【番外編】午後の花
ある日の美花と隣花のお話。
それは透き通るように綺麗な音色だった。やわらかい旋律は儚くも力強い強弱がつけられ、ゆるりと局長の表情がよく判る。優しくて強くて少し冷たいけれど、ほんとはとても暖かい…。そんな曲調は“彼女”を彷彿とさせる。
「美花?」
ぼうっとその音色に聴き惚れていると、あたしとよく似た顔がひょこっと覗き込んでくる。
金がかかった銀髪に翠玉と金色の澄んだ瞳。白い素肌に童顔な顔立ち。その容姿はあたしと殆ど一緒で、違うところと言えばあたしがポニーテールなのに対して、月綾はツインテール。月綾は桃色と白という服の色使いなのに対してあたしは黒と紫という色使いなところだろう。それ以外は全く同じなのでは、と錯覚するくらい似ている。
ふと心配そうにあたしを見つめる瞳と視線が絡んでハッとする。
「…あ、ご、ごめん!何だっけ?」
慌てて月綾に両手を振り自分は大丈夫だとアピールしながら、話の続きを聞こうと月綾の言葉に耳を傾ける。月綾は「もうっ」と少し不貞腐れたような怒ったような口振りでため息をひとつ吐いたが、その表情はまだどこか心配そうだった。
「ピアノが気になるの?」
何とかその心配を解消しようとさっきまでの会話を思い出そうとしていると、月綾が首を傾げて訊いてきた。
あたしは驚いてぱちぱちと瞬きをすれば、月綾は「美花が上の空の時は大抵そうだもん」と、口元に手を持っていき花が咲いたように笑う。その月綾の行動に目を奪われた。
(かわいいなぁ…。)
あたしは月綾との時間に命を懸けていると言っても過言ではないくらいにシスコン(シスコンじゃなくて、月綾が大好きなだけ)なので、月綾の前で上の空なんて失態をする時は、余程他のことに気を取られている時だ。
「うん。誰が、弾いてるの?」
「あれ、美花知らなかったの?」
素直にピアノが気になっていたことを言って、さらに弾き手のことを訊いてみれば、今度は月綾が長い睫毛をしぱしぱと上下させる。その様子から少なくとも月綾は正体を知っていそうだ。
実は前々から気になっていたのだ。月に一度か二度、家のどこかから聴こえてくるピアノの音。気になってはいたものの、月綾との時間が大切すぎて今までスルーしてきた。
あたしはいつも月綾にべったりなので月綾以外の誰かということになるが、月綾以外にピアノが弾けそうな人はあまり思いつかない。なんとなく蒼翠ちゃんは弾けそうな気がするけど実際に訊いてみないと判らないし、そもそも蒼翠ちゃんに繊細な作業ができるイメージがない。葵ちゃんはよく判らないけど、ピアノを弾いてるところはイメージできる。隣花ちゃんは何でもできるけど、ピアノを弾くイメージは沸かない。
「弾いてるのは隣花ちゃんだよ。」
「そうなの!?」
いちばん予想していなかった彼女の名前に愕然としてしまう。だけど、心の中ではやっぱり、という気持ちもある。
音色がとても彼女に似ているのだ。優しくて強くて少し冷たいけれど、ほんとはとても暖かい彼女に。
「隣花ちゃんは―――――」
「月綾、少し買い物に付き合ってちょうだい。」
何かを言いかけた月綾の声を遮って、蒼翠ちゃんの声が遠くから聞こえてくる。月綾は声の鳴った方向に振り返って「はーい」と、大きな声で返事をする。
すくっとツインテールを揺らして月綾が立ち上がる。続いて地面に座ってついた草や土埃を指先で払う。その様子を見てあたしは、当たり前のことを口にする。
「行っちゃうの?」
あたしは月綾が出掛けちゃうのが残念で、しょんぼりとしながら月綾を見上げる。本当はついて行きたいけれど、最近は少し我慢するようにしているので、ぐっと堪える。
月綾は少し困った表情を浮かべてから、優しく笑ってあたしの頭を撫でる。
「少しだけだよ。すぐ帰ってくるから、ね?」
「うん………。」
「ほら、隣花ちゃんのところに行ってみたら?多分、ピアノのある部屋にいると思うから。」
どうしてもテンションの下がってしまうあたしを見兼ねて、月綾がそんな提案をしてきた。だけど、今は月綾が出掛けてしまうことが残念で淋しくてあたしは、小さく頷くだけだった。
月綾が困ったようにわたわたしていると「月綾、大丈夫ですか?」と、今度は漆黒の長い髪に碧い瞳。白い肌に綺麗な顔立ちの美人―――葵ちゃんが後方にいた。あたしと葵ちゃんで板挟みにあった月綾はおろおろと狼狽えて、「すぐ帰ってくるからね」と、あたしの頭をもう一撫ですると慌てて、葵ちゃんの方に走っていく。葵ちゃんが少し申し訳なさそうにしていたが、あたしは大丈夫というように笑顔を向けた。
一人淋しく月綾たちの後ろ姿が消えていくのを見守ってから、小さく膝を抱えてうずくまる。
早く帰ってくるといいな。ぼんやりとそんなことを考えていたら、柔らかい旋律が耳に響く。まるでひとりになったあたしを慰めるように、優しく心に染み込んでいく。
“ほら、隣花ちゃんのところに行ってみたら?多分ピアノのある部屋にいると思うから。”
月綾が残した言葉を頭で反芻して、赤い夕暮れを視界の端に捉えると、その場を立ち上がって踵を返した。
家の中に入るとピアノの音が一段と大きく響いた。その音色を辿って行くのは思ったより簡単で、すぐにピアノの音が聴こえてくる部屋が判った。
月綾はピアノのある部屋、恐らく音楽室だと言っていたけれど、ピアノの音は隣花ちゃんの個室から聴こえてくる。隣花ちゃんの私室にピアノが置いてあるなんて知らなかった。
ピアノの音で聞こえないと思うノックをしてから隣花ちゃんの部屋に入る。初めて入った彼女の私室は、彼女の好きな色である青と黒でまとめ上げられていて、彼女らしい部屋だった。
さすがにあたしが入ってきたことに気づいた隣花ちゃんは、ピタリとピアノを弾く手を休めてあたしの方に振り返る。
「…美花か。」
ふわりと鋭い雰囲気を優しくして隣花ちゃんが微笑む。柔らかい石楠花色の長髪と対照的なオールドブルーの瞳を持った隣花ちゃんは、どことなく鋭い目付きをしていて少し怖い雰囲気をしている。
最初のうちはちょっと苦手意識を抱いていたけれど、今ではすっかりそんなことも無くなった。
「ピアノが気になって来たの。」
突然来るのはおかしかったかな、と思って多少の気まずさを感じていると、グランドピアノの前に座った隣花ちゃんが優しく手招きをしてくる。その仕草を了承ととって、少し駆け足で隣花ちゃんの横に並ぶ。
「何かリクエストはあるか?」
細長く、(刀を握ったときにできたと思われる)少し傷が目立つ指先を白黒の鍵盤に乗せて隣花ちゃんが笑う。
あたしはそんなことを訊かれると思っていなかったので、慌てて「え!?あー、えーとね…」ともたもたと取り繕いながら考える。ふっ、と隣花ちゃんが笑った気がした。
そもそもあたしはそんなに音楽について知識がない。全くないわけではないけれど、咄嗟に答えが出るほど豊かではない。それに加えて早く答えを出さなきゃ、という焦りが余計に頭を真っ白にさせる。
そろそろいい加減に決めないと。そう思ったときにパッと、思い出したのはさっきの旋律。
「…さっきのが、良いな。」
なんだか取って付けてたようなリクエストだが、その曲が思いついたから仕方ない。だけど、よくよく考えてみれば今まで同じ曲(だと思われる)を繰り返し(だと思われる)弾いている隣花ちゃんにとっては、あまり良いリクエストではないかもしれない。そう考えてやっぱり取り消そうと口を開く前に「わかった」と言って、さっきの曲を弾きなおしてくれた。
柔らかくえ淀みのない音色が部屋に満ちていく。ゆくっりゆっくり、あたしの心に浸透していって何だか不思議な気分になる。
改めて聞くと尚更彼女に似た曲だ。曲調も強弱の表現もテンポも何もかも。
そりゃ彼女が弾いているのだから当たり前かもしれないし、そもそも彼女の作った曲ならば隣花ちゃんっぽくなるのも頷ける。
だけど、それだけじゃ片付けられない隣花ちゃんへの「何かが」があって、それがこの曲の世界いっぱいに広がって心地良い。
不意にピアノの音色が止まって、最後の音の余韻にがしんみりと響く。その余韻が完全に消えて、隣花ちゃんがふぅとため息を吐いたのを見計らって拍手を送る。
「あんまり長くない曲なんだね。」
少し照れたように笑う隣花ちゃんに正直な感想を言う。外でピアノを聴いている時はもっと長い曲だと思っていた。同じところを何度も繰り返していたのはわかっていたけれど、まさかこれほどの短さとは思っていなかった。
「…いや、これは“終わらない曲”なんだ。」
自嘲するように笑って隣花ちゃんが首を横に振った。その言葉の意味がよく判らず、かくんと首を傾げる。
“終わらない曲”とは?確かに最初の時はずっと繰り返していたけれど、今はちゃんと終わりがあった。曲のことはよく判らないけれど、“終わらない曲”などあるのだろうか。
「正確に言うなら、未完成の曲、だな。この曲はずっと昔にもらう約束をしていた曲でな。だが、この曲を作っていたそいつは曲を完成する前に、死んだ。」
隣花ちゃんはあたしの方から視線を逸らして、指先でひとつ鍵盤を弾く。しっとりと物憂う瞳で譜面台に立てかけてあるスコアを眺める。
今までに見たことのない表情だった。哀しそうなのにひどく愛おしそうで、柔らかい雰囲気に言葉を失い、息を呑む。
「そいつはあたしのピアノの教師で、最愛の兄だった。」
独り言のように呟くその言葉に思わずどきり、と心に冷たい水が流れ込んできた。その冷たさに心臓がきゅうっと締め付けられる。
あたしの頭に浮かんだのはあたしの双子の姉。世界でいちばん大好きな月綾。その人が氷のように冷たくなっている映像が過って―――、
「大丈夫だ、美花。月綾とお前は絶対にあたしが守ってやる。」
まるであたしの考えていることが判ったみたいに、隣花ちゃんは強く優しく気丈に微笑んでみせた。その温かい言葉に、微笑みにほっとしてしまう。
今、昔の話をして苦しいのは隣花ちゃんの方なのに。優しくて切なくて涙が出そうになるけど、泣いたら余計に重くなるだろう。拳を握りしめて涙を押し込む。
「最初のうちはな、絶望して苦しくて悲しくて壊れてしまいそうだった。けど、この譜面を偶然…見つけてからは、ちゃんと生きようと思って今まで生きてこれたんだ。」
隣花ちゃんの口調は非常に落ち着いていて、優しく柔らかい。まるで想い出をなぞるようにあたしの手をふわりと触って、握りこぶしを開かせる。伸びた爪が食い込んで血が滲んだあたしの掌を、少し冷えた手が包み込む。
「お前たちと出会った時にこの二人だけには同じ絶望をさせたくないと思った。そして、お前たちを守ることを決めたんだ。」
ふわりと綻ぶ口元の優しさがまるで母親のようで、もうひとりの姉のようで、堪らず隣花ちゃんに抱き着く。隣花ちゃんがぽんぽんと背中を撫でるので、堪えていた涙がポツリポツリ零れた。涙が奥から出てきて止まらない。
「相変わらずお前は、泣き虫だな。」
くっくっ、と笑う声は何だがとても意地悪なのに優しい。
隣花ちゃんの知らない過去を知ることができてよかった。また少し隣花ちゃんに近づけた気がする。
月綾の言う通りにしなければ、こんなやりとりもしなかっただろう。考えすぎかもしれないけど、月綾はこうなることを見越していたかもしれない。
「あ、そうだ。」
何かを思いついたような口振りで隣花ちゃんのが呟く。あたしの身体を離して、傷の目立つ指先であたしの涙を拭った。それから少し歪んだスコアをあたしに差し出してくる。ぽたぽたとスコアに涙が落ちて滲むのを見て、慌てて涙を拭いてからスコアを受け取る。そして、答えを求めるように首を傾げた。
「お前と月綾にその楽譜貸してやる。」
「えっ!?そんな……っ、貰えないよ!」
いきなりとんでもないことを隣花ちゃんは言った。あまりの驚きに涙が引っ込んで、慌ててスコアを返そうとする。しかし、隣花ちゃんは意地悪な瞳で笑った。
「誰がやると言った?“貸してやる”、とあたしは言ったのだが?」
その言葉に猛烈に恥ずかしくなる。顔がどんどん熱くなっていき、身体も続いて熱くなる。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られつつも、何とか堪えて次の言葉を待つ。
「馬鹿だな美花。」
「なっ!ば、馬鹿じゃないもん!!」
そう抗議してもハハハ、と笑われるだけで余計に居たたまれなくなる。
もういっそのこと逃げ出してしまおうかと企んでいると、突き返そうとしたスコアを改めて渡してくる。
「何度も何度もこの続きを描こうとしたが、どうにも描けなくてな。…お前と月綾なら続きが描けると思うんだ。」
受け取ってくれ。そう言わんばかりの穏やかな笑顔で言われてしまったら、もう断ることなんてできない。いや、断るつもりもない。
「うんっ!」
くしゃくしゃになった顔で目一杯に笑う。大切にスコアを受け取ると隣花ちゃんも笑ってくれた。
ちょうどその時。まるで見計らったようなタイミングで三人が帰ってきた。あたしを探す月綾の声が聞こえて、隣花ちゃんにお礼と約束を言えば、スコアを抱きしめて月綾のところに走る。
(―――早く会いたい。会って隣花ちゃんの話をしよう。そしてやっぱり月綾にあの言葉を伝えなくちゃ!)
「綾!!」
「あ、美花―――――――って、きゃあっ!」
ふわふわな笑顔であたしを見つけた月綾に飛びつく。びっくりした表情の月綾をぎゅうぎゅうと力一杯抱きしめて、あたしの気持ちを示す。
「ちょ、美花 苦し―――。」
「綾、大好き!!」
少しじたばたする月綾に満面の笑みで告げる。月綾はピタリと止まって、少し困ったような、けれど堪らなく愛しそうな表情で笑った。
「もう、美花ったら。わたしだって美花のこと大好きだよ。」
その可愛らしい表情に、愛おしい言葉にちゅう、と口をつけた。
***
「全く、あたしもらしくないことをした。」
美花の居なくなった部屋であたしはふぅと息を吐いた。
過去を、しかも美花に話すとは思わなかった。話している時も何度かなぜこんな話をしているのかわからなくなって、何度もやめようと思ったが、最後まで話した。
―――でも、それはどうやら正解だったらしい。
中庭を望む窓から下を見下ろす。手入れのされた庭にはポニーテールの少女とアコーディオンを抱えたツインテールの少女が、ひとつの紙を覗き込んで何やら難しい顔をしている。
時折、ツインテールの少女がアコーディオンを鳴らしたり、ポニーテールの少女がもどかしさに叫んだりしていて、見ていてとても微笑ましい。
そしてふと。ツインテールの少女とあたしの視線が絡む。ツインテールの少女がポニーテールの少女に喋りかけると、ポニーテールの少女もこちらを見上げた。
ポニーテールの少女が何かをこちらに向かって叫んでいるが、生憎窓で遮断されているので全く判らない。けれど、とても楽しそうにしているのでとりあえず手を振ってやる。
すると、双子はひどく嬉しそうに表情を輝かせて、大きく手を振り返した。その素直な反応にくつくつと笑いが込み上げてくる。
「ほんとうに可愛らしい妹たちだ。」
いつか二人はあたしに出来上がった曲を持ってきてくれるだろう。
その時は思いっきり抱きしめて、兄さまがよく言ってくれた言葉を二人に贈ろう。
―――――――――よくできました、と。
双子って可愛いですよね