1話1日目最後の日常1
東京都美毛森市。
東京の西側にある人口30万人ほどの、花と水と森に囲まれたベッドタウンである。駅の2階からレンガ作りのデッキへ出ると円形の花壇が迎えてくれる。青空の下、街路樹に導かれ遊歩道へ進んで行くとクレープ屋さんや映画館、洋服屋さんなどの並ぶエリアがあり、両側から歩行者をショッピングへと誘う。
遊歩道をさらに歩けば5分ほどで美毛森ランドと呼ばれるテーマパークの前にたどり着く。美毛森の名前にかけた三毛猫のマスコットが人気で、週末には家族連れや若者で賑わう。
美毛森ランドを通りすぎ3分ほど歩くと、水と森の空間が広がる。そこは小鳥たちの楽園。噴水のある広々とした美毛の森公園がある。
美毛の森公園からさらに3分ほど歩くと、とんがり屋根のメルヘンチックな団地が建ち並ぶ場所へ到着する。ここが遊歩道の終着点である。団地まで続いている花壇と街路樹が、緑の多い町なのだという印象を強くする。
2018年9月25日6時44分。今日もいつもの1日が始まる。
団地の木々からは雀の鳴く声が聞こえ、団地の前ではおばさん達が立ち話をし、駐輪場では野良猫が伸びをしている。
そのまま3階へと目を向けると、カーテンの閉じた部屋が見える。
6時45分。薄暗い部屋に目覚ましのアラームが響き渡る。
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?
起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?
起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
否。目覚ましのアラームではなく、美少女のボイスであった。ベッドの棚の上に置かれた小型タブレットの中で、傘を差した美少女が健気に眠りについている主を起こそうとしている。
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
周囲を見渡すと、壁にはアニメのポスターが貼られ、ケースの中にフィギュアが並んでいる。ポスターもフィギュアも『美少女&美少女』というタイトルのアニメのものだ。いわゆる、痛部屋と呼ばれる部屋であろう。
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
もちろん、画面に映る水色の髪の少女も『美少女&美少女』の登場人物である。なぜ彼女が傘を差しているのか? 今はまだその理由を説明する必要はない。
「はっ! えーこちゃん!?」
がばっと布団から勢いよく起きあがり、乙守楽人は目が覚めた。
「夢……? いつっ!」
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
膝に痛みを感じ、パジャマをまくり足を見ると膝が赤く腫れている。
「現実……か?」
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?
起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
楽人は未だ夢の中にいるような感覚にとらわれた。昨日の出来事を想い出そうとするが夢を忘れてしまうかのように思考がまとまらない。
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?
起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
いつもなら心地良いボイスが思考を遮るのだ。
「起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?
起きてくださいよ~。早くしないとびしょ濡れになってしまいますよ?」
タブレットの中の美少女は地の文を書く隙さえ与えず――
「起きてくだピッ」
「ふわ~っ、おはよう~、雨森タン」
楽人はジト目のような眠い目でタブレットの美少女に挨拶し、ボイスをオフにした。
* * *
乙守楽人は朝から苦しんでいた。膝が痛むだけではなく、全身に痛みが走る。昨日、夢の中で転んだのかもしれない。ふと、楽人はそんなことも考えたが、夢の中で転んでも全身傷だらけになるはずもない。身体の痛みとダルさで思考が思うようにまとまらないのだ。パジャマ姿のまま部屋から出て廊下へ。早くこのダルさから解放されるために、よろけながらも早足で洗面所へ入ろうとし――
「いっ――!?」
洗面所の入り口の角に思いっきり足の小指をぶつけてしまい、声が出ないくらいの痛みが全身に走った!
「えっ!? なに!?」
若い女性の驚く声が聞こえた。楽人は「けんけんぱ」のように、片足のままジャンプし「なに!?」の声の主へそのままツッコむ。
「イヤーーーッ!」
倒れる人の声、洗面所にあったバスタオルやらコップやら洗濯物やらなんやらが吹っ飛ぶ音! 乙守楽人の頭上にバサバサと容赦なく、洗濯物が降ってくる。
辺りは闇と静寂に包まれた。
否、かすかに「うぅ……ん」という、か細い女性の声が聞こえる。暗闇というのは本来人を不安にさせるものだが、この暗闇は"温かい"。しばらくこの柔らかい枕に包まれ微睡んでいたい、そんな気分にさせられる。楽人は痛みも忘れ目を閉じた。暗闇なのだ。目を開けようが閉じようが関係はない。
「おにぃ……」
一つ欲を言うならば、もう少し柔らかい枕だったら良かったとも楽人は思った。顔を正面から押し付けると思ったよりもゴワゴワするし、反発もする。
「おにぃ……」
耳を枕に当てる。少し世界が明るくなった。そして、トクトクと音がする。トクトクトクトクトクトクトクトク……大分早いリズムでトクトクという音が。
「おにぃ!!!」
楽人は突然強い力で跳ねのけられた。尻餅をつく形で正面を見る。そこには女の子座りをしている制服姿の少女がいた。中学2年生の妹、乙守風凛である。
胸元に赤いリボンと校章。そして、水色ストライプのスカートの上に白のブラジャー。……ブラジャー? 失礼、これは洗濯物のようである。兄妹がぶつかった影響で辺り一面、洗濯物で散らかってしまったのだ。ただ、散らかった洗濯物を嘆いても仕方がない。
ショートヘアのボーイッシュな彼女は楽人を涙目で睨んでいた。ボーイッシュな姿をしていても将来、美人になりそうな顔立ちであることは隠しきれない。色白なものの、たるみ一つない健康的な肌がその証である。普段から何かしらの運動を行っているのだろう。
……などと彼女の顔を観察している場合ではない! 今は彼女の気持ちが、焦りや戸惑いの気持ちから怒りの気持ちへと変化しつつあるのだから……
「ご、ご、ご、ごめん! 小指が滑って……」
「小指が滑る」とは意味がわからない。ただ、楽人はよくコケる。女の子のドジっ子属性は大いに需要(?)があるが、男のドジっ子属性とはまったくもって誰得――誰が得をするのか? 否、誰も得するものはいない――である。
ダルさはすでに洗濯物と共に吹き飛んだ。楽人の目の前には涙目でこちらを見ている少女がいるのだ。ごくりっと息を飲む楽人であった。
「もぅ……」
「待って!」
「え? イヤ!」
兄は「待って!」と言って、妹は慌てて涙を拭いて目を逸らしただけである。目を逸らした際にようやくスカートの上のブラジャーに気づき、慌てて背中の後ろに隠したが、特に兄が何か手を出そうとしているわけではない。
普通は「何を?」とか「待てって?」とか聞き返すところだが、妹は何を察したのだろうか? おそらく良いことではないのだろう。
「あ、ああ、なんでスマホ持って来なかったんだ!? 今のすごく可愛かったのに!?」
楽人は両手の親指と人差し指で四角の枠を作り、片目でカメラの被写体を覗く仕草を取った。どうやら涙目の妹を写真に撮りたいようだ。
「そうだ! 風凛ってスマホ持ってるだろ? ちょっと貸して……ください」
なぜ、最後丁寧語になるのか。
「イヤ!」
「じゃあ、そこで可愛い顔のまま待ってて! 今すぐスマホ持ってくる!」
「おにぃの鬼!」
朝からプラスチックのコップを顔面に投げられる楽人であった。