3話1日目最後の日常3
乙守家のリビングダイニングキッチンは18畳と広々としている。バルコニーに面しているので朝は照明いらずだ。楽人の家が特別ではない。この辺りのファミリータイプの団地は概ね30代以上の一般的な社会人が購入できる価格となっている。
乙守家の平日の朝食は和食だ。ホカホカの白米に温かいみそ汁。千切りキャベツにトマトのサラダ。サラダの隣に目玉焼きとウィンナー。もちろん、出来立てである。他にはヨーグルトや飲み物がテーブルに置かれている。いつもこのような食事である。陽莉はズレているところがあっても、家事についてはしっかりとしているようだ。
ダイニングテーブルに家族4人全員が揃う。母親の隣に楽人、父親の隣に風凛。母親と父親、楽人と風凛は互いに向き合うように席についている。楽人は応急処置をしてもらい制服に着替えている。痛みも引いてきたので、体育の授業は見学することにし、学校へ行くことにしたのだ。
「栄子おばあちゃんを見た?」
「神社……で?」
風凛と藍鬼は訝しげに楽人を見ている。
「母さんったら、会うなら私に会いにくればいいのに……」
陽莉は少々ズレている感想を漏らした。なぜズレているか? それは、陽莉の義理の母、栄子は6年前に亡くなっているからである。
栄子は6年前、タンスの角に小指をぶつけ、足を手で押さえようとし、片足立ちになったところでバランスを崩してしまい、テーブルの角におでこをぶつけ、転び、仰向けになって叫ぼうとしたところに、テーブルの上に置いてあったバナナが落ちてきて、口に挟まリ亡くなったのだ。死因は窒息死である。
「楽人は……おばあちゃん子だから……か」
おばあちゃんの幽霊を見た。そういう話と理解し、藍鬼は陽莉に会話を合わせる。
「違うんだ。幽霊じゃなくて、可愛いんだ! 神様なんだ!」
「な……に……?」
「美少女だったんだよ! えーこちゃんは!」
「ぷっ」
「えーこ……ちゃん……」
風凛はみそ汁を口からこぼした。
その隣で藍鬼は眉間にしわを寄せ、「制服に着替えても、まだ寝ぼけているのか」と言うような顔で、楽人を見た。
「そうそう、母さん、すごく美人だったのよ」
唯一話についてきているのは母親の陽莉であった。ちなみに、この場合の「母さん」というのは陽莉の義理の母、栄子のことを差す。
風凛は会話に興味をなくし、トマトやヨーグルトを食べている。楽人がワケの分からない話をし始めたから、もう何を聞いてもワケが分からないだけだろう、と考えたようだ。両親よりも判断力に優れているのかもしれない。
「俺、夢だと思ったんだけどさ、ズボンは汚れてたし、ケガはしてたし、夢じゃないと思うんだ。すっごい神秘的な神様でさぁ、また会いたいなぁ」
目をランランと輝かせ、昨日起きた出来事を語る楽人であったが……
「あら、もういいの?」
父親は突然席を立ち、口を押えた。
「いや……トイレ……だ……」
「大丈夫?」
大らかでズレたところのある陽莉ではあるが、食事中に席を立つことがあまりない、藍鬼のことは心配そうな目で見ている。
「楽人……もう……その話は……やめなさい」
去り際に父親は楽人に話題の打ち切りを命じた。
* * *
2018年9月25日7時35分。
「おはよー、乙守」
乙守楽人が団地の階段を降りると、友人の早馬駿が入り口で待っていた。
「今日って早馬は朝練なかったんだ」
「そだよー。だから、そこで練習してたのさ」
笑顔を見せながら、駿は公園のある方角を指さした。ちなみに指さした方向は、噴水のある広々とした美毛の森公園の方向ではなく団地の奥にある公園、虎の森公園のことである。駿は短髪で爽やかなスポーツマンといった印象を受ける。そして、よく見るとボールネットに入ったサッカーボールを持っている。どうやらサッカー部のようだ。
「美少女の神様ぁ~?」
駅に続く遊歩道を歩きながら、楽人は駿に昨日の出来事を話していた。
駿はあまりに大きな声で驚いたものだから、口を閉ざし、顔を赤らめ周囲を見渡した。周囲は通勤、通学で学生や会社員が忙しく歩いている。
楽人たちが今歩いている場所は、ちょうど駅と団地の中間地点。美毛森ランドの近くだ。この辺りは、クレープ屋さんや映画館、洋服屋などおしゃれなお店が建ち並んでいるエリアだが、朝はどのお店も閉まっていて静かである。
「うん、おばあちゃんの姿を借りた神様なんだけどさ、おばあちゃんって言っても、おばあちゃんの若い頃の姿なんだけど」
「あははっ、くっだらね」
駿は、人懐っこく笑った。
「いや、本当だって! すっげぇ、可愛かったよ。なんなら今日一緒に神社いこうぜ」
熱く語る楽人は、勢いよく駿の腕をつかんだ。目をランランと輝かせ、駿の顔を見る。
「うっ……よ、よせよぉ! 部活あるから無理だよぉー」
駿は顔を背け、手を振り払った。心なしか頬を赤らめているように見えた。駿には可愛らしい彼女もいるし、男に興味があるという訳ではない。いつもだったら、断るにしても「あははっ、無理無理」って言いそうなところだが、手を振り払うなんて、早馬駿にしてはキツイ断り方をしたものだから乙守楽人は首を傾げた。
楽人の反応を見て、駿は自分がいつもと違う反応をしていたことに気づいた。
「どうしちゃったんだろ、オレ。乙守の目を見たらなんだか……」
「大丈夫か? 顔赤いぞ? 熱でもあるんじゃないか?」
楽人は熱を測ろうと駿の額に手を当てようとするが――
「わわわっ! 触るなよぉ!」
「ぃてっ、ご、ごめん」
思いっきり駿に手を弾かれてしまい、楽人は反射的に謝った。
「な、なんで乙守が謝るのさ!? 悪いのはこっちじゃん!」
あたふたと慌てながら半ば逆ギレ状態で駿は友に謝る理由を問いただした。
「さっき痛かったんじゃないかなって」
「さっきぃ~?」
「思いっきり腕つかんだじゃん」
「そんなに強く掴んでなかったでしょ?」
「でも怒ってた!」
「怒ってないよぉ!」
「本当に?」
「……ぷっ、あはははっ」
「何がおかしいんだよ」
顔を背けたり、突然笑いだしたり、今日の駿は少しおかしい。楽人は訝し気に駿を見た。
「こういう会話って、彼女とするもんだよねー」
「え?」
「あははっ、くっだらね」
早馬駿は鼻に手を当て、照れ隠しの笑みを浮かべた。
「ちょっと急ごっか。電車に遅れちゃうよ」
「そうだね」
* * *
2018年9月25日は平和な1日であった。この後、乙守楽人は1日中、昨日の出来事の話をクラスメートやバイト先の友人に話したが、皆、冷ややかな目で見ていたのであった。いつものことである。
夜中に神社へ行ってみたが、普段の神社と変わりはなかった。照明もなく、人気もない。懐中電灯を照らしても社にはなにも見当たらない。楽人は「何か」……日常を変える「何か」が起きかもしれない、と淡く期待していたが、何事もない神社を見て、明日もいつもの明日が始まるのだろうなと思い、帰路についた。
「何か」が「あるかもしれない」と思っていたため、楽人は気づかなかった。
なくなっていることに。
昨日、社に置いた花瓶とお月見団子がなくなっていたのであった。