満開の桜、一花の俺
桜の花はとても綺麗。
見ている分にはとても綺麗。
私も花になりたい。
朝、目が覚めると、俺は桜の一花になっていた。正確に言えば、花咲く寸前の、蕾になっていた。
いや、言葉にすれば実にバカバカしい話なのだが、いかんともしがたい事実であった。
何故そうなったのか、理由は思い当たらない。とりあえず今必死に昨日の記憶を辿っているのだが、答えには今のところ辿り着いていない。
昨日はしこたま飲んでいた。仕事でイヤな事があって、少しでもそれを紛らわせようと同僚を巻き込み、居酒屋で我を失う程飲んだのだ。
「バ~ッカ野郎が! あのクソ上司! 社会の歯車になって死ねってか! 会社の為に死ねってか!」
俺のクソ上司は自分の無能を脇に置いて人をなじる。「この程度も出来ないのか」「やる気あるのか?」「無能め」は黄金の三点セット。こっちが何も出来ないように足枷ばっかり作る癖に。あぁ、思い出しただけで腹が立つ。
それから、え~と、そう、それから一人になって、帰り道の途中、自宅近くの公園へ寄ったのだ。そうしたら公園中あちこちで桜がブワッと咲いてやがった。その桜並木の道を過ぎて、ちょっと外れた所で気になる木があったんだ。
夜の帳も降りきり、世界中の何もかもが暗闇の底に引きずり込まれてる中、街灯がまるでスポットライトのようにたった一本だけの桜を照らし出して、浮かび上がらせていた。
その桜は、そりゃあもう綺麗に咲いていた。桜並木の途中の木が皆枯れて、この木だけが飛び地で残ったのだと誰かが言っていたが、他の木々と遜色ない花の勢いであった。
そういえば、ニュースで九分咲き、なんて言ってたな。すっかりそんな時期だなぁと思いつつ、何もかもがイヤになっていた俺は酔っぱらった勢いでその桜の木に絡んだ。
「てめえはいいよな、そうやって咲いてりゃ、誰も彼も『綺麗だわ~』なんて言ってくれる。俺たち人間様は、必死こいて働いたって、だ~れも褒めてくれやしない。分かるか? えぇ? 分かるのかって聞いてんだよ!」
思い切り幹を蹴飛ばしてやる。俺の足の方が痛かった。
「いっててて……くそ、お前までそうやってバカにすんのかよ! ……俺も花になって、そこにいるだけで良いなんて言われてみてえよ……ちくしょう……俺の人生、意味なんて無いのかよ……」
最後には泣きが入る。我ながら悪い癖である。
……そういえば、ここで声がした気がする。
「わかった~」
子どもとも、老人とも取れない不思議な声。俺はそれに気を配ることなく、その場でうずくまって眠った。
そして今になる。いや、「何で?」って聞かれても、それは俺が知りたいくらいだ。
とはいえ、花の立場ってのも、なってみれば存外悪くない。
この公園は通勤路にもなっていて、朝になれば背広姿で歩く連中が散見出来る。そいつらを、文字通り高みの見物としゃれ込める訳だ。ははは、忙しそうだな。花の俺には関係ないがね。
何ら束縛のない命。ただ一輪の桜の花だ、一体誰が、何を強要できようか。
気分がいいので鼻歌でも歌おうか、と思っている矢先、隣の花が声を掛けてくる。
「おい、隣の。お前もそろそろ咲かなきゃまずい時期なんじゃないのか?」
なかなか斬新な呼びかけである。だが俺は、本能的に「確かにその通りだ」と受け取る。
しかし……
「おい、どうした?」
「……どうやって咲くんだっけ?」
俺の返答に、表情こそ分からなかったが、隣の花は間違いなく呆れていた。
「お前それ、本気か?」
そんな事マジメに言われたって、こちとら蕾の初心者だ。咲いた事なんて一度もない訳で、教えられでもしなければ分かるはずなど無かった。
「いやぁ、すまんすまん。本当に分からないんだ」
「……はぁ……よくそれでこの木の花になろうと思ったな……」
溜息混じりに言う。お前は俺の上司か、とかちんと来たが、ここはぐっと堪えた。
「いいか、花を咲かせるには、付け根の辺りにグッと力を入れ、体の中の糖分を高め、水分を蕾の中に呼び込むんだ。難しい事を言えば、ホルモンを高める感じ」
何だか、難しいような簡単なような。とはいえ、付け根の辺りに力って……へその辺りに力を入れるイメージか?
「ふんっ!」
……おぉ、何かが来る感じ。体の中の変化を感じる。
しかし隣の奴には不満だったらしい。
「おいおい、それマジでやってんのか? もっと力入れろよ!」
おいおい、マジか。これでも結構力入れてるんだぜ?
「ふんっっっ! ぬぉぉぉぉお!!」
かつて無い程へそ(?)に力を込める!すると確かにすごい勢いで水分が体の中に入ってくるのが分かった。
自然、乾いていた細胞に水分とエネルギーが充足し、細胞が増殖していく。自分の体が拡大していくのが分かる。体の外側というよりも、内側からの増殖が著しく、まるで卵の殻を突き破るように膨らんでいき、花びらが押し開いていく。おぉ、筋肉もなく花が開くのはこういう道理だったのか。
「やれば出来るじゃないか」
そう、俺はやればできるんだ。何だってね。
これでめでたく俺は蕾から花の仲間入りを果たし、この桜はめでたく満開となった。
「綺麗だわ~!」
老若男女、行き交う人が皆、俺を見て、この桜を見てそう言う。そうだろうとも。なにせ満開の桜だからな。俺からは良く見えないけどな。
俺は少し誇らしげな気持ちになる。他人からの優しげな目線。しばらく無い事だったから。
花の人生ってのも、悪くないもんだ。アイドルにでもなった気分だ。
時には鳥の訪問もある。ヒヨドリが木々の隙間を抜け、蜜を吸っていく。こんな至近距離で鳥なんて見た事がないから、かなりの大迫力である。
一方で、雀の奴が来た場所は悲惨であった。奴らクチバシが短いから、花を根本から千切って蜜を吸っていきやがる。あ~あ~、ご愁傷様。
そういえば。
「花と言えば受粉だが、そういうのってないのか?」
隣の奴に尋ねる。例の如く呆れている。
「この木の名前、知らないのか?」
「知らん。桜って事ぐらい」
「……この木はな、『ソメイヨシノ』って言うんだ」
「ほう……それで?」
俺の返事に、隣の奴はいよいよ言葉を失う。何かおかしな事言ったか?俺。
「いいか。『ソメイヨシノ』ってのはな……種が出来ない品種なんだよ。だから受粉とか、気にする必要はない」
知らなかった。ていうか、大概の日本人は知らない事実じゃなかろうか、それ。
「じゃあどうやって増えるのさ?」
「挿し木だよ。枝を折って、発根剤塗って土に刺せば、それで増える」
は~。すごいもんだ。さすが植物。……ん?
「え、じゃあ花が咲く意味って?」
「は? 人が見て、楽しむ為に咲く。それだけだろ?」
「普通、子孫を残すとか何とか、もっとあるじゃん?」
「この木には無いよ」
「無いの?」
「無い」
驚いた。花ってのは、子孫を残す為だけに咲くもんだと思っていた。それが、人を楽しませる為だけに咲くのだという。
「じゃあ咲く事に意味がないのか?」
「何を言ってるんだ。俺たちは『そういう』存在だ。意味があるとかないとか、そういう問題じゃないだろ?」
禅問答のようだ。このまま平行線を辿り続けそうだったので、俺は議論を止めた。納得は出来ないが、これ以上難しい事を考えると、頭から煙どころか火が立ち上がりそうだった。折角花の人生を謳歌しているんだ、人間社会のように小難しい事を毎日考えている必要もあるまいよ。
あれから大分時が経ち、俺も周りの奴らも萎れ始め、行き交う人の誰もが俺たちを見上げなくなった。
桜の終わりの時期ってのは寂しいものだと前々から思ってはいたが、自分で体験してみるとこんなにも寂しいものかと痛感する。
……で。
「これからどうするんだっけ?」
いつもの如く、俺は隣の奴に尋ねる。隣の奴も大分萎れてしまっているが、呆れ顔になっているのは分かる。慣れたものだ。
「お前、本当に何も知らないのな……まあいい。次は付け根の辺りに力を入れて」
「ふむふむ」
「切断する」
「……は?」
「自分で切るんだよ。正確に言えば、付け根の細胞をアポトーシス、自殺させる。これで俺等の役目も終わりだ」
淡々と、さも当然のように言う。
「いや! いやいや! こんだけ一生懸命この桜を盛り上げて、人を喜ばせて、最後は自殺って無いだろう!?」
「何を騒いでるんだ。『そういうもの』だろう?」
「そんな事言ったって……」
「終わらない命は無い。大体俺たちがこのまま残り続けたらどうなると思う? ここで腐って、それが元になって木の方に病気を呼び込む事になる。大元になる木が枯れちまったら、元も子もなくなるだろう?」
「そりゃあそうなんだけどさ……」
納得出来ない。あれだけ華やかに咲いて、終わったらはい死んでね、なんて受け入れられる訳がない。
「だから土の上に落ちて、腐れて養分になる。それを目当てで集まった虫もそこで死んで養分になる。巡り巡って本体の為になるのさ。『そういう』役割なんだよ。花の社会のシステムというものは『そうなっている』。『そういうもの』なんだよ」
特別な感情など何一つ込めずに、隣の奴は言う。
「そんなの……意味がない人生みたいじゃないか」
人間の頃の、俺のように。上司に認められず、求められず、腐っていた俺のように。
そんな俺の絞り出すような言葉に、隣の奴は淡々と言う。
「意味って、必要なのか? 役目を果たすよりも?」
言葉に詰まる。
意味のある人生とは?考えた事もない。当然、そんなものを求めた事もない。
無私で皆を助ける為に働く事?それは奴隷と何が違う。
この世のあらゆる素晴らしい事を体験する事?死んだらゼロだ。何も残らない。
子孫をたくさん残す事?その割にそれで満たされた、意味のある人生だったなんて回顧録は見た事がない。
俺は……どうなりたかったんだ?この社会の中で、どんな場所に、どんな風にいたかったんだ?
俺にはこれまでの人生の中で、『こうなりたい』という具体像がまるでなかった事に、たった今気付いた。
「生まれて死ぬ。その間に役目があれば、それをこなす。それで十分いいじゃないか。
いちいちそこに意味だとか価値だとかを見出して一喜一憂するのは、人間くらいなものだろ?」
そうか。価値観が違う。けど、だからこそ分かる。そういえば、昔誰かが言っていた。『この世は辛い事しかない。どうしようもなく、そういうものだ』と。そして『だからこそ、それを受け入れ、強く生きねばならない』と。
「あぁ、俺はもうじきだ。もう聞きたい事はなくなったな? それじゃあな」
プチリ、と小さな音を立てて、隣の奴は本体との繋がりを失い、引力に従って落ちていった。遠く地面には大量の死骸の山。ポトリと落ちた隣の奴は、すぐにどれが奴だったか判別が付かなくなってしまった。
……俺もあそこに飛び込まなければならないのか。自らの決意の元に。
『そういうもの』だ。最初から『そういうもの』なんだ。そう自分に思いこませようとしても、自らで自らの命綱を切り離し、命を捨てて役目を果たさねばならない、なんて、怖すぎる。
呼吸が乱れる。思考が上手くまとまらない。
『終わらない命なんて無い』。言葉じゃ知ってるけど、それだけだ。まして、自分で命を絶つ日が来るなんて、考えた事もない。今日が自分の人生の最後の日だなんて、思った事もない。
今こうしてまざまざと突きつけられて、初めて体感する。自分が今まで生きてきた事を。そして、いつかは死ぬんだと言う事。
それが今だと言う事。
「う」
イヤだ怖い!けど、役目を果たさなきゃ!震える体に力を込める!チリチリと命綱がちぎれていくのが分かる!
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
遂にプチリと付け根が切れて、俺は地面に目がけて……
ドタン!と大きな音。そして全身を襲う猛烈な痛み。
「っってぇ!!」
しばらく痛みに悶えた後、自分が自宅のベッドから落ちた事に気付いた。
全く酷い夢だった。夢の中だってのに、なんであんなに追いつめられて、果ては自殺せにゃならんのだ。
「……」
最低な目覚めだった。
後々同僚に確認してみたら、心配して着いてきたら、酔っぱらって桜の木の下で寝ていたのだという。蕾を一つ、握りしめて。
そこでは風邪を引くだろうと自宅まで連れてきてくれたそうだ。今度何か奢ってやらねば、一生恩を着せられそうだ。
時間のある時に、ふと気になる事があって図書館へ行った。
「本当だったんだなぁ」
例の『隣の奴』が言っていた事。ソメイヨシノは種をつけない。そして花がどのようにして開くのか、終わった後に落ちるのか。まさに自分が体験してきた事が書いてあった。
「花の世界も、厳しいもんだな」
人間世界と同じように。
社会の為に生き、社会の為に死ぬ。社会に生かされている以上、それは果たさなければならない。俺らはそれぞれが、一つの大木の、一つの花でしかないのかもしれない。その社会の中の、自分の命の位置づけについて考えると、何とも頭が痛くなる。
いや、俺が気付いていないだけで、木には木の苦労があるのかも知れない。俺は俺が、花が一番不幸だと思っていた。
それでも人間の世界では、役に立たなくなったら死ね!という奴はそうはいない。その分だけ、人間の世界は気楽なんじゃないかと思えた。
「いざとなりゃ、イヤな場所からは逃げられるしな」
足をポンと叩きながら、立ち上がる。
その帰り道、公園はすっかり桜の花が終わり、地面は落ちた花で一杯になっていた。あの時の死骸の山のようで、その中にあの友がいるようで、踏んで歩くには忍びなくなり、なるべく避けて歩いた。
桜並木が途切れ、そして公園の外れにある、例の桜の前で足を止める。花の終わりかけの頃ではあるけども、相変わらず綺麗だ。
夢の中で知った桜の苦労を思うと、自然と口から「お疲れさん」の言葉が出た。
満開の桜の木が、笑ったように少しだけ揺れた。
花の一生、人の一生、それぞれ苦労はあるけれど、それぞれ良い事だってあるはずさ。