同じくらいに聞きたくない、聞いてはいけない、という焦りが膨れあがっている。


 それを聞いてしまえば、きっとこの時間が終わってしまうのだろうと、本能で痛いくらい感じているからだ。

なんとか物語のゴールが見え始めました。

もう少しの間、お付き合いいただけましたら幸いです。

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