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晩春から初夏の色

ナユタブンノキザシ

作者: サグマイア

「ヤマちゃん、30歳おめでとう!」

「え、そうなの!?」

 ママからの祝福に、個タクの小宅が驚いている。そりゃ今でも酒買う時に年齢確認されるくらいだから無理はない。

「ママ、ボトルありがとう。小宅さん、一杯どうぞ」

「ママからのプレゼントを俺がタダ飲みしたら割に合わないって怒らない?」

「別にいいよ。小宅さんの誕生日プレゼント用意しないだけだから」

「100均のネクタイピンで許して~」

 これがコミュ障って言われる俺の誕生日。まぁ、年齢を重ねて改善はしている。警戒心は高めているが。




 営業に来る証券マンとも普通に会話するし、香港人とチャットで未公開株の検証もすれば、顧問弁護士とは口論もする。あれは善意だし努力の結果であってインサイダーじゃないのにってね。その弁護士に紹介された保険のセールスレディからは私生活の愚痴まで聞かされる。


 ただし、ここにいるママも含めて、全員が利害関係に留まっている。基本的に単独行動なんだ。


 それをぶっ壊した女が一人いるのだが…




「これが自分で買ったプレゼント」

「フェアレディZ!?」

「新車一括払いだよ」

「ヤマちゃんクーペにしたの?セダンとか、ワゴンでも良かったじゃん」

「そしたら乗車人数分たかられるじゃん」

「そうそう、ヤマちゃんが格安の同業他社になっちゃう…」

 ママが小宅の小言に納得して笑うが、クーペに同乗する一人の存在が気になったのか、トーンを下げた。

「なゆたちゃん、どうしてる?」


 大和田なゆた。こいつが、毀誉褒貶の毀と貶に愛される男の助手席に座りたがる女だ…







 まずは俺の名前の話から。山戸田(キザシ)。亡父は吉兆と書いてキザシと読ませたかったそうだが、それだと姓名判断で凶が出るという理由で、母が吉を取ったと聞いた。どっちにしたって、30年前のセンスにしてはブッ飛んでる。

 名前がこれだからなのか金には困っていないが、金を持っていそうな名前という理由で困ったことになって、ヤマトと呼ばせていた。吉を取ったせいで二分の一の確率で凶兆を引いた感じが否めない。


 なゆたは、そんな残念な男ありきの名前なんだ。

 未就学で、自動車や恐竜関連の漢字はそこそこ書けたし、和差積商もできた。あとは地理に明るい。外語も日本語と同じだ。読む書く聞くはそこそこできる。

 だから叔母が俺に肖ってなゆたと名付けてしまったようだ。今になってさぞ後悔したことだろう。


 肖られた男の人生は、なゆたが生まれた頃から狂い出した気がする。あまり思い出したくない話だし、それが今でも尾を引いているのだろう。

 失恋した挙句、就職に失敗した。




 大手証券会社を入社数ヶ月で退職して間もなく、父が肝硬変で鬼籍に入った。

 葬式が片付いて、俺は父の貯金を母と分けて証券の管理を全て引き継ぎ、その他に実家とクラウンも相続したが、実家近くのアパートに逃走した。乳癌性髄膜炎で後遺症を負った母の介護と叔母の小言が、精神科に通院している人間が社会性を取り戻す薬になるどころか毒になったからだ。

 ただ、区役所に通って介護認定を申請したり、ヘルパーを手配するために俺の署名押印が必要だったせいで、完全には逃げ切れなかった。


「区役所から介護保険証が郵送されるらしいから待ってて」

 どうにか実母と叔母への責任を果たせたことで、いつも自分ばかりと言う叔母をある程度楽にさせてやれた。

 そのためか、叔母は小言とは違う話をはじめた。

「あんたさぁ、どこに通院してるの?」

「ん?なんで」

「…なゆたも全然手伝わないのよ。進路が決まらないとかで、元気なくて…」

 それだけで通院とは気が早いとも思ったが、亡父の葬式に来た時のなゆたの態度を思い返せば、仕方ない気もした。

「なんで私だけ制服なの…?」

 これがなゆたが泣いてた理由だ。ネジが飛んでるんだ。




 結局、なゆたは誰でも入れるような専門学校の看護学科に受かったらしく、事前学習と称して実家に来るようになった。

 そして、来て早々にデリカシーの欠片もなく露骨に鼻を曲げて眉をしかめた。実の母親に対してそんなことをされたわけだが、最初から逃げていた俺が悪く言うことはできない。

「温泉行く?」

「え?」

「東久留米にあるだろ」

 混浴なわけがないのに、変な目で俺を見てきた。だが、俺の配慮は違う意味でも欠けていた。

「姉さん歩けないわけじゃないんだから、四人で行けばいいじゃない」

 最初は絶対しないと思っていた親孝行と叔母孝行に従妹も乗っかってきた形だった。


 湯上がりに涼んでいると、恐る恐る俺の隣に来て、ゲームをはじめた。スローライフ系の流行ってるやつで、俺も多少はかじったことがある。初期のキャラの思い出とか、最新の機能とか、最初の話はそこからだった。終わってみれば、なゆたが話すに話せなかったゲーム以外のことも聞いてやっていた。

 それが、通院まで考えていたなゆたの薬になったようだ。

「また温泉行こう。今度は親抜きで」

 随分と、懐かれてしまった。




 俺も13時間かけて朝刊を読むほどではなかったせいか、なゆたが専門学校に入学してからは、電車通学を嫌がるこいつの個タクになる機会も多かった。

 少し古い型のクラウンだったから、ステレオは使わずスマホで曲を流しながら、専門学校か高田馬場からなゆたが住む西東京に帰る。証券と看護じゃ共通する会話も見つけられず、一期一会のタクシー運転手より話さない時もあった。

 友達の話が、本当になかった。なゆたも、俺も。




「急いで洗濯するユニフォームとかあるの?」

「あ、うん」

 看護の実習ともなれば、汚れは自分の汗だけじゃなくなる。また不快感を顔に出したりでもしたら、本当に性格が悪い女になる。しかし、汚れたままでもいいわけがない。まだ酒も飲めない若い女なんだ。

「ここが行きつけのコインランドリーね。性能いいから主婦も使ってるよ」

 入学したくせに看護には興味がないのだろうが、洗濯機の説明は熱心に読んでいた。


 なゆたを家に届けてやってその話をすると、叔母はいい顔をしなかった。

「変でしょ?だからさ、通院させようと思ってるの…」

 言われてみればアスペルガー気味だ。興味あるものには集中して、なければ果たすべき責任さえも無視する。診断はないが、俺にもその気はあるから、なんとなく察する。




 またなゆたが電車帰りを嫌がって俺を呼んだ。

 その運転中、バックミラーがフラッシュした。なゆたが鏡ごしに俺の顔を撮影したようだ。

「友達が知りたがってるの」

 なんだ、友達いるじゃん。

 俺から専門の友人の話をしなかったのは、なゆたを利用して俺の下心を満たそうとしているように思われたくなかったからだ。それに、実際にそんな気はない。そんなことしても、どうせ嫌われて終わるから。

「なんか、目元だけ見ても、キザシってかわいいよね」

 運転中だからどんな写真が撮れたのか確認できなかったが、男なら嫌う言葉を嫌に思わなかった。

「かわいいって、子供っぽいってこと?」

「ん~、声はハスキーだから、お姉ちゃんかな…」

 コキ使ってるわけではないが、甘えてる自覚はあるとでも?相変わらずの無神経な発言だが、俺は救われた気になった。

「友達には、従兄って紹介する?別に姉でも弟でもいいけど」

「あいちゃんは…キザシのこと、お金持ちのおじさんだと思ってる」

 そりゃ古いクラウンだもんな。これを見られたんだったら、おっさんに思われても仕方ない。

 そして、なゆたが親の車じゃないとでも言ったせいで、あいちゃんが俺に興味を示したって流れだろう。要するに、金目当ての女に警戒しろってわけか。

 ただ、姉を演じるのはそれはそれで気楽になるかもしれない。男として生きて、歪んで、昔の女で男を保とうとして嫌われたことが、フラッシュバックする。

 この頃は失恋から日が浅かったし通院中でもあったから、フラッシュバックすれば事故を起こしても不思議ではなかった。どうにか別の話題を繕わないといけない。


「俺がスポーツ見ない理由、知ってる?」

「私も見ないけど、理由なんてあるの?」

 俺を語るには、これが一番早い。

「僻んで妬む性格を自覚してるから、人の努力を讃えるようにしてる。その反動か、人が人の努力を潰して、さらに喜んでるのを見ると、悪い俺を見てるみたいで不愉快になってね」

 これは表向きの、人聞きのいい理由。この先はなゆたには難しい話になるだろう。話そうとしたが、ここまでにした。


 本当は、見ないのではなく、見なくなった。今でも見てるのは、人対人じゃないという理由から、あのガチなアスレチックのやつくらいだ。

 チームスポーツを勧められたが、本当に肌に合わない。

 言うなれば、応援する素質がないどころか、フーリガンの素質がある。

 俺は資格だけの証券アナリストだが、投資家は金を払う対象を負けさせない責務がある。しかしスポーツは棲み分けができないという大問題がある。要するに優勝という一社しか達成できない目標を何社もの企業が目指すから、負けてなんぼの世界だし、そもそも自覚の有無こそあれど投資家同士の競合が激しく、俺一人の投資では責務を果たせない。

 優勝を目指さずにオリジナリティで勝負するチームがあればいいのだが、それなら一般企業を見ればいいって話になって終わる。

 さらに、チームスポーツでは企業の一員として投資した個人事業主が後に企業に敵対する危険性がある。たとえ個人事業主の努力を評価しようとも、企業が損失するのであれば、個人事業主に投資するべきではない。このように選手を社員として雇用しない不安定さも、投資へのデメリットになる。


 もし投資してほしいなら、相手に金を払って負けてもらう程度には安定感があるチームになってもらいたい。それであれば投資家の責務を果たせるだろう。ただ、こうした手法を否定される業界だ。やはり合わない。

 報われないなら、最初から手を出さない。俺なりの賢さである。

 スポーツ選手もこんな奴には応援されたくないだろう。お互い様だ。


 これぞまさしく俺の中の僻み妬み。スポーツマンシップを育むこともできずに、負けてきた。それにより植え付けられたもう次がない恐怖を手段を問わずに避けようとする情けない姿だ。

 この話は止めておいたせいか、俺には闘争心がないと誤解させてしまったようだ。なゆたは助手席で、寝やがった。




 鏡を見て、寄っていた眉をほぐし、一文字に結んだ唇を眉とは逆に寄せる。

「かわいいねぇ」

 簡単な肯定ですら舞い踊るのは、俺の自尊心がそれだけ失墜しているからだ。補えるなら、何でもする。

「猫顔いけるかなぁ」

 ちょっと出かけてくる。


「いらっしゃいませ」

「ここってさ、メンズはないの?」

 メンズコスメは徐々に普及しているが、当時はそこまででもなかった。

 童顔の低身長が髪を伸ばしている。服は無理にメンズを着たせいで袖に手首を隠し、裾を引いていた。靴も無駄に大きいせいでガパガパと音を立てて、余計にガキっぽい。合ってるのは眼鏡だけ。

 恥ずかしい思いをしたが、初めてなんだから、これも学習だ。ストレスには弱いが、目的を持っていればそうはならない。

 結局、メンズコスメのスターターに収入印紙を貼って、施設内のブティックを回った。ジャケットもデニムもハットもシューズも、探せばあった。ソックスばかりは量販店でキッズサイズを買ったが、あっさりとスターターの総額を超えた。

 極めつけに、ピアスもした。猫顔を目指して、相手の視線を両耳に集中させることで相対的に顎を小さく見せるように計算したからだ。


 それだけ費やしただけあった。サイズが合った服にこの身体を認められたことで、俺を認めてこなかったメンズサイズを切り捨ててもいいことを覚えた。

 この有用な消費は魅力を感じなかったディフェンシブを売って回収した。




 今回は高田馬場のロータリーではなく、専門の最寄りの地下鉄付近のコンビニに呼ばれた。長時間駐車していられないから、なゆたを少し待たせてから到着した。

「やっぱり二人目いたか…」

 あいちゃんは、案の定なゆたにマウントしていた。スムーズに、あいちゃんが助手席に、なゆたが後部座席に乗る。

「ああ、あいちゃんで当たってる?」

「そうですよ。よろしくお願いします」

「どうも。俺の写真見たの?結構違うでしょ」

 男の高い声。洗車して消臭剤を置いた車。そして、メイクそのものの匂いと甘い香水。無頓着だった車内の空気の変容に驚いているのは、なゆたのほうだった。

「違いますか?キザシさん、元々睫毛長いから…」

「母親がコンパニオンだったからね」

 あいちゃんはなゆたよりも聞き取り易い会話ができるし、運動なら俺よりもできそうだ。ケバくはないが、俺のとは違う甘い匂いがした。香水か、柔軟剤を多用しているようだ。あいちゃんも看護の現場の空気に反発している若い女だった。

「あいちゃんはどこ在住?」

「武蔵小金井です」

「じゃあなゆた先に降ろすけどいい?」

「え?」

 後部座席からも聞こえた。二人とも俺を無欲な人間だと思っていたようだ。

「じゃあ、あいちゃんが先でいいよ」

「でも近いならなゆたが先でも大丈夫だよ」

「ねぇ、もっと身構えなよ」

 声色を低めにしてなゆたの助手席を奪った女に警戒を促す。

「まぁ、電車が面倒なのはわかるよ。

 痴漢でしょ?ああいう性格の男は女の子だけじゃなくて俺みたいな男も見下してくるからね。憎いのは俺も同じだよ」

「え、キザシさんも痴漢に遭うの?」

「いや、そうじゃないけど」

 あいちゃんは笑っていたが、声色に続いてバックミラーに映る俺の目の色も変わると苦笑いになった。

「あいつらは欠落した自尊心が外に向かって、人を格下だと思うことで補おうとしてるんだよ。攻撃して仕返しされなきゃ自分は偉いと勘違いしてるし、格下になる覚悟がないから格上の話に耳を塞いで学習もせず、どんどん見下される存在になっていくんだ。悪運が尽きて格上に裁かれる時には、自分の間違いを認められなくなってる。女に暴力を振るう原因も、全部他人のせいだってな」

 そんな人間を憎むだけで仕返しできない俺は、本当に格下なのかもしれない。ただ、人間はやり返せる強さを得ると、泣き寝入りする人間の味方を辞めていくことも知っている。

「あ、いますよね。そういう男…」

 また、フラッシュバックしそうだ。情けない男の半分は、昔の女の目に映った俺の姿でもある。


 初対面の女の子に言い過ぎたことを反省して、ドライブスルーでハンバーガーを奢った。本当に痴漢を嫌がって車で帰ろうとしたのなら、わざわざ嫌われるのは互いのためにならない。

「あ、青梅街道は工事か。五日市街道通ってあいちゃん先に降ろすよ」

「ありがとうございます。駅の駐輪場で大丈夫です。場所は着いたら教えます」

「そうそう、言い忘れてたけど、初対面の男の助手席に座るのはやめたほうがいいよ。気があるって誤解させるから」

「そうですか?すいません…」

 どうせあいちゃんに気はないし、気があったとしても、俺の忠告は正しい。俺に価値があるかを判断してから、なゆたを退かすべきなんだ。

「ありがとうございました」

 またよろしくお願いします、がなかった。そして本当にこの一度きりになった。


 さて、後は小金井街道を北上すればいいんだが…

 なゆたが、後部座席から運転席のシートを蹴りはじめた。無言で、何度も。

「やるなら靴脱げ」

 そう言うと、助手席に向けて靴を投げつけて、またシートを蹴ってきた。次の車はクーペにしよう。

 いい加減に集中できない。理由も不明だからやめてもらえない。俺の不満も募って、やってやる気になった。ハンドルを、西東京ではなく練馬のアパートに向けて切った。


「靴履いて降りろ」

 なゆたの手を引いてアパートに帰り、鍵を閉めて抱き寄せた。なゆたはこの俺よりも頭半分小さい。

「ぶんぶくのこと覚えてる?」

「ん…」

 失礼、ぶんぶくは俺が高校の時まで飼ってた茶トラのこと。初カノの絵理愛(エリア)が、こいつのこと好きだった。

「あいつがさ、うるさく鳴いてきた時はよくこうやって黙らせてた。

 餌くれとか、水なくなったとか、外出せとか…理由は単純なんだけど、そうゆうお願いを叶えてやるのも面倒な時とかに、こうやってさ。

 …言ってみろよ。お前は何がしたいんだ?」

 なゆたはここでも喋らない。俺のピアスをこねるだけだ。

「痛い…」

 流石にされなかったが、吐息は俺の耳を噛むほどに近かった。それに、ようやく口を利いたと思ったら…

「あいちゃん、彼氏いるんだよ?」

 知らねーよ。

「キザシ、今日はかわいくない。でも、やっぱりお姉ちゃんだった。痴漢のこと、よくわかったね」

「俺も苦労してんだよ」

 そうは言ったものの、ぶんぶくにやっていた抱き寄せる動作こそ、女の意志を無視する痴漢の行為と同じじゃないか。

「言いたいことはもうないか?」

「ん…」

 なゆたを離してやった。あいちゃんから仕掛けてきたし、知らなかったにせよ、彼氏持ちを助手席に乗せたことがかわいくなかったんだろう。俺の下心が怖かったのかもしれない。

 なんか500mlを勝手に飲んだくせに甘くない炭酸はまずいとか言ったりしてるけど、見たいものがあるなら見ればいい。もう、なゆたの個タクも今日で終わりになりそうだからな。




 もう終わったかと思ったら、3週間後になってまたなゆたに呼ばれた。

 高田馬場のロータリーで待っていると、クラウンの助手席を乱雑に開けて乗ってきた。

「おお…」

 できるもんだな。ボブカットにして、睫毛を盛って、服もボーイッシュ。匂いがわからないのは、香水を合わせたからだろうか。

 なゆたは俺が邪な気を起こさないように、あの日の俺に似せてきたようだ。

 ところで、だ。

「いくらかかった?」

「4万手前」

 アパートに来た時に、俺が行ったショップを調べてたらしい。

「銀座のフラッグシップじゃないにせよ、新宿でプレスティージュブランド買っちゃったの?」

「このブランドって指定したら、それはメンズだって笑われた」

「そりゃな。まぁ笑われたと言っても、客に言われた通り華の女学生に男向けのコスメ売り付けるんだったら、それこそセールスレディ失格だよ。あれは精巧で金かかる商品だからね。

 でもまあ、あそこで4万手前でまとめたなら賢い買い物したと思う」

「あそこでは買わなかったよ。服とかまとめて池袋で」

「そうだよな。服も合わせて4万手前だよな」

 今のなゆたは金額でトラウマを覚えるくらいでいいのかもしれない。

 でも高い。アルバイトしてる気配もないのに。

「そんで、金はどこで用意したんだ?」

「ちゃんと返すから…」

「借りた?誰に」

「そうゆう会社から」

 無審査で貸したバカと、当てもないのに借りたバカがいた。なゆたに対して、俺の中の男が出てくる。

「おい、前に苦労してるって言っただろ。誰が苦労させてるのかって言うと、口先だけで自分で苦労しない奴なんだよ。

 明細出せ。業者によってはここで人生終わるぞ」

 なゆたはやけに素直に財布から素直に借用書を出した。大手から5万円。確かにこの額なら学生のアルバイトでも返済できる。

「これだけじゃ、キザシになれないよね…」

 突然の涙声だった。なゆたは俺が気を起こすのを嫌がって俺に似せたのかと思ったが、違った。俺になりたかったんだ。

「キザシはなんでそんなにお高くとまってるの?今日頑張ったのに、すぐに戻っちゃうし…

 化粧したらかわいくない。普段の顔はカッコ悪い!」

 高いんじゃない。女の子より汚いから余計に金かけなきゃいけないんだ。

「またぶんぶくみたいにされたいか?」

「やればいいじゃん。今日はそのカッコ悪いほうの顔で」

 赤信号で停車すると、なゆたは助手席から身を乗り出した。

「やれよ。かわいいほうの顔で」

 なゆたはドラッグストアで買えるようなチープなメイクで、金をかけた俺よりも綺麗になっている。

 間違ってるんだよ。リスペクトなら、たった那由多分の兆しかない俺にすることじゃない。

 俺と同じ位置に来たいなら、彼氏でも作って汚してもらえ。

 俺がいいなら、俺はもっと汚れていくことを知れ。


 …お前の借用書で、貸金業の資格を持っていることを思い出したんだ。これ使えるかもな…


「できないの!?」

「やるよ。利子分込みで6万。週明けにでも返済しろ」

「そうゆう問題じゃ」

「目先の問題だろうが!金返したら聞いてやるからよ」

「だから、なんでそんなにカッコ、つけるの…?」

「迷惑かけてる叔母さんへの償いだよ。放っておけば叔母さんが返済するだろうし、そしたらなゆた怒られるよ。そんなの嫌だろ?」

「そうだね。じゃあ、カッコつけてください」

 対向車線のパトカーのサイレンが見えると、なゆたは助手席に座った。右手だけが運転席に伸びて、普段の童顔のために買ったシークレットピアスを弄る。

「ピアスはできなかったなぁ…」

「同じじゃなくていいんだよ。例えば俺が髪を全部…母さんのことあるからやめよう」

 なゆたも看護学生だけあって何のことか理解してくれた。嫌わないために防衛する癖で、またこうして優しい男だと思わせてしまう。

「髪は、キザシが女の子みたいに伸ばしてるじゃん」

「そゆこと」

 メンズサイズを捨ててから、俺は多少なりとも俺を許せるようになっていた。

「今後ビジネスやる時はオールバックにするか」

「仕事するの?じゃあ、簿記の資格取ろうかな?」

「先に看護資格取れよ。あと秘書やるなら俺の大学クラスの女と勝負することになるからな」

 やっぱり拗ねた。安心しろ。俺はそのクラスの女に見限られてる。




「家着いたら、ちょっと待ってて」

「ちょっと?本当に?」

「たぶんちょっと」

 なゆたの家に着くと、やっぱり待たされた。部屋とクラウンを数回往復して、衣類を積んでくる。

「コインランドリー行こう。気に入ったの」

 なゆたの思い付きに付き合ってやるが、騒がしくしたせいで叔父母が来てしまった。

「叔父さん、お騒がせしてます」

「あんな化粧して変な友達でもできたかと思ったけど、兆君とだったんだ」

「ある意味変な友達ですよ」

 俺もメイクすればなゆたみたいにボーイッシュになるし、ゴムなんかいらないし…なんて親の前で言えるわけがない。だからこそだ。なゆたの身体に心配はないが、互いにそんな相手しかいないことを、多少不自然に感じてしまう。

「ちょっとチェーンじゃないとこで外食させてきます。費用はこちらで捻出できますので気にしないで下さい」

「あんたも元気になったじゃない」

「なゆたが資格の勉強してるの見て、俺の資格を腐らせるのは良くないと思ったから」

 目先はこういうこと。なゆたにカッコつけたってどうにもならない。


「ぬいぐるみも洗いなよ」

「違うよあれは枕だよ」

「じゃあ枕を洗いなさい」

 大きなモンスターのぬいぐるみ。化粧して大人になった自分には似合わないとでも思っているのか、かなり赤面しながら持ってきた。安心しろ。なゆたのイメージそのまんまだ。


 俺も俺でアパートから衣類と寝具を持ってきて、コインランドリーで洗濯した。

 いざ帰ろうとすると、なゆたが後付けのカーナビを操作した。

「どこの温泉だよ…」

「親抜きで行こうって言ったじゃん」

 関越道を飛ばすように案内されるが、夜中の営業時間外に到着して結局暇な思いをすることになる。

「今日は俺のとこで寝ろ。じゃなくて俺を寝かせろ。ゲーム持ってきたか?それなりに暇させるから」

「置いてくわけないじゃん。イベントあるんだから」

 今の俺なら退屈させない話を用意できるが、この頃の俺は、この時のような出来事に乏しかった。


「帰らないって連絡したか?」

「ん…」

 親への感情に俺くらいの理由はないはずなのだが、なゆたも親に対して適当だった。

 結局俺のアパートで遅くまでゲームして、朝は俺よりも遅くまで寝ていやがった。




 そんで、結局俺は朝から関越道を走らされた。

 なゆたはサービスエリアの案内が来るだけで、それぞれの特産品を食べられるとでも思っているようだ。

「まだ埼玉だぞ」

「埼玉ってなんかないの?」

「うどんじゃない?」

「…お茶と饅頭あるじゃん」

「そもそも埼玉は練馬と西東京の隣だし電車ですぐに行けるから。急いで寄る必要ないって」

 どうせ土日で帰るから、群馬の温泉を巡ろう。


 サービスエリアに特産品があった。だが若者の口には早い珍味の類いだったから、結局クッキーとソフトクリームとストラップを買った。

「な~にクッキー食べてるの」

「ん?」

「お土産ってさ、友達とか先生のためのだからね」

 隣のサービスエリアに同じのがあったからそれを買った。まぁ、俺が仕事していると仮定して職場に持っていく分も買ったと思えばいい。


 温泉街を歩いてみるのも楽しいものだ。昭和ってこんなんだったのかと思うような遊技場が、なゆたはおろか俺の目にも新鮮だ。こいつ絶対遊ぶな。ほら、はじまった。

 射的も輪投げも踏み越えてはおっちゃんに注意されて、ガキんちょがなゆたよりは上手いと言わんばかりに後に並ぶ。弓なんかは明後日の方向に飛ばして泣く寸前だった。それを見てまたガキんちょが続く。

「キザシやってよ」

「ちょ~っと肩ほぐすわ…」

 そんで的の手前で着弾する。

「よし、ガーターではない…」

「お兄ちゃん最初は緊張して背中仰け反ってたけど最後の力の抜き方がいいね」

 おばちゃん、それってなゆたの筋は悪いってことだよね。


「やって~」

 今度はUFOキャッチャーの大きなぬいぐるみをねだってくる。俺も上手くないのに。まぁ、ご当地キャラが欲しい気持ちはわかる。ここの思い出の品としてねだられたぬいぐるみを取ることにした。

 またガキんちょが並ぶ。いや、今度は親まで見てる。

「プロは頭持ち上げてずらすって」

「今やってるでしょ。あと、もう一枚両替。後ろのご家族は並んでるのか聞いてきて。並んでなくても店員さんがダメって言ったら帰るから」

 家族からも店員からも継続していいと言われてしまった。

「やったー!取れたー!」

「あぁ、やったよ。8万持ってきたうちの8千円使ってさ…」

 こりゃ店員は止めないわけだ。なゆたが申し訳なさそうに4千円出すが、俺の頭に血が昇っただけの話だから受け取らなかった。


「じゃあ行ってくる~」

「絶景見れるからって写真撮るなよ」

「え~」

「逮捕されるだろ!」

 温泉は思ってた通り景色も楽しめたが、ゆっくり楽しんだつもりで出てきてもなゆたはまだいなかった。どうせおばちゃんとだべってるんだろうが、従兄と二人で来てるとか言ってないだろうか。


「キザシがすっぴん!」

「今日ずっとそうだったから」

「そう?運転中とかずっと化粧してる時の目だったよ」

 そんなにギラついてはいなかったはずだが、なゆたにはそう見えていたようだ。言われてみれば、運転中は当然として、遊技場でもやけになっていた。真剣になり、胸を張りたくなる、テストステロンが出る時ほど、俺は女の顔になるのか。




 で、こっからが一大事。そう、ホテルを手配してない。

 北関東の飛ばせちゃう道を眠気と共に走る。隣?起きてるわけがない。


 案内板を頼りにターミナル駅に出てホテルを探すが、うわあ…キラッキラ。なゆた、寝てろよ。ビジネスを見つけるまで。

「ちょっとちょっと、ここ一通だよ」

「ああ、失礼」

 警備員どころかヤンキーかよ。場所が場所、客引きだ。

「群馬じゃなくて練馬ナンバーなんだ!」

「練馬だよ。見ての通り運転してるから飲めないよ。こいつもいるし」

 なゆため、鼾までかいて、隠れる気なんか一切ない。ただ鼾をかいてるだけマシではあるが。

「未成年も入れる健全なとこ探してるの」

「大丈夫大丈夫。個人情報はしっかり守るよ。こんな場所不倫なんてザラだし」

「あのね、従妹なの。これ」

「お兄さんかわいい顔してとんでもないことするね~」

 ヤンキーは本来なら酒場に誘導するのだろうが今は親分に電話して系列のホテルを手配しているようだ。そうしているうちに仲間がクラウンの後方に立って、俺達は一通で閉じ込められてしまった。

「じゃあオーライするから」

 車でカーテンを潜るなんて思いもしなかった。


「じゃあ、土曜夜の一泊二名様、お楽しみ下さいね~」

 ヤンキーが持ち場に戻ると、なゆたが顔を上げた。

「何ここ!?怖すぎる…」

「だよな。俺もめっちゃ怖かった…」

「これ持ってく…」

 なゆたがトランクから8千円のぬいぐるみと家から持ってきたぬいぐるみを取り出した。怖いのは理解できるが、ラブホにぬいぐるみ持って入るお前もなかなか病んでて怖いからな。


 チェックインして部屋に向かうと、剃り込みの兄貴とケバい女がちらちら見てくる。俺は目を逸らすが、やはりなゆたが目立つらしい。いや、それどころじゃなかった。鏡があったから後ろを見ると、なゆたががっつり二人と目を合わせているようだった。

「あれ子供?」

「幽霊かもな。ここ出るから土曜夜でもすぐ入れたんだよ」

「やっだぁも~」

 そんな話もあるせいか、他の客とは鉢合わせることなく部屋に着いた。するとなゆたが、ケバと剃り込みに脅されたせいかテレビで怖さを誤魔化そうとした。

「やめろ!心霊番組やってるぞ!」

 間に合わなかった。案内ページだったが、カメラ目線の女優と目を合わせてなゆたが硬直する。

「…ほら、やばいの出るホテルだから…朝までじっとしてて…」

 俺も運転疲れであとは寝たい。が、なゆたは今起きた上に緊張までして寝るに寝れなくなっていた。

「喉渇いた…」

「お茶残ってない?」

「ジュースがいい」

「あ~ん…朝起きたら口の中ねばつくからお茶にして」

「何その声?」

 これは眠いだけで喘ぎ声じゃないし、俺だって夜中にラブホ街でコンビニまで歩いて行くのは嫌だって察してほしい。なのに…

「ぶんぶくの気持ちを思い知れ!」

 ぬいぐるみで俺の顔を塞いで乗っかってきやがった。普段枕にしているのを昨日洗ったんだっけ?若い女の甘い匂いがして悔しくなる。

 ぶんぶくか。あいつは雄だった。そしてなゆたと同じで、家族だった。それぞれが持っている独りの距離を行き来し合って、面倒に感じながらもそれを許す仲だった。

 なゆたには、ぶんぶくとの違いがある。なゆたから俺に触れる時は、何かを間に挟んでいる気がする。今もぬいぐるみが必要だし、蹴る時も運転席のシートを隔てなければできない。

 さっきのケバと剃り込みはゴムすらないのかもな。いや、どこのラブホに行っても、ぬいぐるみでじゃれ合う従兄妹なんて俺達しかいないだろう。

 無駄に甘いぬいぐるみをどかして横を見ると、テーブルの上の広告に電話番号が載っていた。あれに掛ければ、俺も他の部屋の男女と同じことができる。それに、ぶんぶくって言われたせいで絵理愛のことまで思い出した。勝手なことを考えて申し訳ないが、あいつなら、金を払わずにやれたかもしれないと思ってしまう。

 また仰向けになると、なゆたの顔が目に入った。笑顔だった。ぶんぶくの気持ちか。あいつも、俺にすり寄る時はこんな顔だったのだろうか。お前さえいなければと思ってしまったことを恥じて、両腕を広げる。

「いいからさぁ…落ち着いてぇ…」

 また息が抜けて、誘っているような声になってしまう。そんな俺にぬいぐるみを被せて、ようやくなゆたが横になる。

「口の中はダメ…恥ずかしい…」

 こんな場所に来て、あれは余計な一言だったな。顔を隠されてしまうのは俺のせいでもある。しかし、胸から下は衣服だけだ。それすらも捲れるように、なゆたの脚が絡む。間もなくして、なゆたは静かになってくれた。

「息できないっての…」

 なゆたの寝心地だけを考えれば、それで良かったが、俺が良くなかった。

 なゆたにとっての俺は兄どころか姉であり、専門学校の帰りに痴漢被害を避けるために車を出してくれる人なんだ。

 絡められた脚。そして臍から下。本当に姉だったらどれだけ楽になれただろうか。

 でも、なゆたが脚を絡めてきた時に、姉じゃない、嫌われるはずの俺をもう一回試せるようにも思えた。

 お前を、その相手にすることはできない…




「なゆた、ここ11時までに帰れってよ」

 あんなにビビッてた癖に、なゆたはぬいぐるみで寛ぎながらゲームしている。無職の俺のほうが規則正しく通学してるなゆたより機敏だ。ただ、これには理由がある。今日の出費をどこで取り戻そうかと経済紙を読んでいたら、この前売ったディフェンシブが1.3倍に値上がりしてたことを知ったからだ。結構イライラしてる。


 温泉の恩恵も忘れるくらいに寝汗もかいていたからバスタブに湯を張る。温度調整なんてお手のものだ。

「なゆ~、俺が先に入った風呂に入るのと、お前が入った風呂に俺が入るの、マシなほう選んで~」

「いいじゃん昨日温泉入ったし」

 それもそうだよな。お前はそれでもいい。

「顔だけ洗う」

「どうせなら盛れば?俺はフルメイクして子供扱いしてきたケバ達をビビらせるけど」

「そしたらキザシ手伝って~」

「まぁ、困ったら呼びな。お姉ちゃんやってやるよ」

 なゆたに洗面台を譲ってやったが、しばらくして騒ぎながらスマホを取りに来た。

「お風呂が光った!」

 撮影して誰に見せてどう説明する気だよ。なゆたを止めた俺は、割と本気になっていた。俺の名誉が傷付く焦りとか、ディフェンシブを間違えて売ったイライラもあったけど、冷静になって、なゆたのために話した。

「もっかいテレビ見る?ここがどんなことする場所なのか知れば、自分がどんなことを自慢しようとしてたかわかるよ。

 叔父さん叔母さんに知られたらもう車で帰れなくなるし、あいちゃんに見せればなゆたはそんな女だって思われる。痴漢が谷間見える女を自分から誘ってるって思い込むのと同じだよ。

 ここに連れて来たのはあのヤンキーを断れなかった俺の責任でもある。ここは何もなかったふりして帰ろう」

 なゆたは返事もせずに項垂れた。反省したのか、反論したくてもできないだけなのかわからなかったが、行動は止めてくれた。

「頭に来たなら、帰りの運転中に俺のピアス引っ張ってていいよ。眠いからそのほうが助かるかもしれないし」

 ピアスか。そうだ、なゆたが俺に触れる時、何でもかんでも隔ててるわけじゃなかったな。


 七色に光ったままの風呂が俺の身体を照らす。母親譲りの目鼻立ちが人を寄せ、亡父に似てしまった幼児体型がそのまま相手を上に、俺を下にした。

「気持ち悪。ちゃちゃっと儲けて脱毛もしよう…」

 浮かぶのは、乳房を膨らませた俺の身体。もしそうだったらと。

 メイク中なのか、なゆたが部屋と洗面台を行き来して出るタイミングが掴めない。その間が、そのまま考える時間となった。

 昔の職場、昔の女、そして母に認められただろうかと。


 なゆたのメイクが終わったようだから今度は俺が洗面台を使う。愛されたいのか、嫌われたくないのか、メイクが厚塗りになって、唇が艶やかになって、香水も4プッシュしてしまい、目が勝手に潤んでいった。

 着るつもりで置いたデザインシャツがなくなっていた。ベストサイズだと知ったレディースデニムを履いて探そうとしたら、なゆたがそれを着ていた。

 なゆたも、勉強していたんだな。俺のシャツを着て、ショートボブの男の子になってゲームをしていた。

「それ着ちゃったの?」

「ごめん、これ着る?」

「いいよ、昨日の着てくから」

 シャツを脱ごうとするなゆたを止める。なゆたが俺を姉だと思ってそうしたのかは知らないが、正直、ボーイッシュななゆたが愛苦しかった。

 そのうち誰かがこんな場所に連れてきて本当にシャツを脱がす時が来るだろう。俺が女として生まれなかったせいで理解してあげることができない傷を負うかもしれない。それを傷ではなく癒しと思うほど歪んでることを、申し訳なく思う。


 退室する時には、二人して抱えたぬいぐるみが似合わない人相になっていた。

 ぼったくられずに安堵していたのに、駐車場では尋常ならざる光景が目に入った。剃り込みが何度車に乗せてもケバが降りてきて、運転席のドアを開けて何かを泣き喚いていたのだ。

 早足でクラウンに乗って発車したが、剃り込みのランエボがクラクションを鳴らしてきた。

(そんなガンギマリ女より、私を選ばないからだよ…)

 剃り込みのメッセージを無視して、俺達はラブホ街を脱出した。


「クッキー食べちゃダメ?」

「あれそんなにおいしいの?」

 バックミラーに映るのは、瑞々しい少年と、擦れた女。特に、俺の目は一晩で変色していた。




 高速を下りた時点で残金6千円と、遊び尽くして帰ってきた。

 叔父母にとってはすぐ帰ってくると思っていた娘が二晩いなくなったわけだから、なゆたの家に到着するなり飛び出してきた。

「大丈夫だった?」

「それじゃキザシが悪者みたいじゃん」

 なゆたは楽しかったと話したかったのに、いきなり水を差されて怒ったようだ。

「あれ?兆君?」

 従兄妹から従姉弟になって帰ってきたことに叔父が驚き、車内からの挑発的な匂いが叔母にも届く。二人にメイクを披露するつもりはなかったので苦笑いする。

「何なゆたに遊ばれちゃってるのよ」

「いや、俺が先にはじめたんだよ」

 叔父は理解していなかったが、叔母は俺と母との確執を知っているから、何故俺がこうなったか想像できたのだろう。それをなゆたが真似したことで自身の母娘関係への不安を募らせた。

「ちょっとなゆたと話したほうがいいかな?」

「俺もある程度話したよ。バイトやれとか、それくらいだけど」

「なんか私もあんたに頼ってるね」

「いつも迷惑かけてるから…」

 この旅行は、気晴らしではあった。ただ、叔母に対しての償いでもあったのか。




 俺はアパートでメイクを落とすと、先程叔母に言ってしまった迷惑の一言が引っかかった。母となゆたを、叔母と俺の時間を浪費するだけの存在だと思っていたから出てしまったようで、申し訳なさに苛まれてきた。

 なゆたが、ちらちらしてきた。いなくなった途端に、ifが過る。絵理愛でも、デリ嬢でも、昔の女でもなく、目の前にあったあいつの身体が、俺を許すというif。どうせそうはならないからとなゆたを邪険にしたこの身体の浅ましさ。あの距離が、また試したいとこの身体に思わせる。

「料金、こんな感じか…」

 刺すほどに甘えたい私が壊れるまでしつこく遊ぶあなたに会いたい。

 許してくれるのは、誰かでしかなかった。




 この日、初めて口紅も点した。誰かからのキスを想定して、臭いがしないように朝以降は食事もしていない。目は酒でも浸したかのように母に模した自分を見ている。

「かわいくないな…」

 女を欲してテストステロンが出る。結局は繕った姿でしかないようだ。

「男性のみの入店は1.5万か」

 ペアなら安くなるとあるが、そんな相手はいないし、融通を利かせろと言う気もない。

 ジャケットをきめて、またギラついた街に踏み入った。


「新規で男性一名」

 免許証を提示する。メイクしていない顔との違いを見せつけてから、前払いを済ませて、もう女には戻れなくなる。

「ご来店ありがとうございます」

「どうも…」

 伏し目にしながらも、自信を覗かせる。

 ワインを嗜みながら、暗い空間でスワッピングをはじめた壮年と三十路くらいの女を眺める。いつか呼ばれるまで余裕を持って待つ。

 店のルールとして、同意を得られないまま絡むことを禁じられている。それが怖くて、同意を求めることもできずに待つことしかできない。

 後から入店してきた単独の男性客が俺を覗き込んでは、落胆していく。

 女性客がボーイのシャツを脱がせると、俺も覗き専の連中と一緒になって見蕩れてしまった。本来あるべき若く美しい男の身体が欲情した女に貪られていく。それで駆られたのは劣情どころか劣等感だった。


 次第に、ワインで得られるドーパミンすら不快になってきた。伏せた目には、自信どころか自己嫌悪感が宿る。

 何をしに来たのか、何を買おうとしたのか…愛?お前が?

 乱れる男女の中に、俺がいるところを想像した。それは、昔の女に愛されて、覚めてから苦しくなる夢のようだった。

「お客さん?お酒弱かった?」

「そうじゃないけど…ごめんなさい…なんか…違った…ごめんなさい…」

 バーテンダーの心配は間に合わなかった。金を払ってでも得たかった理想は、崩れ落ちた。

「いろいろわかりました…ありがとうございます…もう来ないと思いますから、私のことは忘れて下さい…」

 愛されようとしてはいけない。愛してはいけない。迷惑だから。資格がないから。母の期待を裏切ってから、今も愛される資格を取り戻せていない。それを忘れていたせいで、苦しんでいただけだった。

 そのくせ、他人への期待を捨てられずにいた。

(もう汚いオヤジでいいや…)

 バーで見た最後の光景は、戯れる男女と、雰囲気を壊されて迷惑そうにしている覗き専の連中の冷ややかな目だった。俺は男の身体をした典型的な嫌な女。女を汚して許されるオヤジよりも、不要だった。




 店を出た時に、目を合わせてきた男がいた。俺は上を見てしまったことを後悔して、すぐに目を伏せた。

「次の予定はどう?かわいい娘いっぱいいるよ」

 メイクが崩れるほど泣いたわけでもないのに、客引きは俺を男扱いしてきた。

 言葉も出せずに足下だけを見て駅まで逃げようとするが、客引きとガードレールと、ゴミ袋に道を塞がれてしまった。

 交番の警官もボランティアのパトロールも助けに来ない。俺が小さくて客引きに隠れてるせいだろうか。役に立たないな。でも、客引きも今頃になって通報されるのが怖いのか圧力をかけることしかできず、二人で時間を浪費する。

「あっちのおじさんのほうが、お金出してくれると思います…」

 泥酔して判断力が鈍っていそうで、さらに客引きよりは弱そうなオヤジを指差すと、ようやく客引きが退いてくれた。俺はまた足下だけを見て駅に急いだ。

 逃げているのに、目立つのが怖くて走れない。それなのに、悔しさと憎悪が神経を鋭利にする。走れないけど、泣き叫んでいいなら、すぐにできる…




 アパートに帰って、メイクを落とす。自惚れて出ていって、キスもセックスもオーガズムも得られないまま、金だけ払って帰ってきた愚か者が鏡に映る。何も口にしていなかったせいで肌艶が失せている。肌と髪はケアしようと思うが、食欲は全く湧かない。

 シャワーを浴びて首から下を意識する。

「どうして…?」

 知ってるくせに。


 父は、美しい母という資産に執着していた。愛してる、愛してると。ただ、父にとっての俺はどんな存在だったのだろうか。母を束縛するための呪いの道具だったのかな。非行に走ろうにも走れない俺に勉強を強要した。小学校受験の時こそ許されたし、高校と大学は志望校に受かって卒業できたものの、中学校受験に落ちた時の言葉が今も遺る。

「お前は凶兆か!?」

 そうだよ。どんどんそうなってるよ。

 母は父の執着を疎み、その容姿を拒絶していた。そして、それを息子に継がせたくなかったのだろう。母の期待は大きかった。

 なゆたが生まれてすぐに、俺は母の希望でスポーツクラブに所属した。ところが成績は芳しくなく、コーチの指示で食事量を増やされた。そして、デブになって、より足手まといになって、メンバーから嫌われて、母には逆ギレされた。完食指導から、真逆の食事制限へ。俺にとってはこれ以上嫌われないための努力だった。だから食事を抜いても間に合う身体になった。


 俺がやってることは、俺がしたいことじゃない。全てが俺を嫌う人の期待に応えるための行動だ。本当は食べたかったし、興味を持った分野で活躍して、褒められたかった。それに報いるように、人を愛したかった。愛させてくれない人を嫌いになる努力なんて、したくなかった。




 シャワーを済ませると、タオル一枚のままベッドに横になった。このまま眠りに逃げられると思ったのに、客引きに芽生えた憎悪が頭痛を伴いながら肥大化してきた。

 あまりにも痛かったから痩せているのに柔らかい身体を自ら抱いてやると、どんな詐欺師もやってくれない、俺の正しい騙し方が浮かんできた。

(あの男、バカだったね。こんなにかわいい子、あいつがお金出して買うほうなのにね…)

 女の低い声が、母よりも俺を理解してくれる。

(あなたは人の役に立てる。でも、自分を卑下して蓋を閉ざしてるだけ。もっとその身体に触れてみて。きっと思い出すから…)

 なるほどね。思い出したよ。

(臓器提供を拒否してるじゃない。そうするくらいなら、輸血したり、臓器を提供して、人を救った証をもらえばいいんだよ。証をくれないどころか、あなたの優しさを疑って感謝するどころか悪者にする人が、死の間際にあなたを利用しようとするなら助けないで死なせてもいいからね。

 多少の優しさを失っても、あなたは充分、報われるよ…)


 結局誰なのか理解できないまま、その声に従ってマイナンバーカードを取り出した。臓器提供意志表示欄。かつて、1から3へ。その3も消して、そこへ手を加える。


 Open price…

(会いに来て…そして、その目で確かめて…)


 堰を切ったのは、その時だった。

「なゆ…」

 味方がいないなら、それで良かった。だが、一週間も経ていない記憶が俺の自己憐憫を責めた。

 俺は恥ずべきものとして封印してきた憎悪も自分の一部として認める段階に来たが、それを憎い相手に直接訴える力は備わっていない。

 ようやく表に出せたと思ったら、臓器提供拒否よりも反社会的なものになった。制御できないから、会いに来て、確かめてくれる味方ほど苦しめてしまうのだ。

 戯れるあいつに、俺を利用する意図があっただろうか。あの時の俺は、利用されたとか、感謝されていないと感じていなかったはずなのに。

 そう、ぶんぶくと同じだ。なんか傍にいて、ずかずかと頼ってきて、抱き寄せたくなって、そしたら逃げて。でもそのうちまた来る。死んでもう来なくなった時はきつかった。

 ぶんぶくはもういないが、なゆたは明日にでも会える。それなのに、俺はなゆたに会える時間を減らしかねないことを。

 この夜は、なゆたとラブホで一泊した夜よりも、抱き寄せたくて、撫でてやりたくて、もどかしかった。それでも、いくら想っても、その存在を願っても、男の高い声のままだった。








「かわいいじゃん!」

「コンパニオンの妹の娘だからね。そこそこは」

「コンパニオンの息子が何言ってるの。私は隣のヤマちゃんもかわいいと思うよ」

 何キョトンとしてんだよ小宅。ってか他の客に見せびらかすなよ。その輪にママまで加わるし。

「付き合うならどっち?」

「俺こっちのクール系の子」

「目付き悪いほう選ぶと後悔するよ?」

 フルメイクの俺をボーイッシュななゆたの女友達と勘違いしたおっさんにママが種明かしする。

「俺は騙されなかったぞ!」

 離婚して子供と会えなくなったおっさんはなゆたを選んだ。その気持ちも、理解できる。


 こんなタイミングでなゆたからメッセージが届く。


 {ごめんね~(;ω;)いっくんと一緒だから今夜お祝いできない…)


 まんま不倫関係みたいな文言に小宅達が凍り付く。

 そう、今ではあのなゆたにも彼氏がいる。いっくんが四人目で過去の三人はほぼ俺が原因で別れたのは内緒だけどね。

「びっくりするくらい仲良いんだよ?」

 なんか複雑な目をするけど、ママは俺のなゆたへの想いを知っている。




「三十路ショタおめでと~」

「うるせーな行き遅れおじさんになりそうで辛いんだよこっちは」

 なゆたがフェアレディZの助手席に初めて乗る。ぬいぐるみだらけにされるかと思ったけど、ホームでの老人の謎の行動みたいな会話がダッシュボードの上の空間を埋めてくれるから、ぬいぐるみは留守番してても大丈夫なようだ。


「ガキ!自転車で蛇行するなよ。親が悲しむぞ」

「口調の割に丁寧な運転だよね」

「新車壊すわけにはいかないからな」

 まぁ、他にもいろいろ。臓器は売却希望のまま。つまり、憎悪を克服できていない。このまま死ぬ時まで隠すのも、それはそれで運命だと思う。なゆたの身に何かあれば憎悪を忘れるだろうが、そんな場面なんか作らないし、作らせないことが、憎悪を忍ばせる者の責務だ。




「やっぱり行くの?お墓参り」

「なゆの前でしんみりしたくないから先に行ったよ。命日には行けなかったけど、今年が三回忌だから」

 あいつとの死別は二年前の誕生日直前だった。理解し合えたかもしれない存在を実際に失った体験は、なゆたへの責務を確かな想いにした。自惚れたくはないが、ママの想いも一生のものになった気がする。


 あいつの遺影は、ウインクしていた。

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