2話1日目最後の日常2
「まぁまぁ、なに騒いでるの? 面白いことでもあったのかしら」
洗面所の騒ぎから「面倒ごと」「やっかいごと」を想像せずに、「面白いこと」を想像するのは、少しズレているか、大らかな性格の人物だろう。
「あのね、お母さん! 今ね? たった今ね、おにぃが風凛の胸を――」
「ふふっ、なにその恰好。あはははっ」
母親は2人の姿を見て笑い出した。
楽人の母親、乙守陽莉は食事の支度を終えて、朝のゴミ出しをして戻ってきたところだ。中肉中背の体型で長めのスカートのワンピースを着ている。楽人と同じように平凡な人なのね、と言いたいところだが、人のよさそうな印象を受けるところが楽人と大きく異なるのだ。たとえば、彼女なら人ごみに紛れていても、迷子になっている人に道を聞かれる可能性は楽人よりずっと高いと思われる。
ただ、人が良いだけかというとやや異なる。周囲に洗濯物は散らかり、床や洗濯物の上にところどころ水がこぼれてしまっている。コップの中に水が入っていたのだろう。片付けないといけない状況なのに陽莉は笑いながら洗面所の壁をバンバン叩いている。そこまで笑える状況でもない。人が良いというよりも、やはり大らかすぎて少しズレている感がある。
「もぅっ!」
風凛は陽莉に訴えるのをあきらめた。
本来なら兄が思春期の妹の胸に顔をうずめるなどという行為は度し難く、数年間口を聞かない刑や、蹴りを30発入れる刑など、恐ろしい罰が下されてもおかしくないのだが、母親のノー天気な反応に怒りも失せてしまった。
このまま、洗面所での話が終わろうとしたその時――
「うぉ~……」
突如どこからともなく、猛獣のような雄たけびがこだました。楽人の背筋に緊張が走る! 一方で風凛は「ふふ~ん」というセリフが聞こえてきそうなニンマリとした表情で兄の顔を見ている。
「あらあら、ふふっ、あはははっ、おはようございます。お父さん」
と言ったのは、笑い涙を手で拭っている母親である。
「うぉ~ん……」
熊のように巨大な手がヒゲの生えた口元へ近づく。どうやら、猛獣のような雄たけびは「お父さん」のあくびのようだ。
兄の呼吸が早まる。
「た、助け……」
情けないことに、這いつくばって妹に助けを求めようと近づこうとした兄だが、妹は得意げなジト目で勝ち誇っている。
大きな影。山のような大きな影が廊下から洗面所へ迫ってくる。効果音をつけるとしたらズシンズシンだろうか? ただ、もっとも実際には足音はまるで聞こえない。そう、まるで聞こえないのだ。普通、廊下を歩けば大抵の人は足音を出すだろう。熊のような手の持ち主なら尚更足音が聞こえてもいいはずなのに…… 兄はゆっくりと、確実に近づく影に怯え、母親のスカートにしがみついた。
「楽人……なにしてる……?」
上を見上げると、天井に到達しそうな大入道――天井は3メートルほどの高さなので実際にはそこまで背が高いわけではない――が現れた。楽人の父親、乙守藍鬼である。太もものような大きな腕には深い傷があり、スキンヘッドの頭部にも多数の傷がある。これは平凡とは大きく異なる異形の存在だ。人ごみに紛れようにも人ごみに紛れられない! 人の頭一つ分、二つ分、背が高いためだ。熊が渋谷のスクランブル交差点に立っていたら誰もが熊を見るだろう。そのような存在感100%の父親なのである。
「あのね、あのね」
「待って!」
今度の「待って」は写真を撮るから待っての「待って」ではない。そして、今度ももちろん妹は待ってくれない。
「お父さん、おにぃが……おにぃが~! 風凛の胸に顔を押し付けたの!」
妹は父親に懇願するような眼差しで訴えかけた。上目遣いで、涙ぐむ目で。さっきまでニンマリ笑みを浮かべていた中学2年生の少女が涙目で訴える。なんというか……末恐ろしい役者である。
「なにぃ……!?」
「ひぃっ!」
次の瞬間楽人の体が浮き上がった! どこかの工場のアームで肩をつかまれ持ち上げられるかのように、父親は右手だけで母親にしがみついていた情けない息子を持ち上げたのだ。
「いやんっ!」
母親もいい歳なのにスカートがまくれそうになり、恥ずかしがる声を上げ息子の手を振りほどいた。
「いつつつっ!」
「兄として……恥ずかしく……ないのか……?」
藍鬼はほぼ零距離で兄の目を見てゆっくりと問いかける。誰得だが、少し間違えれば口と口がくっつくくらいの距離だ。
「いたっ! 痛い! 痛い!」
「ぬん?」
楽人が"いつも"とは違う反応を見せたため、藍鬼は咄嗟に手をはなした。
「いてててててっ」
身長169.5cmの楽人は床上30cmほどの位置から落下した。普通はどんなに不器用な人間でも着地できる高さなのだが、楽人は床につくなり、そのまま膝を抑え倒れこんだ。
「おにぃ!?」
「あら……」
妹と母親が一目散に近づき心配そうに兄の顔を覗き込む。父親は考え込むように兄を見ている。
「あのね、おにぃね、さっき小指が滑ったの!」
父親の方を見て涙目で必死に訴える風凛である。兄にヒドイ目にあわされたものの、もし兄がケガをしたならば心配な気持ちになるものだ。その訴えに演技が入っているようには思えない。
「風凛……ここはどこだ?」
兄が痛みを訴えている箇所を問われ妹は即答した!
「肘!」
「膝だ。パジャマを……ゆっくり……まくるぞ」
父親は跪きパジャマをゆっくりとまくった。
「あら……」
「ぬん……」
膝が赤く腫れている。
「打撲……だな……痛むか……?」
父親が軽く腫れの部分を触る。
「うん……少し」
「病院行かないと!」
と言ったのは妹の風凛である。
「私の職業を……言ってみろ?」
「お医者さん……? じゃなくて、柔道家……? じゃなくて、がいこつ?」
彼女は目を天井に向け、首を傾げ、頬に人差し指を当て、曖昧に答えた。
「乙守接骨院よ」
がいこつと言われて固まっていた父親の代わりに母親が答えた。
「そうそう、接骨、接骨~!」
風凛は目をそらし、ちらっと舌を出し、苦笑いを浮かべた。
「病院へ行く必要はない」
接骨院というのは、打撲、骨折、脱臼などの治療を行う施設である。病院とは異なるので「病院に行く必要はない」と父親は答えたのであった。
「いつ……こんな……ケガを……」
「昨日の夜」
「あのね、おにぃ、昨日すっごく遅くに帰って来たんだよ? 風凛は知ってんだから」
「あら……私ったらスヤスヤ寝てたみたいね。あはははっ」
「ケンカでも……したのか?」
「昨日の夜……び……美少女を……見たんだ」
もちろん、最後の発言は藍鬼の発言ではなく楽人の発言である。普段「美少女」と言う言葉に対して羞恥心を抱いているわけではない。ただ、さすがに昨日の出来事を面と向かって話すのには、少々言い淀んでしまうのである。
「美少女を見た?」
突然、どうでもいい話をし始めた兄に対してジト目で反応して見せる風凛であった。
「そう、美少女を神社で……」
ふと、昨日の映像が脳裏に浮かんできた。
9月の深い紺色の空に浮かび輝く満月。月明かりの下、黄金色に輝くススキが周囲を囲み、幾年もの間建ち続けてきた社の前に浮かぶ白装束の少女。
「白装束の少女が空に浮かんでいて……あの子は……」
彼は気づくと痛みも忘れ、天井の蛍光灯を見ながらつぶやいていた。
「病院……行かないと……」
「うん」
「うん」
父親が「面倒ごと」「やっかいごと」に巻き込まれた、というような深刻な顔でつぶやき。母親と妹は「うんうん」と頷いた。